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 2005年6月の独想録


 6月4日  人生というサーフィン
 カウンセラーをしていると、患者さんの状態に対して、どんなときも「楽観も悲観もできない」ということを感じる。よくなったと思って喜んでいても、明くる日にはしょんぼりと具合が悪くなって、昨日の喜びは何だったのかと、がっかりさせられることがよくある。しかしまた、「よくなることは難しいなあ」と悲観的に思えても、意外によくなってしまうといったことも、けっこうある。
 なので、どのような患者さんが来ても、また、状態がよくなっても悪くなっても、手放しで喜ぶこともできないし、絶望する必要もないといったことがわかってきた。
 思えば、これは人生全般についてもいえるような気がする。
 今までの私の人生を振り返ってみても、本当にすばらしくうまくいくに違いないと期待していたことがダメになったり、もうダメだ絶望だと思っていたことがうまくいったりすることも多かった。人生というものもまた、何が起きても楽観も悲観もできないのかもしれない。
 そうなると、どんなに喜ばしいことが起きても、飛び上がって喜びを表現することもなくなり、どんなに絶望的に思えるようなことが起きても、嘆き悲しんで涙を流すといったこともなくなってくる。つまり、どこか「超然」とした人間になってくるのかもしれない。
 ところで、私はサーフィンはやったことはないが、たぶん、サーフィンというものは、うまく波に乗れたからといって「やったー! 波に乗れたぞ!」といって喜んでいたら、次の瞬間にはバランスを崩して海に投げ出されてしまうに違いない。逆にバランスを崩しそうになったとき「ああ、きっともうダメだ」と悲しんでいたら、本当にそうなってしまうだろう。サーフィンというものは、いつまでも今の状態にとどまっていないで、すばやく次の状態に意識を向けるようにしていかなければ、荒れ狂う波の上であれほど見事なバランスを維持して前進していくことはできないだろう。
 人生には喜びもあれば悲しみもある。悲しみにとらわれるのは愚かだが、喜びにとらわれるのも愚かなのかもしれない。その愚かなとらわれが、人生というもののトータルなバランスを崩し、人生をダメにしてしまう危険をはらんでいるようにも思われる。
 もちろん、嬉しいことがあれば嬉しいし、悲しいことがあれば悲しいが、いずれの場合であっても、いつまでもそれに意識を固定化させていたら、人生というサーフィンはすぐに破綻して海に投げ出されてしまう。人生における喜びも悲しみも、それはただ一時的なものに過ぎない。それがどんなことであれ、次の瞬間に意識を向けて生きなければならないようだ。


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 6月13日  自分というブランド
 バッグや洋服などの、いわゆるブランド品といったものに、私はまるで関心はないので、ブランド品をそっくり真似て作られたイミテーション(ニセモノ)を見ても、たぶん本物と区別ができないと思う。しかし、愛好者がいうには、見かけはどんなに似ていても、やはり品質が違うという。たとえば、ニセモノは使ってまもなくすると糸がほぐれてきたりするが、ブランドは長く使ってもしっかりとした品質を保っているらしい。
 いうまでもなく、最初から「ブランド」になった商品や会社はない。すぐれた品質、すぐれたサービスを長い間提供し続けてきた結果として、「あの会社の商品はすばらしい、使用して不満はない」といった信頼を積み重ねていってブランドになる。
 要するに、ブランドとは、「高い信頼性」ということなのだろう。トヨタやホンダが世界の自動車メーカーのブランドとして君臨しているのも、そのデザインのすばらしさ、メカニズムのすばらしさ、多少のことでは故障しない耐久性、仮に故障しても適切に対応してくれる保証サービスのすばらしさといったことが理由なのであろう。いくら派手な宣伝をしても、一時的には人気を得ることができるかもしれないが、それですぐにブランドとして定着することはない。
 そうして、われわれは、ブランドということで、安心してその会社の商品を買うことができるし、そのブランド品を所有する喜びを得ることができる。
 なので、ブランド品は値引きをしなくてもよく売れる。だから、ブランドだけは不況の時代でもほとんど影響を受けないといわれている。すべて信頼を築き上げてきた賜なのだ。
 ところで、このことは、「人間」にも当てはまるのではないだろうか。
 いつも約束は必ず守る誠実さをもっている、頼んだ仕事はいつも期日までにすばらしく仕上げる、そうして周囲の信頼を得ている人は、その人の存在が「ブランド」となっているのだ。
 こういう人は、たとえば約束の時間が来ても姿を現さなければ、「いったいどうしたんだろう。何かやむを得ない事情でもできたに違いない」と思われるだろう。しかし、普段から約束は守らず、時間にも遅れることが多い人なら、約束の時間が来て姿を現さなければ、「どうせつまらないことで遅れているんだろう」と思われてしまうだろう。こういう人は、要するに「ブランド」ではないわけだ。
「ブランドの人」は、信頼があるから、仕事やチャンスを得ることが多くなり、「ブランドではない人」は、仕事やチャンスを得ることが少なくなり、仮に仕事を得ようとしたら、自分の価値をかなり値引きしなければならないだろう。
 仕事などの経済面に限らず、たとえ友情や恋愛であっても、ブランドの人、つまり誠実さや真面目さがあって信頼に値する人は、当然のことながら、よき友情や恋愛に恵まれるチャンスも多くなってくるだろう。
「真面目」だとか「誠実」などという言葉は、何でもインスタントに手っ取り早く金儲けをしたり人気を得ようとすることが賢いと思われているような現代においては、死語に近いのかもしれない。だから、友人や仲間といっても、単に利害や損得勘定で結ばれた一時的で表面的な偽りの関係にしかならないし、恋愛にしても「お芝居」のような空虚な関係にしかならない。口先だけでその場をうまくつくろって生きるだけの、寒々しい人間関係しか築けなくなってしまう。
 しかし、相手がどんな人であろうと、たとえ利害関係にある人だろうと、そうでなかろうと、差別なく誠実に、小さな約束さえも必ず守るという姿勢を貫いている人は、いつかきっと、ブランドになるだろう。世の中というものは、調子よく世の中を泳ぎまわっている人にだまされる人間ばかりではない。人間を見る目の肥えた人もまた、世の中には必ずいるものだ。そういう人は、相手が真のブランドなのか、それともブランドらしく振る舞っているが単なるイミテーションなのかくらい「鑑定」して見抜いてしまうだろう。
 そうして、結局のところ、人生において大きな実りを得る人というのは、最終的にはブランドを確立した人なのだと思う。仕事においても、また、愛においても。


