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 2005年8月の独想録


 8月11日  不幸な人々
 その人が不幸であるか幸福であるのかは、本人が決めることであって、他人が決めることではないのだろう。他人からは不幸に見えても、本人が不幸ではないなら、それは不幸ではないのだろう。他人からは幸福に見えても、本人が幸福を感じないから、それは幸福とはいえないのだろう。
 けれども、少なくても他者からは不幸に見える人々に出会うことが、何と多いことか。
 つい先日も、私の勤める病院で、まだ25歳の若さであるというのに、肺癌から脳に転移したために、一ヶ月の間に失明し、まったくの暗闇の中で、息苦しさと戦いながら亡くなっていった女の子がいた。25歳といえば、おそらくは人生でもっとも楽しく幸せな時期であろう。本人の苦しみとご両親の悲しみを思うと、胸が張り裂けんばかりだ。
 夫の暴力に耐えながら、親も誰も頼る人もなく、孤立無援の中で、まだ幼い二人の子供の世話をしながら自らは癌と闘っている女性もいる。20歳代からずっと精神病と闘い続けてきた40歳代の男性、あいついで親が自殺し、精神的な苦痛と経済苦の中を必死で生き抜いてきた女性、子供の頃、父親から性的暴力を受けて精神がおかしくなってしまった十代の女の子……。
 世の中のこういった悲惨や不幸の存在を目の前にして、むかしの私は、その意味をよく考えたものだ。ある説によれば、それは神の試練であり、ある説によれば、それは過去世の報いである。先祖の祟りだという人もいれば、名前が悪いとか、家相が悪いという人もいる。
 それはそうかもしれないし、そうではないかもしれない。
 つまり、それは推測の域を出ないのであり、要するにわからないことなのだ。
 不幸の意味や原因を考えて、それで少しでも気持ちが楽になり、前向きに生きる意欲が出てくるのであれば、それでいいと思う。名前を変えて幸せになれると信じるなら、そうすればいい。
 けれども、最近の私は、こう思うようにしている。
 「起こってしまったものは仕方がない……」
 原因について考え悩むことで、現状の悲惨が少しでも改善されるのであれば、おおいにそうすればいい。だが、多くの場合、思い悩んだって何が解決されるわけでもない。むしろ、事態を悪くさせてしまう方が多い。事故で身体が不自由になってしまったとか、難病になったといった場合、思い悩むことで体がもとに戻るわけでもないし、病気が治るわけでもない。愛する人が死んでしまって、いくら嘆き悲しみ、その理由を考えても、死者が生き返ってくるわけでもない。そのことでいつまでも悩み続けていたら、精神も身体もボロボロになり、再起のチャンスがそれだけ遠のいていってしまうかもしれない。
 取り返しのつかないことが起こってしまったら、それはもう、文字通り取り返しのつかないことなのだから、その時を始点にして、いわばリセットをして、そこから人生の方向を再構築していかなければならないのだと思う。そこから新たにスタートしなければならないのだ。死を選ぶのでなければ、残された選択肢はただそれしかない。
 しかし、こんなことを考える反面で、こうした人生の悲惨な暗黒面について、私はできれば目をそらして生きたいとも思う。私の住む家の近くを散歩すれば、のどかな田園が広がり、蝶や鳥やトンボが、まるで生に酔いしれたように飛んでいるのが見える。その中に独りたたずんでいると、この世の中に不幸なことが存在するなどまるで嘘のようだ。不幸な人々などどこにいるのかと思うくらいだ。私はただただ、甘いラブソングでも作曲しながら毎日をのんきに生きたい。
 ある説によれば、この地上で立派に生きた人は、もう地上に戻る必要がなく、いわゆる天国で暮らしてもいいし、あるいは自ら望むのであれば、また地上に戻って(苦しむ人のために)生きることもできるという。
 もしも仮に、私が地上に戻る必要がないといわれ、天国に行くか地上に戻るか、その決断を自分にゆだねられたとしたら、どうするだろう?
 私は個人的には、決して、決して、地上なんかに戻りたくはない。こんなに辛くて悲しいことばかり多い地上なんかに、誰が戻るものか!
