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 2013年9月の独想録


 9月13日 秋になると・・・
 暑い夏が過ぎ去り、秋の気配が感じられる頃になると、私はいつも何ともいえない甘美な懐かしさと寂しい気持ちを感じる。そのルーツがどこにあるのかはわからない。おそらく過去において、秋に甘美な経験や寂しい経験をしたのであろう。そのときの具体的な出来事は忘れてしまったが、そこで刻まれた気持ちや感情だけが意識に浮上してくるのかもしれない。
 そのような気持ちが心を占めるとき、私は自分が本来の自分を生きていないような奇妙な感覚を覚える。とりわけ今年はその思いが強い。本当の私自身、ありのままの私自身は、すでに過去の遠い日のときにだけ生きていて、今の私は、まるでロボットのようにただ社会的な役割を果たしているだけのように思われる。若いとき、子供のときは、そうではなかった。もっと自分らしくふるまっていた。自然に触れて感動を覚え、とにかく自分らしさを生き生きと表現して、生き生きとした表情をもってこの世界に対峙していたように思う。
 歳を取ってしまったせいなのだろうか? それとも、人生の不条理や悲しみを数多く見つめすぎた結果なのだろうか?と、自問自答する。人生というものは本質的に不条理で悲しみに満ちていると私は考えているので、そのようなものから目を背けていた、あるいは見えなかったことによって構築された「甘美な懐かしさ」というものは、単なる幻想にすぎないのではないだろうか?
 では、「寂しさ」を感じる点についてはどうなのだろう? 秋になると寂しさを感じるという人は、私だけではなくたくさんいるようだ。自然界を見ても、草花は枯れ、木は葉を落として枝だけとなり、生き物も姿を消して、実際に寂しい雰囲気になる。秋になると寂しさを感じる理由は、こうした生物学的な根拠に由来するのだろうか?
 確かに、それもあるに違いない。けれども、少なくとも私の場合、それだけではないように思う。
 遠い過去を振り返ってみると、私が幼少期のとき、二番目の母が突如としていなくなった。確か、その時期は秋だったような気がする。私はそのとき、自分の存在が深淵に沈み込んでいくような、何ともいえない寂しさと悲しみを覚えた。世界に対する信頼は切り離され、自分の存在が浮き草のように、あるいは破船して漂流する船のように感じられた。私はしっかりとしたものにしがみつきたかったが、それがなかった。
 このときの体験が、私のその後の人生の基本的態度を決めたようにも思われる。私は「しっかりとしたもの」にしがみつくために「神」を求めた。この世の中で、神だけがは「しっかりとしたもの」であると思えたからだ。
 けれども、姿も形も見えない神にすがりついて、深い孤独感を癒すことは、何と難しいことだろう。私は今なお破船して漂流し続けている船のように感じる・・・。
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