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 2013年8月の独想録


 8月20日 実家の処分
 母が独りで生活できないほど弱って施設で暮らすことになったので、実家を売却することになりました。今から25年前にその実家に移り住み、六畳間の部屋を新たに増築したことを除けば、築数十年の小さなおんぼろ屋敷です。私は今までその実家を物置かわりにしていました。そこに多くの本やレコード、手紙、書類、ラジコンなどのおもちゃを保管していたのです。この他に、双眼鏡を組み立てる職人だった父が発明(?)したさまざまな機械(がらくたのようなものですが)だとか、衣類、食器、タンスなどの家具、さまざまな電化製品などもあり、家を売却するためには、そうした家のなかのものをすべて片付けなければなりません。お盆休みの一週間は、毎日、この大変な作業のために実家に通いました。
 まずは本の処分から始めました。いま住んでいる家は、もう本を置く場所がないので、売れそうなものは古本屋に持っていき、あとは捨てることになりました。「いつか読むこともあるだろう」と思って保管していた本ばかりですが、結局、ほとんどの本は二度と読むことがなかったことに気づきました。この思いはまだ残っており、売る本と捨てる本を分別しながら「この本は将来、また読みたくなるのではないかなあ」と考えました。しかし、今まで10年も20年も読むことがなかった本のほとんどは、今の私の年齢を考えると、もう二度と読むことはないのだろうなと思います。本を整理していると、その本にまつわるさまざまな想い出がよみがえってきて、本を捨てるというのは、そのような思い出も捨ててしまうような気がして、なんだか寂しい気持ちになってきます。
 寂しいといえば、手紙を処分するときもそんな気持ちになりました。これまで友人や読者の方からいただいた手紙が、段ボール箱2つありました。一応、一枚一枚差出人を確認しながら、やはり保管する場所がないために、ほとんどすべての手紙を捨てなければならなくなりました。私のために、心を込めて書いてくれた手紙を捨てるというのは寂しいもので、心が痛みます。とはいえ、その手紙を保管していても、この先、読み返すということはまずないだろうし、結局、保管していても無駄なのです。こうして手紙を整理していると、人生の一時期、盛んに文通をした懐かしい人たちのことが思い出されてきました。そして、いろいろな理由でその文通が途絶えてしまったことなどが思い出され、ほろ苦い気持ちも湧き出てきました。
 父の作った発明品や愛用していた工具、また母の着ていた衣類なども、どんどん捨てていきました。
 実家の処分の作業はまだ終わらず、まだもう少し続きますが、私が死んだときも、このようにして、私の持ち物が処分されていくのだなあと思うと、なんだか不思議な気持ちがしてきました。なるべく死ぬ前には自分で処分し、あまり物は持たないようにした方がいいように思えてきました。
 今回の実家の処分のことで、私は自分自身の老後と死のことを考えるようになりました。今まで老後などというのは遠い遠い先のことだと考えていましたが、いつのまにかけっこう目前にせまっていることに、ハッとさせられました。

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