 私は振り返ることなく、天国の方に向かってひたすら歩き続けるだろう。
 けれども、もしも間違って振り返ってしまい、地上から空を見上げて涙を流す不幸な人々の顔を見てしまったら、とても自分だけ天国などへ行けるはずもない。天国へ行ったとしても、不幸な人々の顔が脳裏に焼き付いて離れず、天国の喜びなんて享受できそうもない。
 天国というところは、自分よりも他の人のことを考えて生きた優しい人が住んでいるところだというではないか。
 ならば、論理的に、もともと天国なんかに住人なんているはずもないのだ。
 天国に行けるような人なら、みんな地上にUターンしているであろうから。


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 8月29日  孤独を癒すために孤独になる
 先日、カウンセリングに、ひとりの女性がこられた。歳は40を超えていたが、どこか少女のような雰囲気が漂う物静かな女性であった。
 「むかしのことを思い出すと辛いので、過去のことは話したくないのです」
 といわれるので、若い頃に2度ほど自殺未遂をしたことがあるということ以外、その女性の過去のことは何もわからない。なぜ自殺未遂をしたのか、その理由もわからない。
 家は裕福なので、彼女は働かずに独りで生活している。広大な敷地の中に自分だけの離れ家を建ててもらい、家族とも離れて住んでいる。しかし、いわゆる対人恐怖だとか、「引きこもり」ではなく、必要なときは誰とでも会ったりする。ただし、心から交流するような人間関係はもっていないようだった。彼女が心を許せる相手は動物だけで、特に猫が好きで、彼女は猫と暮らしている。私が飼っている三匹の猫のうちの一匹(どれも捨てられた野良猫だった猫)の携帯写真を見せると、暗い面影だった彼女が、まるでパッと咲いた花のように明るい表情になり、目を輝かせて猫の写真を見つめていた。
 彼女の、こうした生活はよくないと思ったのか、叔母さんがカウンセリングを受けるように強く勧めて、カウンセリングにこられたのであった。
 約束なので、私は彼女の過去のことはいっさい問わないことにし、彼女の大きな関心である芸術や文学の話をした。話し方はゆっくりと気品があり、深く考えて言葉を選んで語り、非常に繊細で聡明な人柄が伺えた。この世に生まれてくるべき魂ではなかったようにさえ思われたくらいである。あまりにも純粋で繊細で無垢で傷つきやすいこの魂にとって、地上という場所は、あまりにも粗雑で、下品で、悲惨で、汚すぎるように思われるのかもしれない。人間は裏切るが、動物は裏切らない。人間は醜い考えを抱くが、動物は無心に生きている。
 たぶん、叔母さんは、普通の女性のように世の中の人と交わって、結婚でもして、世間並みの生活・人生を送って欲しかったので、カウンセリングを勧めたのかもしれない。
 確かに、はたで見ると、その女性はひどく孤独なように見えるかもしれない。
 けれども、彼女が孤独かどうかは彼女自身が決めることではないだろうか。たとえ誰とも触れあいの交流をもたなくても、本人が孤独を感じなければ孤独ではないのだ。
 実際、たとえ人と交わったとしても孤独を感じることはよくある。逆説的だが、孤独を癒すために孤独になる人だっているに違いない。彼女は、そういう人なのかもしれない。孤独の多くは人からもたらされることの方が多い。今の生活に彼女が満足しているのであれば、また、経済的にそういう生活を送ることが許されるのであれば、いったいどうして世間並みの生活をしなければならない理由があるというのだろう? これから彼女とのカウンセリングを定期的に行っていくと思うけれども、私は世間的な意味で他者と交わるような「普通の生活」をするようにアドバイスしようとは思わない。その点では、叔母さんの期待を裏切ることになるかもしれない。
 もちろん、他者と交われば、触れあいの喜びというものも味わえるし、自分自身が他者に対して、またこの世界に対して有益な影響をもたらすことだってできる。
 それは確かにその通りだ。
 しかし、やたらに他者と交わりさえすれば、触れあいの喜びが得られるわけでもないし、他者や世界に対して有益な影響をもたらすことができるというわけでもない。
 問題は、量ではなくて質ではないだろうか。
 すなわち、多くの人と交わってはいるが、そこに真心や誠意といったものがなければ、そこから得られるものはほとんど何もないし、事実上、それは真の意味で「交わっている」とはいえない。また、他者や世界に対して何ら有益な影響をもたらすこともできない。
 だが、交わる相手はほんのわずかであったとしても、その交わった人と真心や誠意を交流させることができるなら、それは、表面的なつき合いでは得られない深いレベルにおける触れあいの喜びをもたらし、他者を感動させ、他者を変容させるほどの影響を与え、結果として世界に対して大きな影響をもたらす可能性にもつながってくる。
 人との交わりにおいてもっとも大切なことは、真心であり誠意である。
 そして、本当に真心や誠意をもった人というのは、ほとんど例外なく傷つきやすい人である。
 そして、その傷つきやすさゆえに、しばしば孤独の中に慰めを見出し、人間からは遠ざかって、花鳥風月や動物を友にして暮らすようになる。それは一面では非人間的な生活であるともいえるかもしれないが、また一面では、きわめて人間的なものが脈打っている人が選択する生活であるともいえるのではないだろうか。
 無人島に暮らすとか、病的なまでの引きこもりでない限り、まったく誰とも触れあいの場がない、ということはない。その機会はきわめて少ないとしても、ときには人との出会いがあり、それなりの交わりの機会が訪れる。
 そんなとき、自然や動物や芸術を愛するような孤独な人こそが、実は表面的ではない、非常に深いレベルにおいて、他者との触れあいをもたらし、真にすばらしい影響をもたらす可能性をもっている。その人のもつ真心と誠意が、相手の深い部分を共鳴させるからだ。表面的な出会いや交わりなどを千も繰り返すより、たった一回でも、他者に深い感動を与えることの方が、ずっと意味があることはいうまでもない。
 カウンセリングに訪れた彼女には、その可能性があると信じている。彼女には彼女の使命というものがきっとあるのだ。それは、数は多くないかもしれないが、彼女に接する人々に感動をもたらし、その人たちを変容させ、それによって世界を変えることにつなげる使命なのかもしれない。もしそれが彼女の生き方なのであれば、たとえはたから見ていかに孤独で変わった生活に思われようと、おかまいなしに自分らしく生きればいいと思う。
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