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 2014年10月の独想録


 10月28日 静寂
 
現代人は常に何かに取り憑かれている。仕事に取り憑かれ、遅くまで残業して疲れきって帰宅し、食べて寝るだけである。そんな生活を毎日毎日繰り返している人がいる。家事や子育てに追われる人もいる。電車に乗れば、スマホのゲームに取り憑かれている人をたくさん見かけるようになった。
 このように、常に五感を通して何らかの刺激を与え続けている。まるで、そうしていなければいられないかのように。

 
けれども、そのような外的刺激に反応して行動し続けることは、人間が本来的に持っている人格(これを魂と呼ぶことにしよう)ではなく、これまでの環境で人工的に作られた偽りの自己の人格(これをエゴと呼ぶことにしよう)で生きていることになる。
 エゴはある種のロボットであり、機械的な刺激に対してただ反応するだけである。スマホに夢中になることはそれに拍車をかけるものではないかと思われるが、とにかく現代人の多くがこういう生活を送っている。

 
だが、これでは本当に生きているとはいえない。
 自分を見つめる静寂な時間をもたなければ。
 これは想像だが、スマホや携帯はもちろん、インターネットもテレビもないおおむかしの時代では、昼間の仕事が終わり、夜の静寂のなか、庵を囲んで家族と談話したり、静かに自分を振り返っていたのではないだろうか。
 そうした静寂の中でこそ、魂というものは目覚めていき、本当に自分が求めているもの、欲している人生といったものがわかってくるのではないだろうか。静寂のうちに、沈思黙考、内省、瞑想、あるいは哲学や自己啓発的な本をじっくりと読んだりすることは、魂にとっては栄養ではないだろうか。
 人によっては難しいのかもしれないが、なるべく誰にも邪魔されないひとり静寂の時間を持つようにしよう。そして、「自分は本当にこれでいいのか?」「今の生活は自分が本当に望んでいたことなのか?」「真に価値ある生き方とはどういうものなのか?」といったことを考えてみるとよい。
 そうすればおそらく、多くの人が、今まで多くの時間を無駄に費やしてきたことがわかるに違いない(その無駄な時間も広い視野で見れば何らかの教訓を学ぶという意味において無駄ではなかったのかもしれないが)。本当に、魂が望むような人生を生きてこなかったことに、唖然とするかもしれない。そうしたら、人生の舵を大きく変えるきっかけとなるだろう。
 そのようなことに気づくことができるときというのは、静寂のときだけである。
 静寂のときは、決して退屈なときでもなければ無為なと
きでもない。そう思うのは刺激の中毒にさらされて何かに追われるように生きているからだ。
 
静寂のときは大切である。静寂のときは必要である。
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