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 6月19日  幸福の基準
 自殺者の数が、相変わらず毎年3万人を超えている。昨年に比べて少し減ったというが、それでも3万人を超えている。交通事故死亡者が年間1万人に満たないから、自ら命を断って亡くなる人の数は、交通事故の3倍以上ということになる。これは、怖ろしい数字である。
 それにしても、人生というものは、そんなにも生きにくいものなのだろうか?
 人生の幸福の基準というものは、とてもあいまいである。ナチス強制収容所の極限的な地獄を体験した精神科医フランクルによれば、今日一日、死ななくてすんで、寝る前にノミやシラミをつぶすことができたときに「幸福」を感じたという。
 かと思うと、はためでは何不自由ない贅沢で恵まれた生活をしていながら、自ら命を断ってしまう人もいる。
 もしかしたら、「幸福とは、こうでなければならない」という強い基準をもっていたり、「他人よりいい暮らしをすることが幸福なのだ」といった強い信念をもっていると、それが満たされなかったときには、強い失望を感じ、「そうまでして生きたくない」と思い詰めて死んでしまうのかもしれない。御殿に住んでいた人が、突然、何らかの理由で貧しいアパートに住むことになったら、悲観して自殺してしまうかもしれない。だが、死なない人は、たとえホームレスをすることになっても死なない。
 もちろん、自殺の理由というものは、こんなに単純ではないので、このことだけですべてを説明することはできないであろう。
 しかしそれでも、「幸福の基準」というものさえ捨ててなくしてしまえば、かなりの数の人が自殺という選択をしないですんだような気もする。自分で勝手に作り上げた「幸福の基準」が、事情が変わると自分を苦しめて、ついには死に追いやってしまうことがあるのかもしれない。
 周囲は幸せな(少なくても“幸せそうに見える”)人ばかりなのに、自分だけそうではないとき、私たちは疎外感を覚え孤独を感じるようになる。その「孤独」が、人を死に追いやってしまうのだともいえる。もしも自分だけでなく、世の中のほとんどの人すべてが貧しく惨めであったなら、つまりは“自分だけではない”ということなら、人は死なないかもしれない。
 しかし、それもある種の「基準」によって行動を左右していることには変わりない。
 基準というものをもたず、もしも今までは地位も名声も財産もあったのに、事情が一転してそれらをすべて失ったとしたら、たいていの人は過去を引きずり、プライドに苦しめられる。昨日までは会社の社長でチヤホヤされていたのに、今日はホームレスをすることはできない。
 だが、思いきって過去の自分というものと決別し、過去の基準を捨て去って、ホームレスになったら、ホームレスの自分から始めて、そこからまた努力をしていくしかない。むかしのあらゆる甘美な想い出を懐かしがることなく、すべて忘れて、また新たなる未来の甘美な可能性に意識の焦点を定めて努力していくしかない。そうして、とにかく生きて努力をしていけば、また何とか立ち直っていく可能性も開けていく。
 いつでも、過去の自分を捨て去る覚悟で生きていけば、もしかしたら、自殺という最悪の事態は避けられるのかもしれない。


