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 2014年6月の独想録



6月10日 常不軽菩薩
 
法華経のなかに、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という修行者が紹介されている。この修行者は、会う人会う人に礼拝して、「私はあなた方を尊敬します。軽く見たり、あなどったりしません。あなた方はみんな修行して仏になられるからです」と言ったそうである。言われた人の中には、余計なお世話だと怒ったり、杖で打ったり、石を投げたりした人もいたようだが、そのようなときは逃げて遠くに走り、そこから大声で「私はあなた方を軽んじたりしません。仏になられる方ですから」と言い続けたという。そして、自分を馬鹿にしたり暴力をした相手を、少しも怒ったり怨んだりすることはなかった。
 とにかく、相手が僧侶であろうと在家であろうと、大人であろうと子供であろうと、どんな職業や身分の人であろうと、常に礼拝しながら、「私はあなたたちを軽蔑しません。仏になられる方だからです」と、ただそれだけを、ひたすら説いてまわった。それ以外は、とくにお経を唱えるとか、修行などのようなことはせず、ただそれだけを長い間、ひたすら行い続けたというのだ。
 すると、さすがにまわりの人々も、「ひたすらあのようなことを行い続けているあの修行者は、本当は立派な方なのかもしれない」と思うようになり、やがて軽蔑は尊敬へと変わっていき、いつしか「常不軽菩薩」(決して人を軽んじたりしない菩薩)と呼ばれるようになったという。ちなみに菩薩とは、ご存じのように、自分の救いを後回しにして人を救うことを第一の誓願にして救済の行いをしている人のことをいう。

 越後の修行僧、良寛は、この常不軽菩薩に深く帰依し、尊敬し、手本としていたことが、彼が残したいくつかのうたでわかっている。たとえば次のような句が残されている。
「比丘はただ万事はいらず常不軽菩薩の行ぞ殊勝なりける」
(僧に必要なものは、常不軽菩薩の行だけで、他には何もいらない)
 ここで驚くべきことは、「僧に必要なものは、常不軽菩薩の行だけで、他には何もいらない」と言っている点だ。ただひたすら人々の本質が仏性であることを説き、それゆえに敬愛の念を示すという、ただそれだけで「他には何もいらない」とまで言い切っているのである。読経も、他の僧がやるような座禅も念仏もいらないと。
 そんな常不軽菩薩に対して、「もし常不軽菩薩が生きておられたら、私はその方が歩く先の道を掃いてまわるだろう」とまで、その敬慕の深さを表現している。

 私は良寛が大好きで、心から敬愛する最高の名僧であると思っており、若い頃から研究していた。当然、良寛が常不軽菩薩を高く評価していたことも知っていた。だが、当時はそれを知っても、とくにピンとこなかった。
 けれども、今では良寛のこの気持ちがよくわかる(ような気がする)。言い換えれば、この常不軽菩薩の偉大さがよくわかる。そのような理解を私にもたらしてくれたひとつのきっかけは、ユダヤの哲学者マルティン・ブーバーについて研究したことである。
 ブーバーは、お互いの中に神性を見つめ、それゆえに敬愛の念をもって結ばれた関係を「我と汝の関係」と呼んだ。そのとき人は自らの神性にめざめ、そこに神は顕現し、霊性が高まるのだと説いたのである。
 そう、ブーバーの思想はまさに、常不軽菩薩と同じではないだろうか。常不軽菩薩はブーバーの思想を身をもって行じていたのである。相手の神性(仏教流にいえば仏性)であることを自覚させ、それゆえに敬愛の念をもっていますといって、「我と汝」の関係を築こうとしたのである。

 実際、これこそが仏教の真髄、いや、宗教の、スピリチュアルな教えの真髄であると思う。瞑想することはよいことだし、座禅をしたり、ヨーガをしたり、念仏や題目を唱えることも、お経を唱えることもよいことだろう。だが、そんなものは仏教(宗教、スピリチュアル)の本質などではない。ブーバーのいう「我と汝の関係」こそが、常不軽菩薩の行った行こそが、仏教の本質ではないだろうか?
 法華教によれば、この常不軽菩薩は釈迦の前世であったという。それが本当なら、釈迦という偉大な宗教者は、読経や座禅、念仏や題目などによって生まれたのではなく、どんな人も差別なく敬愛し、あらゆる迫害にも腹を立てることなく、すさまじいまでの忍耐力をもって相手を敬うという行を通して生まれたことになる。
 そのことを良寛は気づいていたに違いない。だから、「他には何もいらない」などという、大胆な発言をしたのだと思う。
 キリスト教でさえも言っている。「愛がなければ、たとえ山をも動かす信仰心を持っていたとしても、何にもならない」(コリント人への手紙)。信仰心こそがキリスト教の本質であると普通は思うが、そうではないと言っているのだ。信仰心などよりも、愛が大切だと言っているのである。

 それにしても、私は思うのだが、常不軽菩薩のすごいところは、こうした真理を悟っていたということは別にして、いかなる迫害を受けても、たとえ棒で殴られ石をぶつけられ、侮辱されたとしても、少しも怨んだり怒ったりしなかったということであり(この点はイエス・キリストを思い起こさせる)、こうした行を、来る日も来る日も、長い間貫き通した、その忍耐力というか、鉄のような意志である。
 このような常不軽菩薩を敬慕していた良寛は、やはりさすがだなと、あらためて思ったと同時に、私自身はこの常不軽菩薩にどれだけ近づけるかと思った。もちろん、私などその足下にもはるか及ばないことではあるのだが、少しでも、どんな人に対しても敬愛の念を忘れずに接することができるように、これからの人生を生きていきたいと思った。
 そして人生というものは、良寛もいうように、たぶん、それだけでいいのだと思う。
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