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 2014年7月の独想録


 7月15日 神の不在の世界をどう生きていくか?
 母がまた入院した。ふだんは車椅子の生活なのに、(認知症のせいもあるのか)自分は歩けると思ったらしく、勝手に一人で廊下を歩き出して、結局 転倒。最初は顔面の青あざだけですんだと思ったが、施設の人がどうもおかしいというので医師に診せたら、大腿骨の付け根の部分が骨折していることがわかり、急遽、入院ということになった。
 医師の話では、手術して一ヶ月ほどで退院できるらしいが、とにかく母は、しばらく安定した状態のまま施設に過ごすということがない。次々に状態が悪化したり何かが起こったりして、結局施設を離れて病院に入退院を繰り返すパターンだ。そのたびに私の方は時間と労力とお金を費やすことになる。こうした点に ついては以前にも書いたので、これ以上同じことを書くことは単なる愚痴になってしまうので書かないことにする。わざ とそうしているわけではないし、恨みや憎しみといった感情は母にはない。むしろ、母を見ていると、人間というものの哀れさに胸が痛くなる。なぜ苦労して歳を重ねてきて、そのうえ人生の最期になって、「これでもか」といわんばかりの苦しみを味わわなければならないのだろうと。
 母は、夫(私から見れば父)に5年ほど前に死別し、3年ほど一人暮らしをして孤独な生活を味わい、元気でどこにでもよく歩いていったのに、1年くらい前から急に 歩けなくなり、車椅子生活になってしまった。そうして、親切な職員に恵まれてはいるとはいえ、しょせんは自分の家ではなく他人と暮らす孤独な生活になってしまった。自分ではもうできないので下の世話を人にやってもらうことになり、体の自由がきかなくなり、ちょっとしたことで体調を崩してぐったりとしてしまう。認知症となり、妄想やら、わけのわからないことを言ったりするようになった。入院すれば点滴を打たれたり手術をされたりといった苦痛に満ちたことをされるなど、要するに高齢者によくある状態を目の当たりにしてきて、自分もいつかこうなってしまうのかと思うと、気が滅入ってしまい、また、高齢となり力もなく弱弱 しくなっているのに、こうした辛い経験をしなければならないようにできているこの地上世界、また、そんな地上世界を創造したとされる神に対して、疑問というか、正直なところ、 嫌気のようなものさえさしてきているということが、私の今の本音である。

 年末や年始ともなれば、毎年大勢の人が神社仏閣に行って幸せを祈願する。その内容のほとんどは、現世的な幸せであろう。「お金が入りますよう に」「健康で過ごせますように」「結婚できますように」など、そういったお願いを神仏にしているであろう。私自身は、そのようなお願いをしにお参りに行っても、効果はないと思ってきていたので、ほとんど神社仏閣参りのようなことはしたことはない。しても個人的な願いではなく「世界が平和でありますように」といったことを祈るだけである。とはいえ、本当に苦しいときには、神はきっとその声を聞いてくださり、助けてくれるのではないかという思いが払拭されきってしまったわけではなく、やはり心のどこかではそのような思いがあった。
 けれども、今回、母のことをきっかけにして、この世の現実をあらためて見てみれば、祈れば救ってくれる神などいないことは、一目瞭然ではないかと思うことになった。2万人以上が死んだ東北大震災の人々が、誰一人として神 に助けてくださいと祈らなかったはずはない。だが無常にも、神はそのような願いを聞き入れることはなかった。他にも私は個人的に心理カウンセラーを通して、本当に気の毒で悲惨な患者さんたちを少なからず見てきた。当時はそのような話を聞いてもそれほど深く心に響いていたつもりはなかったのだが、最近になってそうした患者さんのことが思い出されることが多くなり、やはり実際には心の底に響いていたのかもしれないと思う。ボクシングにたとえるなら、ボディーブローを何回も受けてきて、それがじわじわと今になって応えはじめてきた、といった具合だろうか。

 こうなると、結論は2つしかない。ひとつは、神は存在しないということ。もうひとつは、存在はするが、私たちを救ってくれることは必ずしもないこと(救ってくれることもあるかもしれないが)。また、救いたくてもそれだけの力がないという場合も考えられる。
 この世界という「結果」が存在している限り、その結果を生んだ「原因」はあると考えるのが普通であろう。いわば、この世界を創造したものであ る。その存在を「神」というならば、確かに神は存在するといえるだろう。
 だが、世界を創造したような広大無辺な神は、私たち人間にとってはあまりにも高い存在であり、いちいち私たちの(神から見れば小さい)苦しみなど、相手にしてはいないのではないだろうか。
 神とは違うが、守護霊だとか、心霊的な存在はどうもいるようである。だが、彼らは万能ではない。世間のニュースを見ていると、子供の目の前で 母親が変質者に殺されるとか、そのような事件がときどき報道されている。それを見ると、いったい「守護霊」は何をしていたんだと言いたくなる。 いったい何が「守護」霊なのであると。
 今の私は、神は存在するかどうかと問われるならば、こう応えることにしている。「神は存在するが、私たちの期待するような神ではない」と。
 私たちの期待するような神ではないとしたら、神は存在しないも同然ではないだろうか? なぜなら私たちの大半は、神は困ったときの救 世主であると考えているからだ。祈れば救われると考えているからだ。
 しかし、現実は違う。祈っても救ってくれはしない。起こるべきことは起こる。そう思うとき、私は単純に「神なんて存在しない」と言うときもあ る。これは正しくはないかもしれないが、間違いでもない回答であろう。

 だが、人間というものは、神のいないこの世界において、生きていけるものだろうか? 大部分の人は(私から言わせれば)「神はいる」という「妄想」を支えにして生きている。だが、現実をありのままに見て神はいないと悟ったとき、人は神なしで、今後、どのように生きていったらよいのだろうか?・・・・

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