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 2013年1月の独想録



 
1月1日  新年のご挨拶とホームページのリニューアルのお知らせ
 皆さん、あけましておめでとうございます。
 すでにお気づきのように、ホームページがリニューアルされました。デザインを一新し、コンテンツも充実させました。最初にホームページを立ち上げたのが、確か2000年ではなかったかと思いますが、それから2、3回ほどリニューアルをしました。しかし、満足のいくものができず、前回のホームページも、もっと早くリニューアルしたかったのですが、他にいろいろとやることがあり、なかなか実行に移せませんでした。しかし、昨年の秋から少し時間的な隙間ができたので、いっきに集中してリニューアルすることができました。そして、ようやく、だいたい満足のいくものができたように思います。とはいえ、これもまた時間がたつにつれて、だんだん不満を覚えるようになり、またいつかリニューアルする時期が来るかもしれません。しかし、しばらくはこのデザインと内容で続けていくことになりそうです。
 とりあえず、定期的に更新する予定になっているのが、いまご覧になっている日記風エッセイです。これには「独想録」という名前がつけられています。自分が想ったことや感じたことを、独り言のように記録したもの、という意味が込められています。ブログ(「心の治癒と魂の覚醒」)の方では、皆さんに読んでいただくことを意識して書いておりますが、独想録では、特に読者を意識せず、またテーマを限定することもなく、心に浮かんださまざまな思いや日常で経験したことについて、ごく個人的に綴っていく予定です。3年ほどのブランクがありますが、リニューアルされたホームページで新たに書いていくことになりました。
 これまでも、独想録に共感してくださる方が少なからずおられ、とても嬉しい限りであり、これからもがんばって書いていきたいと思いますが、基本的にはマイペースで掲載していくつもりです。そのため、更新する日は、とくに決まっておりません。目安として、一週間に一回くらいのペースで書きたいと思っておりますが、それより早くなるかもしれませんし、遅くなるかもしれません。思い出したときにでもアクセスしていただければ、更新されているのではないかと思います。どうか、気長にのんびりとお付き合いいただければ幸いです。
 それでは、今年が皆様にとってよい一年となりますよう、お祈り申し上げます。
 よろしくお願い申し上げます。


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1月7日 立派なことを書いたり話せたりしても・・・
 世の中には、立派な内容の本を書いたり、講演や説教をする人がいるが、その人自身が立派かというと、必ずしもそうとはいえない。本がすばらしいので著者に会ってみたら、その人間性の低さにがっかりすることもある。
 もちろん、世の中に完全な人間はいない。どんな人にも欠点や弱点があり、至らないところがある。すべての人から愛される人はいない。すべての人から褒められる人もいない。いかに立派な人であろうと、けなす人はいるし、悪口を言う人もいる。すべての人から愛され、すべての人から褒められた聖人も偉人も、過去に存在したことはない。
 だがそれでも、決して犯してはならない間違いがある。
 それは、立派なことを書いたり、話したりするだけで、自分が偉くなったと思ってしまうことだ。また、立派なことを書いたり、話したりするだけで、その人は偉いんだと思ってしまうことである。これは、どちらも錯覚である。
 立派なことを書いたり話したりすることは、それほど難しくはない。誰かが書いたり言ったりした立派なことを、あるいは、勝手に頭のなかで思いついたことを、そのまま書いたり言ったりすれば、簡単にできてしまう。
 だがそれは、九官鳥やオウムのおしゃべりと本質的に変わらない。立派なことをしゃべる九官鳥やオウムを立派だと思う人はいない。たとえ、それで癒しが得られ、励ましが得られたとしても、九官鳥やオウムを崇拝したりする人はいない。
 人間も、まったく同じではないだろうか。
 立派なことが書かれてある本や話は、それなりの価値はあるかもしれない。だが、そのことと、それを表現した人間の価値とは別物である。立派なことを書いたり話したりした人間の本性や行動が、まったく愚劣なものであるとわかったとき、彼らの発したその言葉は、まるで気の抜けたビールのように味わいが消え、その魂(スピリット)は、蜃気楼のように実体なきものとなる。
 立派なことが書けたからといって、立派なことが話せたからといって、間違っても自分は立派なのだと勘違いしないようにしよう。もちろん、立派なことを書いたり、話したりすることは悪いことではない。それが人の役に立つこともあるからだ。けれども、そのようなことを書いたり話したりする資格など自分にはないのだということを、決して忘れないようにしよう。そして少しでも、その言葉に値するような人間になるよう努力していこう。

