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 2005年9月の独想録


 9月4日  神秘学者という肩書き
 私はこれまで、「肩書き」というものでしばしば悩んできた。
 記事などを書いたりするときには、肩書きを書くようにいわれるからだ。
 初期の頃は、オカルト雑誌などで記事を書くときには、「神秘学研究家」などという肩書き(?)をつけて名前を書いてきた。今では少し格好をつけて「作家」だとか「思想家」などと書くことがあるけれども、果たしてそれが適切なことなのかはわからない。自分で何者なのかが、よくわかっていないのだ。心理カウンセラーをしているから、そう名のるときもあるし、占い師もしているからそう名のるときもある。自分としては“芸術家”であると勝手に思ったりすることもある。だから、私の名刺には肩書きというものが書かれていない。名前と住所、電話番号にメールアドレスだけだ。
 しかし、肩書きは定まらないけれども、私が貫いてきていることはひとつである。それは宇宙の真理や法則、神の理念を探求し、それを実践すること、また、その結果として世界の平和に貢献すること、これだけだ。これまでさまざまな本を出してきたけれども、そのすべてにこの目的が貫かれていることは、読んでくださった方には理解していただけると思う。
 では、こうした活動をしている人には、どのような肩書きがふさわしいのだろうか?
 こういう研究分野は、やはり「神秘学」とか「神秘思想」ということになる。なので、神秘学研究家は間違っていないし、神秘学者だとか、神秘思想家といってもいいのかもしれない。
 ただし、私は「神秘主義者」ではないと思っている。
 「主義」という言葉に抵抗があるのだ。主義というと、その信念なり、やり方が第一優先であるといったニュアンスが感じられるからだ。つまり、その主義を実践することが目的そのものであるといったように宣言しているような感じがしてしまうのである。
 しかし、私にとって神秘学は、あくまでも手段であって目的ではない。神秘学の道を歩むことそのものを目的とはしていない。つまり、主義(イズム)ではないのだ。主義というものは、ともすると危ないものであると思っている。
 いわゆる「菜食主義者」という人がいる。菜食主義は、もともと身体にいいからそうしたのかもしれないし、生き物を殺すことを拒否するからそうしたのかもしれないが、「主義」となったとき、いつしかその目的から逸してしまい、主義そのものの方が重要になってしまう危険がはらんでいるように思われる。イヤイヤながら野菜を食べるよりも、肉であっても喜んで食べる方が、結局は身体によいかもしれない。菜食主義を貫くあまり、肉食をする人に対して攻撃的な言動を向け、争いが生じて人が傷ついてしまうかもしれない。だとしたら、菜食主義であることが生命を尊重していることにはならない。
 そうした理由で、私は神秘主義者ではないし、いかなる「主義者」でもない。
 ところで、宇宙や神の真理といった「神秘」というものは、究極的には人間の知性や論理では認識不能である。だからこそ「神秘」と呼ばれるのだが、真に神秘学というものを追求していったなら、知性や論理で把握できないわけであるから、しだいに言葉というものが失われてしまうことになる。いわゆる神秘学とされるさまざまな知識や体系は、「神秘」のモデル、比喩にすぎない。そうした知識や記述そのものが神秘なのではない。それらは神秘の虚像であり、ある種の「偶像」である。最初は知性や論理を使って知識を蓄え、それを建築の足場のようにして神秘学を学んでいくけれども、やがて建築物が建ってしまえば、足場は邪魔になる。つまり、知識は邪魔になる。神秘に対して記述されたいかなる言葉も空しいものであることがわかってくる。神秘を表現する言葉は存在しないことがわかってくる。「神秘とはこういうものだ」という言葉は存在しないこと、いいかえれば、神秘に対する「肩書き」は存在しないこともわかってくる。
 宗教というものは、その究極の源泉はいうまでもなく神であり、神は人間には完全には認知できない神秘であるわけだから、結局のところ、宗教の本質はすべて神秘ということになる。
 つまり、どのような宗教であれ、その宗教の本質を極めたなら、結局は神秘の領域に参入することになるのであり、名のるか名のらないかは別として、すべての人は神秘学者、神秘思想家、神秘家ということになる。
