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 2013年10月の独想録



 10月22日 友人の死

 先日、友人(女性)が、癌で亡くなったとの連絡を受けた。まだ43歳だった。独身で、薬剤師をしており、最近はあまり交流がなかったが、数年前に、一緒にホスピスを見学したり、夕食をしたりしたことが何度かあった。また、私の著書を愛読してくれた友人でもあった。
 彼女の訃報を聞いたとき、「なぜ?」という思いが脳裏に浮かんできた。「なぜ、この若さで死ななければならなかったのだろう」と。
 スピリチュアル的にいえば、人はこの地上での役目を終えると死ぬという。それは何か使命のようなものであったり、あるいは個人的成長のための学びであったりする。彼女は、この地上にやってきた目的や使命を遂行したから死んだのだろうか? それとも、個人的に成長を果たし終えたから、死んだのだろうか?
 もちろん、私にはわからない。おそらく、誰にもわからないだろう。
 この若さで、あっけなく死んでしまう友人を見るたびに、私には、スピリチュアルで言われているこのような教えが、まるで後からとってつけたこじつけのような気がしてならない。「そのように思いたい」という希望的な気持ちが、そのような教えを生んだのではないかと思ってしまう。
 実際に、若い人が死んでいく光景を眼にすると、本当に使命だとか成長といった目的や意味が背後にあったのかどうか、疑わしく思えてしまう。むしろ、ただ本当に偶然に(遺伝だとか環境だとか、何かそうした物理的な要因によって)病魔に襲われ、そしてただ、それが原因で死んでしまったようにしか思えない。そこに人生の使命だとか目的だとか意味といったものが入り込む余地が感じられない。代替医療に関心を持ち、現代医療を改革していきたいと熱く語っていた彼女であるから、彼女がもっと長生きすれば、世の中に少なからず影響を与えていたのではないかと思うのだが、そうしたことは、彼女の使命ではなかったのか?
 いずれにしろ、地上的に見れば、人生というのは「はかない」ものだと思う。人はいつ死ぬかわからない。そしてその人生も、特別な人を除いて、日々の仕事はまるで単調で、無意味なことばかりのようにしか思えない。もちろん、使命の価値はその大きさではない。自動販売機に清涼飲料水を入れている人だとか、荷物を宅配している人だとか、そこには「スピリチュアル」の雰囲気は微塵もないように思えるけれども、このような人たちがいなければ、私たちは明らかに困ってしまう。そう考えると、やはりそこには使命があるのだと思う。
 「使命」などというと、何かすごく偉大で大きなことのように感じるけれども、私たちの大半は、地上的な視点から見るならば、まったくちっぽけな「使命」のために生き、その「使命」が終わったときに、死んでいくのかもしれない。そして、その「使命」というものは、必ずしも自分が思っているものとは限らないのだ。

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