HOME独想録

 2005年5月の独想録


 5月2日  光り輝く闇
 人生の幸せというものは、やはり究極的には「愛」に依存しているように思われる。どんなに物質的に恵まれていても、それだけでは幸せにはなれない。愛の関係の中に存在していなければ、おそらく、人間が真の意味において幸せを感じることはできない。その愛が深ければ深いほど、人間の幸せも深くなっていくに違いない。
 だが、愛が深いとはどういうことなのか?
 愛は無条件であり、それは決して個人にだけ限定されるものではない。ひとりの人を真に愛する人は、世界の人々にもその愛は向けられるはずである。「自分たちだけ幸せなら他の人がどうだってかまわない」というような愛は、真の愛ではない。
 だが、そんな無条件なる真実の愛が深くなったら、自然な方向性として、その愛は、この世界でもっとも愛が必要な人に流れていくだろう。
 この世界でもっとも愛が必要な人とはどんな人なのか?
 それは、人間の尊厳を保つことさえできないほど貧困で劣悪な環境に住んでいる人たち、殺されたり病気で死んだりして親を失った子供、あるいは虐待を受けて心がズタズタになってしまった子供、孤独なお年寄り、悪い道にはまりそれに溺れて自己破壊的な苦しみを受けている人、その他、悲惨な生を生きている数え切れない人たち……であろう。
 愛は、決して同情ではない。高みから見下ろすような「憐れみ」の感情ではない。
 愛は、共感であり、心をひとつにすることではないだろうか。苦しむ人と共にあること、その苦しみを分かち合うことではないだろうか。
 したがって、愛が深くなればなるほど、もっとも愛を必要としている人たちへの共感が深まり、その人たちの苦しみを自分のことのように感じるようになるのではないだろうか。
 しかし、愛が深くなれば深くなるほど、人間は幸せになるはずではなかったのか?
 なのに、愛が深くなればなるほど、悲惨な人の苦しみに共感することになるのだとしたら、幸せどころではないだろう。
 これは、愛というものがもつ、根源的な両極性であり、矛盾であるように思われる。
 すなわち、真実の愛とは、もっとも深い幸福であると同時に、もっとも深い苦悩なのだ。
 おそらく、真実の愛をもっている人は、とてつもなく明るい人格をもち、苦悩する人の心を照らしているに違いない。常に暗く不満をもらしているような人は、本質的には自分のことにしか意識の焦点を向けていないためにそうなっているのであって、愛があれば、エゴにとらわれていないということだから、きっと底抜けに明るいのだと思う。
 しかしながら、その明るさは、深い苦悩の暗闇に裏打ちされているのだ。他者の苦悩を知り抜き、それに共感しつつもなお、明るさを放っているのが、おそらくは真に愛する人の特徴である。すなわちそれは、苦悩の暗闇そのものが光源となり、そこから光が放たれているようなものだ。神秘主義の世界では、「光り輝く闇」と呼ばれる。このように、闇から放たれた光は、非常に強烈であるが、人の目をまぶしくさせるようなことはない。暗黒を知る光こそが愛から放たれる光だ。それは太陽よりも明るいが、それを見つめる人々の目を焼いてしまうことは決してない。