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 6月27日  習慣というものの怖ろしさ
 我が家の小さな庭にひまわりを育てたいと思い、種を鉢に植えた。実は昨年も同じようにしたのだが、ナメクジに若芽をみんな食べられてしまい、全滅してしまったのだ。
 私は、どんな生き物も殺すことはイヤなので、よほどのことがない限り駆除するようなことはしないできたが、今年はぜひともひまわりを庭に育てたかったので、仕方なくナメクジ退治をすることにした。庭にある煉瓦や石、鉢などをひっくりかえすと、大小多くのナメクジがたくさん見つかった。そして、そこに熱湯をかけて駆除した。おかげでナメクジの被害はなくなり、今のところ、ひまわりの芽は順調に生育している。だが、やはり生きているものを殺すのは嫌な気持ちがして、少し良心が痛んだ。
 ところが、しばらくして、また石をもちあげてみると、やはりまだナメクジがいた。もうほとんど実害はなかったが、気持ち悪いので、再び熱湯で殺した。そして、他にも、庭にナメクジがいないかと探して、見つかると熱湯をかけて殺すということを、何回か続けた。
 このとき、私はハッとした。もはや、良心の痛みなど、まったく感じていないのだ!
 それどころか、この気持ちの悪い生き物がいなくなるということで、心地よい気持ちにさえなっていた。
 ひまわりを守るという、当初の目的から逸脱し、この生き物を駆除することそのものが目的になっていたのである。
 慣れというものは、何と怖ろしいことか。
 これがナメクジではなく、人間であったら! もちろん、ナメクジとは比較にならないくらい良心の痛みを覚えるであろうが、もしも何人もの人を殺し続けていったら、ついには良心の痛みなど麻痺してなくなり、むしろ、自分にとって不都合な人間を抹殺するという爽快な気分にさえ、なってしまうのかもしれない。
 どんなことも、それが日常的に行われるなら、すなわち、「習慣」になってしまうなら、その行動によってもたらされる刺激が、しだいに弱くなっていき、ついには麻痺して、何とも感じなくなってしまうに違いない。クルマの窓からゴミを投げ捨てることなど、普通なら恥ずかしくてできないと思うが、子供のときからそういう習慣で育てられてしまえば、それは別に何ということもなくなるのだろう。万引きをしたら、最初は罪の意識を感じるが、常習犯にはその意識はまったくないともいわれる。
 怠惰に過ごしてそれが習慣になってしまったら、勤勉になることは非常に困難になる。勤勉に育てられてきたら、逆に怠惰になることができない。それはがいしてよい習慣ではあるが、しかし度を超すと弊害が多くなる。いわゆるワーカホリックとなり、ときには心身を休ませることも大切なのに、休日で何もしないことに罪悪感をもつようになり、リラックスできずに、結局、強迫的に働いて、ついには重い病気になってダウンということになりかねない。
 それにしても、習慣というものは、犯罪や、生命を殺すといったことに対しても、それを麻痺させてしまうくらい強大な力をもっているのだとしたら、私たちは何としても、そのような習慣に陥る前に、どこかで歯止めをかけなければならないだろう。
 習慣の怖ろしさは、それが間違った行動、問題のある行動であったとしても、麻痺しているから、それが悪いこと、改めるべきことだとは、なかなか思えないという点にある。自分では悪いことだと気づくことができなくなってしまっているのだから、よほど人から指摘されて気づきがない限り、本気になって改めようという気持ちにはならない、ということなのだ。
 たとえば、喫煙などは、百害あって一利もないのだが、健康に問題がなければ、その害に気づくことができない。重い病気になり、そこからくる心身の痛みと、(治療にかかる)金銭的な痛みとを、身をもって感じたときに、はじめて喫煙という習慣がいかに問題のある行動であったかを悟る。だが、多くの場合、気づいたときには手遅れとなっている。犯罪も同じだ。警察につかまり法の裁きを受けて罰の苦しみを受けたときに気づいても遅い(もちろん人間として悔い改めるチャンスは決して遅くはないが)。
 私たちは、もう一度、自分が無意識的に行っている習慣的な行動をチェックして、本当にそれに問題がないかどうかを、厳しく見つめてみる必要があるかもしれない。習慣は、それが長く続けば続くほど、改めるのが難しくなってくる。だから、早いうちから、悪い習慣があれば、それを断ち切るべく努力をしなければならないと思うのだ。

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