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 1月14日 冬の鳥
 
今年は例年になく寒い日が続いているが、私の書斎から見える小さな庭の木にとまるスズメやヒヨドリたちは、まるで寒そうな気配を見せない。人間の感覚でいえば、身を縮めたくなるような風が吹いているときでも、のんきに毛づくろいをしている。
 しかし、これがまだ関東地方の寒さだからいいのかもしれない。氷点下十度だとか二十度などという、とんでもなく寒い場所に生きている鳥たちは、さすがに寒いと感じるのではないだろうかと思う。そんな厳しい環境のなかでも、鳥たちは外で生きているのだ。そのたくましさには頭が下がる思いがする。
 鳥たちも、生き物だから、当然、寒さは感じるだろう。しかし、おそらく人間のような言葉を持たないので、寒さを感じても、頭のなかで「寒いなあ」とは思わないだろう(そのような言葉は出ないだろう)。ただ、感覚的な寒さに対して、じっとそれに耐えているだけではないかと思う。
 その点、人間はいろいろなことを思う。「寒くて冬は嫌だなあ、寒くならずにすむ方法はないかなあ、早く春にならないかなあ・・・」などと、いろいろな思い(言葉)が脳裏をよぎる。そのように思うと、本当に寒いことがひどく不幸せのような、まったく嫌なことのように思えてきて、何となく気持ちが滅入ってきたりもする。とりわけ、寒さに加えて暗い早朝や夕方などは、せつない気持ちに襲われてしまうこともある。寒い曇り空が3日も4日も続いてくると、憂鬱な気持ちにさえ襲われる。
 だが、鳥たちは、気が滅入っているようにも見えないし、憂鬱な気持ちに襲われているようにも見えない。彼らは身を切るように寒くてまだ暗い早朝から、元気そうに鳴き声をあげ、木から木へ、屋根から屋根へと飛び回っている。彼らはいつも陽気で楽しそうに見える。
 いったい、なぜそのようになれるのだろう?
 それはもしかしたら、言葉を持たないからではないだろうか。寒いとか暗いという状況を、非言語的な感覚として認識するだけで、それ以上でもそれ以下でもないのだ。ところが人間は、「寒いからどうしたこうした・・・」「暗いからどうしたこうした・・・」などと考え、頭のなかでおしゃべりを始める。そのため、もともとは単なる寒さや暗さに過ぎないものが、いつしか「不幸せ」のように感じられてしまうのだ。いい換えれば、寒いという感覚は純粋に肉体的な不快感に過ぎないのだが、それを心理的な不快感にさせてしまうのである。
 私たちは、寒さだけでなく、あらゆる事柄について、同じようなことをしているのではないだろうか。頭の中のおしゃべりによって、出来事そのものは幸せでも不幸でもないのに、それを幸せにしたり、不幸にしたりするのではないだろうか。
 卑近な例をあげるなら、ある製品を買ったとする。そして幸せを感じる。ところが、その製品が他の店ではもっと安く売っていたことがわかると、とたんに自分が不幸に感じられてしまう、といった具合だ。
 もちろん、人生には、人間として誰もが感じる普遍的な悲しみや苦しみといったものがある。愛する人を失えば悲しいだろうし、一生懸命に努力をしてきたことが報われなければ苦しみを感じるであろう。
 そういうとき、おおいに嘆き悲しむことで癒されるならば、そうしてもよいだろう。だが、そうすることで、かえって苦しみや悲しみが大きくなってしまうならば、むしろ、鳥たちを見習おう。
 頭のなかでおしゃべりをして、その悲しみや苦しみを増幅させるようなことはせず、鳥たちが寒さという、避けられない辛さを受け入れてじっと耐えるように、私たちもまた、人生における避けられない苦しみに対しては、ただそれを受け入れ、何も考えず、じっと耐えて生きていくべきなのかもしれない。