                                            このページのトップへ    
 5月15日  インターネット時代の被害妄想
 以前、少し知っていたある人から、急にメールがきたことがあった。「掲示板に私の悪口を書かないで下さい」というのである。どうも、2チャンネルだか何だか知らないが、そういう掲示板のサイトで、私がその人の悪口を書いていると思ったらしい。「話の内容から、斉藤さんしか考えられません」というのだ。
 私はこれまで、その種の掲示板などろくに見たこともないし、見ようとも思わない。まして、そこに書き込みを入れたことなど一度もない。まともに意見交換している掲示板もあるだろうが、私がチラリと覗いた限りでは、ひどく幼稚な書き込みや、醜いののしりあい、悪ふざけの舞台になっていた。そのようなものを見ても何の利益もないし、そこに意見を書いて論争しても、何も実りあるものは出てこないだろう。人生の時間は限りがあるのだから、そのようなことに関わることは、人生の浪費であると私は思っている。
 それはともかく、ひとつ考えさせられたのは、インターネットの時代においては、「あの人が掲示板で私の悪口をいっている」といった、新たな「被害妄想」に陥る人が出てくるということだ。
 むかし、アイドル歌手のコンサートに行ったある女性から、次のような相談をまじめにされたことがある。「ステージの上の彼が私を見つめたんです。彼が私に好意をもっていることがわかりました。どうしたらいいんでしょう」
 これは被害妄想の反対(何と呼ぶのかはわからないが)ということになるのだろう。これならまだ笑って過ごせるかもしれないが、私の知らないところで、「斉藤が掲示板に書き込みを入れて自分を馬鹿にしている」という、誤解というか妄想を抱かれている可能性があるということは、考えれば恐ろしいことである。自分で勝手に膨らませた怨念が積もりに積もって、いつのまにか恨まれているといったことが、まったくないとはいいきれない。
 そうした人たちが、私に事実確認を取ってくるならいいのだが、仮に確認を取ってきて、私が「書き込みなんかしていない」と弁明しても、一度妄想に取り憑かれたら、それを信じてもらえないかもしれない。
 結局、インターネットにおけるこうしたリスクは、防ぐことができないのかもしれない。
 ところで、被害妄想になる原因というのは、いろいろあるだろうが、ひとつには、実際に過去に何らかの被害(たとえば、“いじめ”に遭うといったような)を受けたことがあり、それが心のトラウマになって、過剰に自分を防衛しようとする気持ちが働いた結果なのだろう。そういう場合、すべての人は自分に悪意をもっていて、攻撃しようとしているに違いないという妄想を抱くようになっても、あながち理解できないことでもない。
 こうした気持ちを癒すには、決して敵意をもつことのない、深い愛情と優しさをもった人たちとの、長期にわたる関係性が必要かもしれない。そうすれば、その歪んだ気持ちが少しずつ癒されてくるに違いない。
 しかしながら、一度傷ついてしまった心は、非常に疑心暗鬼になっているので、すぐにその防衛的姿勢が改まることはなく、しかも悪いことには、周囲の人たちが本当に信頼できるかどうかを、意識的か無意識的かはともかく、「試す」ことがあるということだ。具体的には、わざと不愉快にさせるようなことをして、それでもなお、自分を攻撃しないかどうかを確かめようとしたりするのだ。
 だが、そういう「テスト」に耐えられる人というのは、ほとんどいない。せっかく善意で親切にしてあげたのに、感謝されるどころか、ますます怒らせるようなことを言われたり行ったりされるからだ。こうして、結局のところ、もっとも愛を必要としているにもかかわらず、もっとも愛から見放されるような境遇に、自らを追い込んでしまうことがある。
 大切なことは、人の善意を疑うことではなく、人の善意を感じ取れる感性ではないだろうか。そんな感性を覚醒させたとき、ほんのわずかな善意と優しさに触れただけでも、傷ついた心は癒されると思うのだが。


                                            このページのトップへ    
 5月22日  頭がよくなる方法
 私は、いわゆる「頭がよくなる方法」といった本が好きで、ときどき目を通す。ただし、「頭がいいとはどういうことなのか」という問題は、ここでは論じないことにする。単純に、頭の回転が早いとか、記憶力がいいとか、推理力が働くといった、世間一般でいわれている意味に限定して話を展開させてみたい。
 さて、人間は生きている限り成長するべきであり、「成長」とは、いってみれば「脳」の成長であるともいえよう。人間の本質は精神(魂)であり、その本質は非物質的で霊的なものであるとは思うが、少なくてもこの地上世界に生きている間は、その精神を運ぶ媒体は「脳」であるわけだから、脳という内臓の機能を高める努力をすることは必要であると思っている。
 そこで、「頭がよくなる方法」なる本を読むと、さまざまな学者や研究者が、それぞれの立場からいろいろな意見をいっている。栄養的な面でいえば、DHAという、魚などに含まれる不飽和脂肪酸の一種がいいらしい。ということで、友人からDHAのサプリメントをもらったので少し試したことがあるが、自覚的には、あまり頭がよくなったような感じはしなかった。むしろ、自然の食品から摂った方がよさそうだ。小魚にも含まれているようだから、私は煮干しなどをムシャムシャと食べることにしている。また、クルミなども頭にいいらしいので、そちらもときどき食べるようにしている。すると、少し頭がよくなったような感じが(何となく)するときもある。
 栄養の他には、身体を動かすことも大切らしい。なので、いわゆる「ガリ勉」ばかりして身体を動かさないのは、よくないらしい。運動をして筋肉や神経を使うことが、そのまま脳の活性化に役立つようなのだ。
 他にも、速読や速聴、百マス計算、パズルといった脳を鍛えるエクササイズや、「思考法」といったコンピューター的な問題解決のためのアルゴリズムを紹介したようなものもある。「恋をすると頭がよくなる」と主張する人もいる。
 しかし、私は結局、もっとも頭がよくなる方法というのは、次の二点ではないかと思うようになった。
 1.人生の明確な目的をもつこと
 2.その実現に向けて情熱を燃やすこと
 人間の脳というものは、明確な目的をもつと、それを実現するために自動的に働くようになる。しかも、情熱を燃やせば燃やすほど、脳はその実現のために、もっている機能をフルに活性化させるようになる。そのため、パッとすばらしいアイデアが閃いたり、勘や推理が冴えたり、その目的実現のために必要なことは、すばらしくよく記憶できてしまったりする。
 人生の目的というのは、単に「お金持ちになりたい」とか「有名になりたい」といったような、漠然としたものではなく、もっと具体的なことだ。たとえば、私の場合でいえば、「○○に関する本を出版したい」といった目的である。もちろん、もっと遠大な目的を立ててもいいが、最初はなるべく短期で実現できるようなものがいいかもしれない。
 そして、大切なのは何といっても情熱だ。明確な目標があり、それが真に自分にふさわしいものであるならば、自然と情熱もかきたてられるはずだ。脳は情熱のエネルギーを注ぐと、本当にすばらしく回転を始める。恋は基本的に情熱的なものだから、恋をすると頭がよくなるという説は、本当なのかもしれない。
 逆にいえば、目的をもたない生活を送り、情熱も恋もなかったら、頭はみるみる退化してしまい、馬鹿になり、ついにはボケてしまうのかもしれない。


