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 2014年12月の独想録


 12月31日 一年の終わり
 今日で今年一年も終わる。すでに新年となってからこの文章を読んでいる人もいるであろう。それがたとえたった数日前のことであったとしても、「去年」に書かれた文章というものは、すでに時代遅れであり、色あせて見えるかもしれない。だが、それは年号が変わることによって得られる、ある種の錯覚にすぎない。いくら年号が変わっても、数日前に書かれたものは数日前に書かれたものなのだ。

 それはともかく、一年の終わりには、今年を振り返ってみることが多いであろう。私には決して楽な一年ではなく、いろいろな意味で修行の一年であった。その修行は、瞑想とかヨーガといったものではなく、世間と交わることによって悩み苦しんだという意味での修行である。同じ苦しみでも、それが清らかでまっとうな道筋を経ているなら恵まれた修行である。たとえば仕事上で大きな目標を定め、それに向かって苦労を乗り越えていくといったことだ。こういう修行にはさわやかなものがあるし、どんなに辛くても、気持ちが腐ることはない。
 しかし、世の不条理や理不尽な扱いを受けるような境遇での修行というものは、非常に辛い。そこにはさわやかなものがなく、いつのまにか自分を見失い、いつのまにか自分が腐っていくような感覚さえ覚えてしまう。そんななかにあっても、誠実に心清らかに、悟りの境地に近づいていこうとすることは、何と難しいことだろう。一番恐ろしいのは、自分でも気づかないうちに腐ってしまうことだ。そしてたいてい、腐っていくときというのは、自分では気づかないことの方が多いのではないだろうか。

 話は変わるが、年があけると、「あけましておめでとう」という。なぜ年があけたことがおめでたいのだろうか? きっとそれは、むかしは生活が過酷で、一年間を生き延びるというのが決して簡単なことではなかったことに由来するのかもしれない。だから、要するに「一年間生き延びることができて、おめでとうございます」ということなのだろう。
 今年、私よりひとつ若い友人ががんになった。今のところ薬でなんとかしのいでいるようであるが、先行きは不透明なようだ。友人は「自分ががんになるなんて!」と驚いていた。
 だが、これが人生というものなのだろう。いつがんになるかもしれないし、いつ事故で死んでしまうかもわからない。だから、そんな危機的な状況を通り抜けて新年を迎えることができたというのは、実際、おめでたいことであると祝うべきなのかもしれない。
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