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 2005年3月の独想録



 3月1日  人生の2つの志向性
 人間というものは、大きく分けて2つの志向性のいずれかに分類されるように思われる。
 ひとつは、「自我志向性」であり、もうひとつは「目的志向性」だ。要するに、人生の価値を何におくか、ということである。
 前者の「自我志向性人間」は、文字通り「自我」というものを人生の至上価値におく。こういう人が仕事で頑張るのも、何をするのも、自分というものを誇示するためだ。そのため、必然的にその生き方は競争的になり、自分のプライドを傷つけられることに我慢ならなくなる。彼は、そのクルマが好きだから手に入れるのではなく、そのクルマが自分の自我優越性を満たすがゆえに(自慢するために)手に入れようとする。あるいはまた、たとえそれが会社のためになり、世の中のためになるという企画があっても、それが自分の自我を満たさなければ容認しない。
 一方、後者の「目的志向性人間」は、自分が抱いた「目的」の達成に叶うかどうかということを人生の行動基準にする。その目的は人によって違うが、しだいに高い、崇高なものになっていくことは確かだろう。そして、人生のあらゆることを、「このことは、この目的達成にとって重要か、重要でないか」といった観点から判断するようになるだろう。
 したがって、誰かが自分を馬鹿にしたとか、自分の目的達成に関して重要ではないことには、いちいち本気になって腹を立てることはしなくなるだろう。これはある意味でスケールの大きい人間になることである。
 たとえば、国をよくしようと本気で考えている政治家であれば、個人的な好き嫌いや小さな意見の対立、派閥といったことにこだわらず、優秀な人材であればどんな人も責任あるポストに任命するであろうし、真の学者なら、学者としての名誉といったものにこだわらず、自分の学説と反対の意見を唱える人に対しても謙虚に耳を傾け、自分が間違っていたら謙虚に非を認めることができるだろう。
 こうした人たちこそが、真に偉大な人ではないだろうか。だが、残念なことに、自分と反対意見をもつ者は何がなんでもたたきつぶしてやろうとする政治家や学者の方が、この世の中では認められることが多いかもしれない。
 結局、その人を偉大な人間に高めていくか否かは、その人がどのような目的をもっているか、ということが決定するに違いない。崇高な目的をもてばもつほど、その人は崇高な人間になっていく。
 しかしながら、大多数の人は、人生の目的そのものさえ明確にもっていない。だから、どうしても「自我志向性人間」になってしまい、陳腐になってしまうのではないだろうか。


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 3月14日  人はどのように癒されるのか?
 神経症に悩む人のカウンセリングをしていて、ときどき思うことは、ほんのちょっとしたきっかけでよくなってしまうことがある、という事実だ。特にこの傾向は、抗うつ剤や精神安定剤など薬を飲んでいなかった場合には顕著だ(逆にいうと、薬を飲んでいると、それだけ完治しにくくなる)。
 きっかけは、仕事で配置換えになったとか、恋人ができたとか、しばらく旅行に出かけたとか、そういったささいなことで、たちまちよくなってしまったりする。
 ところで、こうした、どちらかというと楽しいきっかけではなく、数は少ないが、ときには不幸や苦しみに遭遇して病気が治ってしまう人もいる。つまり、今抱えている神経症的な病気が、これよりももっと辛い不幸や苦しみを味わうことで、治ってしまったりするのだ。
 これは、いったいどういうことなのだろうか?
 鬱や神経症など心の病に悩む人は、見るからに辛そうである。これ以上、負担をかけたらすぐにでもつぶれてしまうように見える。そして実際、そういう人も多いだろう。
 だが、すべてがそうではない、ということなのだ。逆に、辛い経験を嫌でもしなければならない状況に立たされたら、治ってしまう人もいたりする。
 ということは、そういう患者さんは「甘えていた」ということなのだろうか。
 ある意味では、そうなのかもしれない。しかし、だからといって「甘えるんじゃない!」と説教したところで、まず患者が癒されることはない。たとえ甘えているために病気が治らないのだと仮定したとしても、そのことを本人が心の底から自分で気づかない限り、いくら他人がいっても無駄であるし、かえって反発されるだけであろう。
 ところで、苦しみはもっと苦しいことを経験することで癒されるといったことがあるなら、これは病気ではない人にも当てはまるのではないだろうか。
 むかしから、宗教家が断食をしたり滝を浴びるといった苦行をするのも、もしかしたらこのことと関係があるのかもしれない。実際、小さなことでクヨクヨと悩んでいたところが、非常に辛い人生の一大事を経験して乗り越えた後には、小さな悩みはきれいになくなってしまったりする。その意味では、人間は悩みや苦しみがあったら、そこから逃げるよりも、もっと辛い状況に自ら身をおくことで、悩みは解決されるのかもしれない。
 しかし、その「自ら」というところが、実際には非常に難しい。中途半端な辛さではなく、本当に辛い状況に自分の意志で飛び込むことは、非常に勇気がいるし、仮に飛び込むことができたとしても、そこからいつでも逃げられるような状況であれば、長くはもたないだろう。
 苦しみというのは、逃げようとするとなおさら追いかけてくるようにも思われる。覚悟を決めて逃げることをやめると、案外、怖れていたほどではない、ということも少なくない。
 神経症的な心の病に悩む人には、いくつか共通する傾向があるが、そのひとつは、たいていの人が「逃げよう」とばかりしていることだ。無理もないことではあるのだが、逃げることをやめた人は、どんどんとよくなっていくのも事実である。
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