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 2013年2月の独想録


 2月4日 意味のある人生
 意味のある人生、とは、いったいどのような人生を言うのだろうか?
「意味がある」とは、要するに、「価値がある」と言い換えてもよいであろう。
 ならば、価値のある人生とは、どのような人生を言うのだろうか?
 自分だけ楽しい人生というものは、価値があると言えるのだろうか?
 もし、本人がそれで満足であれば、価値があると言えるのだろう。けれども、人間は多くの場合、自分だけが楽しく満たされているだけでは、やがて空しさを感じてしまうものであると思う。結局、死が間近に迫ったときには、自分だけが楽しかった人生というものには価値がなかったように思うのではないだろうか。
 やはり、自分の存在が人のために、世の中のために役に立ったと思われるような人生こそが、真に意味のある人生、真に価値のある人生だと思うのではないだろうか。
 だとすれば、いったいどのようなことが、人のためであり、世の中のためであると言えるのだろうか?
 それは簡単だ。どのような仕事であれ(もちろん公序良俗に反するものでない限り)、人は仕事を通して、人のためになっているし、世の中のためになっている。たとえ動機はお金のためであるとしても、仕事をすることにより、私たちは人や世の中に貢献していることになる。だから、仕事を一生懸命にする人の人生には、意味も価値もあると言えるだろう。
 けれども、人や世の中は、いったい何を一番に求めているのだろうか?
 それはおそらく、衣食住といった生きるための基本的なものをのぞけば、それは「愛」ではないかと思う。人々は愛を求めているのではないだろうか。思いやりを、親切な行為を、優しい言葉を、慰めといたわりを、求めているのではないだろうか? そうしたものが欠けているから、世の中には多くの病んでいる人がいるのではないだろうか。
 だとしたら、人を愛する生き方、あるいは、人の愛を目覚めさせる生き方こそが、真に意味のある、また価値のある人生であると言えるのではないだろうか。
 世の中には、仕事をしたくてもできない人がいる。たとえば、心に障碍を持って生まれてきたような人々である。けれども、彼らには不思議な力があることに気づかされる。彼らの持つ純粋さ、無垢な心といったものが、彼らに接する人の愛を目覚めさせることがある。そのような影響を周囲に与える力を持った人々が、しばしば障碍者と呼ばれる人々に見られることがある。彼らに接すると、不思議と優しくなれたり、心の底から愛が湧き出てくるのを感じることがある。
 人の愛を目覚めさせるような、そんな彼らは、たとえ社会的な仕事をしていないとしても、その人生には大きな意味、大きな価値があるのではないだろうか。


 2月14日 さびれてしまった光景
 
最近はあまり機会がなくなってしまったけれど、私はクルマで旅行に行くのが好きだ。たとえそれが半日か一日くらいの日帰り旅行であっても、見知らぬ土地にクルマで出かけていき、その土地の様子を見るのが好きだ。電車と違い、クルマは人々が暮らす街中にまで入っていけるし、止まりたいと思ったらすぐに止まることができる。自由に好きな道を進むことができる。また、他の乗車客に気を使うこともない。要するに、勝手気ままな旅行ができるというのが、クルマのよいところだ。
 クルマで地方に行くと、さびれている一帯に通りかかることがよくある。商店街のほとんどはシャッターがしまっており、人もあまり歩いていない。廃墟と化したホテルだとか、映画館があったりする。こういう光景を見ると、無性に寂しい思いにかられる。かつてはにぎわっていたであろう場所がさびれてしまった光景というのは、何ともわびしい。単純に人がいないからではない。人がいないという点では、もっと田舎の田園地帯に行けば、あるのは自然ばかりで、人などまばらにしか住んでしない場所があるが、こういう場所に行っても寂しさは感じない。もともと変わらぬ自然のある場所だからであろう。かつて人がいた場所に人がいなくなってしまうところに、寂しい思いをかきたてるものがある。
 自分が住んでいるわけではないのに、さびれている場所を通るだけで、ものすごく寂しい気持ちになるのはなぜだろうかと考えてみた。それは、ある意味では決して他人事ではないからであろう。というのは、人生というものは、かつて人がいてくれた時があったのに、今ではもういないということがあるからだ。それはとても寂しいものである。しかしこれは、だれも避けて通れない人生の無常さの現われであるから、仕方がないものだ。
 さびれている場所は、人生のそうした無常さというものを自覚させるのではないだろうか。だから、さびれている場所を通ると、「さびれた人生」を想起させられて、寂しい思いにかられるのかもしれない。

 2月21日 老年という苦しみ
 82歳になる母が、私の自宅から車で20分ほどの実家にひとりで住んでいる(父は4年前に他界した)。その母が、最近、心臓の機能が低下することによる足のむくみの症状が出て、椅子に座ったまま歩けなくなってしまった。椅子から転げ落ちて床に座り込み、どうしても起てないというので、電話がかかってきて、私は実家まで行って母を起たせて椅子に座らせたことも2回ほどある。昨日、このままではトイレにも行けないので、入院させてもらおうかと病院に連れていったが、利尿剤を飲んで足から水が引けば大丈夫ですよと医師から言われ、少し強めの薬をもらい、入院は断られて帰ってきた。
 今朝、電話をかけて様子を聞いてみたが、何とか少しは歩けるようになったようなので安心した。
 それにしても、ひとり椅子にじっと座ったまま、何もせず時間を過ごすということは、精神的に何と辛いことだろうかと思う。私がすぐにかけつけてあげられる状況であるだけマシかもしれないが、なかにはそのような人もなく、誰の助けもかりずに一人でどうしようもないまま過ごしているお年寄りも少なくないだろう。
 若い頃は、歳を取ることの悲惨さについては知ることはなかった。だが、最近になってそのことが身にしみて感じられるようになった。からだの自由がきかないということは何とひどい状況であることか。また、そんな状況でひとり孤独に生きるということは、何と辛い状況であることか。
 このような歳を取ることの悲惨さについては、介護の仕事をされている方はよくご存知かと思う。野生の動物はパッと死んでしまうのに、人間はどうして老いの苦しみを背負わなければならないのだろうか?
 老齢の問題を取り上げると気持ちを暗くさせてしまうかもしれない。だが、老齢に至る前に死んでしまう場合をのぞいて、これはどんな人にも避けられない問題なのだ。老人でも恵まれて幸せな人はいるが、一般に、歳を重ねるにつれて、さまざまな希望が失われ、楽しみもなくなり、孤独になっていき、からだの自由もきかなくなってくる。いったいそのような状況になったとき、いったい何が心を支えてくれるのだろうか? そのような状況になっても平安でいられるほど、強い信仰心を持つことができる人は、どれほどいるのだろうか?
 そのような辛い現実と向き合うよりは、認知症になってしまった方が、実は救いなのかもしれないと思ったりもする。もしかしたら認知症の心理的な原因というものは、歳を取ることに対する悲惨なストレスから回避するための、自然に備わった機能なのかもしれない。
 それにしても、生きるということは、何と辛いことなのだろう。若いときは若いときなりの辛さもあるが、老年になってからの辛さとは比較にならない。老年になってもなお生きるということは、ある種の「拷問」のような苦しみであるようにも思われる。

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