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 2014年11月の独想録


 11月24日 ススキのように
 
ススキの茂った草原が、背後から夕日に照らされ、かすかに風に揺られている光景を見るのが好きだ。そのとき、一本一本のススキは、まるでオーラ を放っているように銀色に輝いている。私はその渋い色合いの風情ある光景にしばらく見とれてしまう。そこには、日本古来の「わび、さび」、また、 「あわれ」の情緒が感じられる。
 残念ながら、この光景は長くは続かない。秋の日のグッドタイミングに恵まれたときにのみ見ることができる。私の近所にはそういう場所があり、最 近はほとんど訪れることはないが、以前はしばしばそうした光景を見に行き、その光景を目に焼き付けようとした。

 私がもっとも好きな季節は、桜と菜の花の咲く春であるが、秋も好きな季節だ。しかし、春のウキウキした楽しさとは違い、秋の風景は、私にある種 の「悲哀」を感じさせる。それは私の過去の何らかの体験が無意識的に思い出されているせいなのかもしれないが、とにかくこの「悲哀感」は、郷愁と 懐かしさのようなものを伴っているので、それが何ともいえない味わいがあり、好きである。

 人生はしばしば四季にたとえられるが、私の年齢を考えると、まさにススキが生える秋の季節ということなりそうである。夏も終わり、木々の葉は 散っていき、虫たちもだんだん姿を消していく。そして、まもなく冷たい冬がやってくる。
 親が死んでいき、親戚や友達の死に直面したりする。しだいに知り合いがこの世から姿を消していく。そしてついには配偶者や兄弟とも死に別
れ(自分は生きていたと仮定しての話だが)、だんだん孤独になていく。

 現在の私の母がまさに冬の時期を過ごしている。夫と死別し、家族のいない施設に入居している。姉妹はまだ生きていて手紙などもくるが、あまり喜 んでいる様子もなく、手紙にも目を通しているのかさえわからない。私は最初の頃は毎週母に会いにいったが、今では2、3週間に一回になってしまっ た。認知症もあるので、実際に会ってみても、あまりまともなコミュニケーションができない。それが足が遠のいてしまう原因のひとつとなっている。 また、私が会いに行くことがどれほど嬉しいのか、これも認知症のためか、よくわからない。素っ気無い態度で接することもある。なのでこちらとしても、それほど積極的に会いに行こうという気持ちになれなくなってくる。


 
いずれにしろ、母は孤独である。施設のスタッフはいい人ばかりだし、友達もできている様子であるが、しょせんは他人であり、家族とは違う。家族 みんなで楽しく過ごしたかつての日々を思い出すとき、たぶん、たまらない気持ちになるに違いない。
 だが、そうした苦しみから逃れるために、認知症がやってきてくれるのかもしれない。認知症はだから、ある意味では救いであり、「癒し」であり、 冬の時期に凍えないようにさせる「暖炉」のようなものなのかもしれないとも思う。


 
老後を幸せに暮らすには、お金がそれなりにあり、子供や孫が複数いて、健康である必要がありそうだ。しかし、これら三拍子そろっている人はどれくらいいるだろう。お金や健康があっても、結婚できず独り身の人もいる。お金や子供や孫に恵まれていても、健康面で重い障害がある人もいる。お金もなく、子供や孫もなく、健康でもないという人だって、決して少なくないだろう。

 
私は、秋の一時期美しく輝いて、そして冬が来る前にいつのまにか姿を消すススキのようでありたい。鉢に植えられ人に愛でられながら枯れていく華 麗な花よりも、派手に愛でられ惜しまれることもなく、ただ野原に地味に咲いて、わび、さびの風情がわかる人だけに少し見つめられ、そしていつ枯れ てなくなったのかわからないように消えてしまうような、そんなススキのようでありたい。
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