 そして、神秘は言葉を超えているから、肩書きなどというものもあるはずもなく、それゆえ、真のキリスト教徒なら、自分のことをキリスト教徒の肩書きをもって名のることはなく、真の仏教徒も自らを仏教徒として名のることはない(と私は考えている)。
 もちろん、社会に対しては、便宜的にキリスト教徒であるとか、仏教徒だということはあるだろうけれども、その肩書きを精神的なアイデンティティとして用いることはあり得ない。
 ならば、神秘学研究家、神秘学者、神秘思想家、神秘家など、呼び方はどうであれ、そのような「肩書き」を掲げて社会的に紹介することは便宜的にあるとしても、私自身は、そのような存在として自らを認知しようというつもりはない。
 そして、おそらく、宗教に限らずいかなる分野であれ、道を究めた人、すなわち神秘の領域にまで参入した人というのは、究極的な本質は言葉を超えたものであることを理解するだろうから、肩書きと自分を同一化させるようなことはないだろう。極めた人ほど、「自分は何者でもない」という思いが強くなっていくに違いない。「自分はひとりの人間である」と思うかもしれないし、「自分はひとつの生命である」と思うかもしれないし、「自分は存在するところのものである(I am what I am→あなたは誰ですかとモーセから問われた神が自分自身を表現した言葉)」と答えるかもしれない。究極的には、自分は何者かなどという思いさえなくなり、自分に対して無意識となり、ただその生き方と存在が神秘そのものとなっている人になるのだろう。


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 9月15日  努力型と天才型
 世の中には、天才と呼ばれるような人もいて、ちょっと習っただけで器用にできてしまうような人がいる。たぶん、こういう人は、「努力」ということがあまり重い感覚なしに育っているような気もする。
 一方、決して器用ではなく、むしろ不器用であり、一所懸命に勉強するのに、なかなか上達せずにパッとしない人もいる。それでも努力をひたすら続けるので、それほど鋭くはないにしても、そこそこ物事を上手にこなすような人もいる。こういう努力型のタイプの人にとって、「努力」というものは、まるでリンゴや柿の木を植えて収穫されるまで世話をし続けるような、そんな重みがある。誰だって種を蒔いて一ヶ月や二ヶ月で果実が食べられるなどと思わないように、努力型の人にとって、努力が実るのはずっと先のこととして見据えている。そして、毎日毎日、努力しても、ほとんど成果が見られない長い歳月を過ごすことになる。短期間のうちにマスターしてすばらしい業績をあげている天才を見ると、自分は無能なように思え、苦労して努力することが空しく思えたりするときもあるに違いない。だが、そうした思いにも負けずに、努力型の人は、来る日も来る日も、ひたすら努力をし続ける。
 そして、そんな努力型の人が、天才ではあるがあまり努力しない人を超える日がやってくる。
 努力をしない天才の最大の弱点は、実力が安定しないということだ。
 調子がいいときはすばらしくうまくいくが、何らかの理由で調子が悪くなると、とんでもなく出来が悪くなる。そしてそのまま昇ってこれない……といったことも少なくない。
 不調になると実力がガタンと落ちてしまう最大の理由は、「克己心」の欠如、すなわち「自己コントロール力」の欠如なのだ。
 誰だって、気分が乗らず努力をサボりたいときもあるし、プライベートで面白くないことが起こるとイライラしたり悲しくなったり、動揺して、努力をしたくないときがある。そんなとき天才型の多くは、気分が乗らないといってサボったり、気持ちの動揺に流されて努力できなかったりする。換言すれば、そういう状況を自分に許してしまう。天才なので、そうしてもすぐには支障を来さないし、周囲も世の中も、天才の気まぐれといったことで、それを許してしまったりする。
 しかし、努力型の人は、たとえそんなときでも自分を律して努力を続けるので、多少のことでは取り乱したりしない自己コントロール力が鍛え抜かれた状態になっている。
 そして、人生の大切な場面においてすばらしい力を発揮するのは、案外、才能よりも、自己コントロール力の強い者であり、つまりは「自分に打ち克った者」なのだ。
 そうした努力型の人は、環境的に不利な状況に置かれたり、予期せぬ突発的な波乱が起こったとしても、安定した実力を発揮しやすい。多少の出来不出来はあるとしても、天才型のようにとんでもなくダメになってしまう、ということは少ない。どんな状況でもそこそこの成果をあげることができるのだ。人生、調子のいいときばかりなんてあり得ない。調子の悪いときこそ、人間の真価を試されるときだ。
