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 2014年8月の独想録


 8月19日 人生は「苦」である。しかし・・・
 
私は何かを考えてその真実を探そうとするとき、可能な限り主観を排するようにしている。つまり、自分の思いだけで何かを決めつけるのではなく、常に全体を公平に観察し、そこに主観的な価値観をつけることなく、ありのままにその真の姿を探りたいと思ってきた。そして、そうやって出たことに対して、常に正直でありたいと願ってきた。
 人は自分の体験や思いをもとに世界観を形成する。人生が楽で満たされた人は、この地上世界を「楽しく幸せなところ」だと思うだろう。不幸せに感じてきた人は、この地上世界は地獄のような場所だとするだろう。

 釈迦は、「この世(人生)は苦なり」と言った。この世の本質は苦しみであるという世界観を唱えたのである。釈迦自身は、少なくとも客観的には決して不幸せではなかった。それどころか、王子として物質的には何不自由ない生活をし、結婚して子供ももうけている。あえて彼の不遇をいえば、幼い頃に実母と死別したくらいであろう。もっとも、そのことが彼を幼い時から悲観的に物事を見る一定の傾向を植え付けたと言えなくもないが。
 それはともかく、伝説によれば、釈迦は恵まれた城の生活から外に出たとき、そこに病気の人、老いた人、死んだ人、苦しんで生きている人を見て驚いたという。仏教がいうところの四苦、すなわち「生老病死苦」だ。他にも、愛する人と別れ憎い人と会う苦しみ、求めても得られない苦しみ、不浄ですぐに病気になったり老いていく肉体を持つ苦しみなどがあげられている(「四苦八苦」という言葉はここから来ている)。
 人生には楽しいこともあれば辛いこともある。これが大部分の人にとっての世界観であろう。そうして辛いことがあっても何とか生きている。しかしなかには、この世のいかなる楽しみでさえも代えることのできない、壮絶な苦しみの体験に見舞われる人もいる。たとえば、今のパレスチナの紛争のように、爆弾が飛んできて、次の瞬間には愛する子供の肉片だけが散らばっているといったことが、この現実には起こっている。日本でも、変質者に自分の娘を誘拐されて殺された上に死体をバラバラにされるといったことが起きている。
 このような体験をしても、「人生には楽しいこともある」などと言えるだろうか? いったいこれほど悲惨な苦しみを癒してくれるような楽しみなど、あるのだろうか。私だったら、どんな楽しみもいらないから、このような体験だけは勘弁してくれといいたい。
 このように、人生の本質を考えるときは、自分や自分に身近な人たちだけを考えて決めるべきではない。世界中のあらゆる人たち、それも、最低最悪の体験や境遇にある人を基準に決めるべきだ。なぜなら、人生というものは、そういうことが起こり得るからであり、そういうことが起こり得ることの説明ができなければ、それは完全な世界観とは言えないからである。「祈れば神様が救ってくれる」という世界観をもっている人は、祈っても救われなかった人をどう説明するのだろう? 
 どんな人も、いつひどい悲惨な体験に見舞われるかわからない。これが真実ではないだろうか。誰でもそのような可能性があるこの世(人生)の本質というものは、やはり釈迦が言ったように「苦」ではないのだろうか。
 詩人のヘルマン・ヘッセは、死ぬときには、この地上世界を「あざ笑ってやる」と言った意味の言葉を残している。彼は正直だと思う。繊細な感性を持っている人であれば、この地上に生きている限り、苦しむか、気がへんになるか、いずれかの道より他にないように思われる(ヘッセは鬱病になった)。

 人は苦しみに遭遇すると、その苦しみから逃げようとして悪いことをしたり、性格を歪ませてしまったり、あるいは麻薬やアルコールに溺れたり、ときには自殺したり、精神的に狂ってしまうこともある。私は人生の真の苦しみに遭遇した人がそのようになってしまうことを、決して責めるつもりはない。
 釈迦は、こうした苦しみの世から解脱するために「八正道」と呼ばれる修行法を説いたが、これは基本的に出家した修行者のためのもので、在家の人の修行法ではなかった。だから、私たちの大半は実行できないし、第一、八正道の詳しい修行法についてはよくわかっていない。今ほど情報ネットワークがしっかりしていない2500年も前の話なのだから仕方がないだろう。

 だが、どんなに人生が苦しく辛い状態であっても、そこに意味を見いだせる可能性はあるし、美しく生きていく可能性は常に残されている。
 私は人生がどんなに辛く不条理に満ちていても、美しく生きたいと願っている。願っているので、実際にそのようにできるかどうかはわからないが、とにかく、美しいということはひとつの価値である。美しさは人を感動させ、ときにはその美しさゆえに人を変えることもある。たとえ誰からも自分の美しさを認めてもらえなかったとしても、そんな美しい生き方をする自分自身を、私は気に入るであろう。それだけで満足である。
 釈迦は、この世は苦であるといっておきながら、一方で「この世は美しい」という言葉を残している。おそらく広大なる地平線に沈む夕陽か何かを見たのかもしれない。美しさというものは、霊的に高いつながりがあるのではないかと思う。
 人生でいかに不遇であり、辛く困難で悲しい体験に見舞われてきたとしても、そのことでその人生の価値が決まるわけではない。人生の価値を決めるのは、いかに美しく生きてきたかだ。美しく生きて、どれほどの感動を人々に与えてきたかだ。だが、たとえその美しさが誰の目にもとまることがなかったとしても、美しく生きることは、霊的な真実とを結びつける、唯一とまではいわないにしても、もっとも重要な糸であると、私は思う。美しさと霊性の高さとは比例する。見せかけでない、真の意味で美しければ、その霊性は高く、霊性が高ければ、その人は間違いなく美しい。
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