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 1月21日 指導と体罰
 大阪のバスケット部の高校生が、教師の体罰が原因と思われる自殺をしたニュースが大きな話題になった。
 体育会系の部活では特に、教師が怒りをむき出しにして、非常に乱暴な言葉を生徒に投げかけている光景をしばしば見かける。生徒が自分の思うようにうまくできないことに対してイラつき、罵声を浴びせかけ、さらには暴力を振るうことがある。そして、それが「体罰」などと言われる。
 生徒が人間として悪いことをしたとき、口頭で注意しても反省しない場合は、ある程度の体罰は仕方がないときもあるかもしれない。だが、部活に関することは、そうした悪い行為を行った場合とはまったく事情は異なっている。たとえば上手に競技ができないといったとき、罵声をぶつけて何の意味があるというのだろう? まして、暴力をふるういかなる正当な理由があるというのか? ただ生徒が自分の思うように競技ができないことにイラついて、その欲求不満を、罵声や暴力ではらしているだけではないのだろうか? しかもついでに、自分の個人的な鬱憤さえも、生徒を殴ることではらしていることもあるのではないだろうか?
 会社でも、やたらに部下を怒る上司がいるが、怒れば問題が解決すると思っているのだろうか? だとすれば、それはよほど無能な上司であろう。また、自分の感情をコントロールできない、未熟な人間であると言わざるを得ない。
 当たり前のことであるが、求められているのは「指導」である。指導とは、罵声を浴びせたり、まして体罰という名の暴力をふるうことではない。「どうすればうまくできるようになるか」を、冷静に説明して導いてあげることである。うまくできない生徒に対して「バカやろう!」などと怒鳴ることが、どうして指導と言えるだろう。うまくできなければ、なぜうまくできないのかを説明し、どうすればできるようになるかを説明するのが指導というものである。
 人間の心には、しばしば悪魔が住みついていることがある。大学を卒業し、そのまま教師になったような人は、そのまま「先生」などと呼ばれ、人に頭を下げたりすることも知らず、生徒の前では威張っていられる。すると、生徒という存在は、自分が思うように支配してもいいのだという傲慢な思いがしだいに膨らんでくる。罵声を浴びせても生徒は自分に逆らわない。ビンタを加えてもだまって自分に従う。そうなると、自分が何か王様のような偉い存在になったような錯覚がしてくる。そんなことが続くと、悪魔のような支配欲が心を占領するようになり、最初は1回か2回のビンタだったものが、しだいにエスカレートして、10回も20回も行うようになり、暴力を加えることに変質者的な快感を覚えるようになる。
 しかも、心のなかの悪魔は、そのような暴力を「愛情の表現」であるかのように人に思わせるのが得意である。そうした悪魔の策略に、しばしば生徒も父兄もだまされる。そのために「あの先生は体罰はするけど、いい先生だ」などと思ったりしてしまう。
 だが、同じく悪魔のようだったヒトラーもまた、一部の人には熱狂的に愛されていたことを忘れてはならない。「ヒトラーは何百万人も殺したけれど、いい人だ」などと、誰が思うだろう。殺人と体罰とを同列に扱うことはできないにしても、暴力という点では本質的に同じである。体罰という名目で暴力を振るう教師は、誰が何と言おうと悪い教師なのである。
 部活の「指導」において、日常的に罵声や暴力がまかり通っている状態は、教師も生徒も父兄も病んでいるとしか、私には思えない。


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 1月28日 生き恥をさらして生きる
 世間から「若い」と言われる年齢を過ぎると、多くの人が歳を取ることに嫌悪感を覚えるようになる。いったいそれはなぜなのだろう?
 それは、容姿の問題なのだろうか?
 確かに、若いときの肉体は美しい。子供の肌には皺もシミもなく、見ていて気持ちがよい。だが、歳を取るにつれて、皺もシミも増えてきて、お世辞にも見栄えがよいとは言えなくなってくる。人は美しいものを愛するから、歳を取って容姿が醜くなると愛されなくなってしまう、という怖れの気持ちが、歳を取ることに対する嫌悪感になっているのかもしれない。また、容姿だけでなく、歳を取れば疲れやすくもなるし、眼もよく見えなくなり、関節が痛いだの腰が痛いだのと、あちこちガタが来るようになる。若いときのように元気に何でもできるというわけにはいかなくなる。こうしたことも、歳を取ることに対する嫌悪感となっているのかもしれない。
 だが、それ以上に、社会的な価値観というものが大きく関係しているように思われる。
 たとえば、四十歳を過ぎているのに結婚していなければ、世間からは「いい歳をして結婚もしていない」などと言われたりする。五十歳を過ぎても持ち家がなく貸家やアパートに住んでいれば、それも世間から蔑まれる視線を浴びたりもする。二十代の青年が平社員であったり、アルバイトやパートをしていても平気だが、四十歳や五十歳を過ぎても平社員であったり、その年齢に応じた地位や給与を得ていなければ、世間からは冷たい視線が向けられるであろう。
 このように、ある年齢になったら、その年齢にふさわしい社会的な価値観に合致するような状態になっていないと、「生き恥をさらす」ような気持ちにさせられてしまい、歳を取ることに対する嫌悪感がますますつのってくるように思われる。
 歳によって、人間が計られるのである。年齢にふさわしい基準に達しているかどうかによって、差別されるのである。それが、世間というもののようだ。こうした社会的な価値観が、歳を取ることに対する嫌悪感を強めていることは間違いない。
 だが、私は歳を取ることに対する、そのような嫌悪感をわざわざ強めるようなことはしたくない。たとえ社会的にどのような状態であろうと、「いい歳をして・・・」などと言われようと、一生懸命に真剣に人生を生きているのであれば、恥ずかしいことは何もない。人生の価値はただひとつ、どれほど真剣に生きているかによって決まると、私はそう信じている。
 そうはいっても、世間はそんなことは認めないだろう。「生き恥をさらしている」などと思われるかもしれない。ならば、生き恥をさらして生きよう。胸を張って、どうどうと、世間が言うところの生き恥をさらして生きよう。

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