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 2005年4月の独想録


 4月17日  速読と精読
 速読の名人という人がいる。すごい人になると、ページをペラペラとめくって、普通の本なら一冊三分とか五分で読んでしまうらしい。そのコツは、一字一字読むというより、文章の固まりをパッと見て視覚的にとらえ、全体の意味を把握することにあるという。
 もっとも、難解な哲学書などは速度が落ちるというし、読むには読めても内容を覚えているかどうかは別問題らしい。
 それでも、一日に何十冊、何百冊と新刊が出ているわけだから、速読の技がマスターできたらどんなにいいだろうかと思う。
 しかし、私は速読に適する本と、じっくりと読む「精読」に適する本を分けている。
 単純に、何らかの情報を得るような本の場合、私も速読を心掛けてパッと目を通して読んでしまう。三分や五分というわけにはいかないが、普通の本なら、30分以内で読み終えることができるかもしれない。ある程度、内容を知っている本なら、いくつかの単語を目にしただけで、そこに何が書いてあるのか見当がついてしまうので、読み飛ばしてしまう。そうするとさらに早い。また、言葉の無駄遣いをして内容がないことを長く書いている箇所なども、飛ばして読んでしまう。
 これに対して、たった一行のセンテンスなのに、そこに深いものが込められているような本がある。こういう本は、決して速読することはできないし、また、するべきではない。
 こういう本は、決して多くはないが、もしこういう本に出会ったら、ゆっくりとかみしめるように、何回も何回も読み返すのがよい。真に価値のある本を、そういう読み方をしたときには、あらゆる発想や気づきが得られて、速読では決して得られないような深い知識が自分の血や肉になってくれるのだ。
 実際、過去の偉大な人たちを調べてみると、速読の名人よりは、精読の名人の方が多いような気がする。真に価値ある本を、じっくりと繰り返し読み込んでいるのだ。
 精読をすると、その本に表面的に書かれている知識だけが得られるのではなく、行間に込められた意味というか、その本が背後に抱えている非常に深く広範囲な知識が得られるのだ。単純に知識がインプットされたというだけでなく、応用が利く智慧が養われてくるのである。
 真にすぐれた一冊の本を精読することは、たいした内容ではない千冊の本を速読するよりも価値があることだ。
「速読の方法」に関する本やセミナー、通信教育などはよく見かけるが、「精読の方法」に関するものはみかけない。
 精読ということを、もっと大切にしようと私は思っている。


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 4月24日  お金がなくて治療が受けられないということ
 もうすぐ亡くなる患者さんのケアをするホスピスに勤めていたとき、悲しいこと、やるせないようなことがいっぱいあった。若くして不治の病になり、家族や仕事を残したままこの世から去らざるを得ない無念さということはもちろんだが、私が特に悲しく、また憤りを覚えたことは、お金がなくて十分なケアが受けられない、ということだ。
 たとえば、30代から癌になり、さまざまな治療を受けてきたある患者さんのカルテを見ていたら、「経済的な理由によって治療を中止」という記述が目にとまった。だから治療を断念してこのホスピスにやってきたのだとわかった。
 治療を続けていたからといって、病気が治癒した保証はないが、治療を受けない場合よりも、治癒の可能性は高かったことは確かであろう。まだ両親も、子供も、配偶者もいるというのに。治療費が払えなかったために、先立たなければならない本人と、愛する人を失わなければならない家族の悲しみと悔しさは、いかほどであろう。
 お金というものは、必ずしも正直な人に集まってくるとは限らない。お金がないからといって、その人が怠惰であったというわけではない。むしろ、世の中を見渡すと、要領よく立ち回ったり、法律違反すれすれのことをしたり、社員を安い給料でこきつかうとか、お金を右から左へ動かすだけで、高額なお金を稼いでいる人がたくさんいる。
 そして社会というものは、その人がどのようにしてお金を稼いだかということよりも、その人がどのくらいお金をもっているか、ということで評価する。
 ここに、世の中の不条理と腐敗というものがある。
 悪いことをしてもお金があれば、それなりの治療を受けられて命が助かるのであるし、正直に生きてもお金がなければ、治療が受けられずに苦しんで死んでしまうのだ。まさに「地獄の沙汰も金次第」という言葉がピッタリではないだろうか。
 このような現実を見るとき、何ともいえない悲しい気持ちになる。
 何も、贅沢な暮らしがしたいといっているわけではないのだ。治療を受けて病気が治りたいというだけなのである。いったい、そうした基本的な人権ともいうべき救済が、どうして得られないのだろう? なぜ正直者が苦しみ、悪いことをしても金があるものが助かるのだろう?
 そうして人は、道徳も正義も、神も、信じられなくなっていくのかもしれない。
 親鸞は、自らを「俗にあらず聖にあらず(俗人でも聖人でもない)」といった。それとは違う意味だが、私自身も自分は俗でも聖でもないと思っている。すなわち、この世俗の汚濁に頭からつかることもできないが、かといって、宗教の信仰の世界に頭からつかって、何の疑いもなく神を信じるということもできない。
 宗教が説くように、神は愛であり正義であるかもしれないが、現実に、その神の理念が地上に顕現しているとはいいがたい。万能であるはずの神が、こうした不条理と悲惨を許すとはとうてい思えない。いくら宗教でそう唱えられているからといって、現実をゆがめてこの世界を見つめることはできない。こうした世界はあきらかに間違っているのであり、神の正義も愛も行われているとは思えない。
 仮に、遠いはるか彼方にはすばらしい世の中になるのだとしても、すでにこうした悲惨な世界が現実として創造されたというだけで、私には何らかの落ち度が神にあったとしか思えない。
 原因があって結果があるということは自明の理である。その点で、この世界を創造した存在はあるのだろう。そして、それが神であるというのなら、私は神の存在を信じている。
 しかしながら、その神は、私が望んでいるような神ではない。
 苦しみを通して人間が成長することは確かであろう。だが、あまりにもひどい苦しみは、むしろ成長を妨げてしまうこともあるのではないか?
 神よ。
 お金がないために治療が受けられず、お父さんは死んだのだと、あの患者さんの子供たちは、大人になったときに聞かされるでしょう。その子供たちは、お金が神様になってしまうかもしれませんね。
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