 長い間、努力をし続けてきた者は、感情や気分に流されてイライラして周囲に当たったり、落ち込んでしょぼんとして周囲を不安にさせることなく、たとえば約束は必ず守るし、メールをしても返事はくるし、どんなこともやるべきことは確実にやるから、堂々とした不動心のようなものを周囲に感じさせ、信頼を勝ち得ることができる。
 信頼を勝ち得た者は、すばらしい協力者に恵まれるから、長期的な視野に立つなら、結局は天才型の人よりも、努力型の人が、トータルでいえばすばらしい業績を残すのではないかと思う。
 もちろん、天才でありながら努力をする人なら、まさに鬼に金棒、これほどすごいものはないだろうけれども、そんな人がどれほどいるというのだろう? たとえば野球のイチロー選手などはその典型かと思うが、こういう人はそれほど多くはない。努力をする天才というのは、宝くじの当選者よりも少ないかもしれない。
 だから、人生における成功と勝利の大部分の要素というのは、結局は、努力するかしないかということだけにかかってくるのではないであろうか。


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 9月27日  「明日こそ幸せになれる」という希望が裏切られたとき
 先日、ホスピスに一人の患者さんが相談に来られた。50代のこの女性は、今までさまざまな苦労をしながらも、「明日こそ幸せになれる」という希望を抱いてがんばってきた。辛いことがあっても、「明日こそ、明日こそ……」と思いながら堪え忍んできた。そして実際、経済的にも家庭的にも落ち着いてきて、ようやくこれから幸せを享受できる、幸せな余生を送れるはずだった。そんな矢先、体の不調を感じて診察を受けたところ、癌であることが判明し、すでにあちこち転移して手の施しようがなく、余命二、三ヶ月といわれた。
 もはや「明日」がなくなってしまった女性は、これまでの自分の人生が結局は苦労だけだったことを悟り、激しい憤りの念を覚えた。
「今まで娯楽も楽しみも自由も犠牲にしてがんばってきた報いがこれなのか!」
 世の中の不公平と人生の不条理を呪い、家族に対しても退廃的で冷笑的な態度をぶつけるようになった。
 希望というものは、人間を絶望の淵から救い出してくれる偉大なる救世主であるが、同時に、最期になってあまりにも悲惨な「裏切り者」に姿を変えてしまうこともある。
 多くの人が、未来に幸せが待っていることを信じればこそ、目先の安楽な生活や誘惑に負けることなく、辛いことも受け入れながら努力をしている。もしそんな希望がなかったら、ほとんどの人は刹那的な快楽に溺れ、その日暮らしの生活に終わってしまうかもしれない。
 だが、そんな「希望」から最期になって裏切られることがあるのなら、「明日こそ」などと考えて禁欲的に努力するよりも、今この場の楽しみを享受して生きた方がいいような気もしてくる。
 実際にはそこまで徹しきれる人は少ないだろうが、「明日こそ」と希望して現在を犠牲にして生きることは、ある種の「ギャンブル」であることに違いはない。
 あるいは、現在、いっさいの楽しみなど享受できる事情にない人は、否応なく未来にしか希望をつなげることはできないであろう。
 いずれにしろ、そうしてさんざん苦労したあげくに病気で死んでしまうなら、とても浮かばれない話である。だが、こういうことは少なからずあることだ。
 少なからずあることなので、希望を持ち続けながらも、その希望が浮かばれない結果に終わる可能性もあることを、私たちは常に覚悟しながら生きていった方がいいのかもしれない。その期待が裏切られたときも、平然としていられるような境地を磨きながら。
 これは、希望を百パーセントは信じないで、少しだけ当てにして生きるという中途半端な状態ではなく、希望が叶うことを疑いなく百パーセント信じながらも、たとえ、その希望が裏切られたときでも、潔く平静にその結果を受け入れて結果にこだわらないという精神のことである。
 こういう精神を養うことは、もちろん容易なことではないだろうが、こういう精神をめざして生きていくことは、人間的な成長を促すよい方向性になるかもしれない。これが本当に「人生を愛する」ということなのかもしれない。なぜなら、愛というのは報いを求めない無条件なものであるからだ。
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