                                            このページのトップへ   
 5月30日  人生を充実させて生きるために
 人生を充実させて生きるには、おそらく、二つの気持ちが大切なのだと思う。
 ひとつは、それを初めて体験するときに抱く「新鮮な気持ち」であり、もうひとつは、生きるか死ぬかというような「必死な気持ち」である。
 私などがよく経験するのは、締め切り間際になって原稿を仕上げるといったことだ。もう時間がないというような状況に追い込まれると、ものすごい力が出て、いい発想が浮かび筆も驚くほど進んで、結局は何とか締め切りまでにそれなりの記事が書けてしまう。いわば「火事場の馬鹿力」というわけだ。
 この力を、「火事場」でなくても、普段の生活の中で常に出し切って生きることができたら、さぞかし仕事の能率は高まって、いろいろなことができるだろうなと思うのだが、情けないことに、こういう「必死な気持ち」というものは、本当に必死な状況に追い込まれないと出てこない。
 同じように、何であれ、それを初めてやるときの、あのワクワクする新鮮な気持ちが、もうすでに何回も経験したルーティンな仕事に対しても持ち続けることができたならば、何と幸せなことだろう。すでに飽きるほど顔を見た夫婦や恋人たちのなかで、この気持ちが死に絶えることなく脈動し続けたならば、愛というものは、まさに永遠に色あせることなく二人を結びつけてくれるに違いない。
 けれども悲しいことに、大人になり、中年にさしかかる頃には、ほとんど「新しいもの」というものはなくなり、どれも過去に経験したこと、あるいは過去に経験したことのバリエーションにしか過ぎなくなってしまう。新しい恋人はできるかもしれないが、恋の経験は初めてではないので、恋も恋人も共に新しい「初恋」に比べたら、その気持ちはまるで、使い古された辞書のように、どこかくすんでしまうように感じられる。
 かつて、私は人一倍、夢を見る少年であった。世界というところは、ロマンチックなすばらしい出会い、すばらしい体験に満ちた、巨大な宝石箱のように感じられたものだ。私は世界をさすらう旅人で、世界中を冒険するつもりでいた。どの国に行っても、そこで出迎えてくれるのは、笑顔に満ちた人たち。インドへ行けば聖者が出迎えてくれて、一緒にアストラルの世界さえ旅することだってできるはずだと。
 しかし、大人になって私が見たものは、粗野で悲惨な世界であった。たまに見え隠れする「輝き」は、真夜中のネオンのそれであり、空虚な光であった。人生というものの大部分は、味気ないパターンの繰り返しに過ぎないということを知った。
 私はカウンセラーとして、鬱病の人によく対面する。彼らは「こんな世界、こんな人生なんて、生きたって意味がないから、いっそのこと死んでしまいたい」という。
 その言葉に対して、「そんなことはない。この世界はすばらしいところだし、人生だって、すばらしいものだ」と、自信をもって説得できない自分に、奇妙な違和感というか、ある種の罪悪感を感じてしまう。世界や人生は、ときにすばらしく見えることがあることは確かだし、もしかしたら本当はすばらしいのかもしれないが、「世界はすばらしい、人生はすばらしい」と声高に語る人の大部分は、世界や人生の表層だけを見て、単なる気分に流されてそういっているだけに過ぎないのではないかと思うときもある。彼らが世界や人生の真の悲惨を体験したときにさえ、そんな言葉が口から出るのだろうかと。
 そう思うと、この世界や人生に対する認知は、実は鬱病の人の方が正しいのかもしれない。しかし仮に、この世界や人生の本質というものが、本当に悲惨なものであったとしても、すなわち、そこには何ら幸せなものは存在せず、幸せに思えるものなど、単なる錯覚や妄想に過ぎないとしても、私はこの世界に「美」というものだけは、確かに存在しているように思われる。
 幸福感をまるで感じることがない鬱病患者でも、美だけは感じることがある。世界や人生は、幸福ではないかもしれないし、すばらしくも何ともないかもしれないが、そこには美が、少なくても「美しい」と感じさせるものがあることは確かではないだろうか。
 それとも、これも結局は錯覚なのだろうか?
 だが、幸せだったものは、時とともに幸せでなくなることがあるけれども、かつて美しいと思ったものは、時がたっても、それは依然として美しく感じられる。それが真の美であるならば、おそらく美というものが色あせるということはない。
 人間というものが、幸福も希望も断たれたとしても、なおそれでも生きようと思わせるものがあるとするならば、それは「美」ではないだろうか。美しいものに憧れる気持ちほど強いものは、そう多くはないのではないだろうか。
 そして、美というものは、いつも初めてであるという新鮮な気持ちを持ち続けるか、生きるか死ぬかといった必死な気持ちで生きているときにこそ、見出されるように思われる。
このページのトップへ