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 2018年1月の独想録


 1月27日 神の正体B 世界と人間は誰が創造したのか
 これまで考察してきたように、もし神が、人間どうしの意識のネットワークであるとするなら、この世界、そして人間は、いったい誰が創造したのでしょうか? 神が創造したのではないのでしょうか?
 原因があって結果があるという因果律が正しいとすれば、この世界という「結果」があるわけですから、その「原因」、すなわち、「創造主」が存在していると考えられます。
 一般的には、神が世界を創造したとされます。神イコール創造主ということになっています。
 では、仮にそうだとすると、その神(創造主)は、誰が創造したのか?という疑問が生じてきます。
 これについて、神学などでは、神というのは究極の根源であり、誰も神を生み出したものはなく、最初から存在していた、ということで決着をつけています。
 一方、世界を創造したのは神ではなく、「自分で自分を生んだのだ」という自己生成論を唱える学者もいます。つまり、創造主というものは存在しないという考え方です。表現を変えれば、自分こそが創造主だというわけです。
 しかし、たとえそうだとしても、「では、自分で自分を生み出すその力はどうやって備わったのか?」という疑問が生じてきます。それも「自分で備えたのだ」とすると、自分で備えるその能力はどうやって備わったのか?」と、同じ疑問の繰り返しとなり、回答にはたどり着けません。結局、この自己生成論も、「最初から自己を生成する能力を宿していた」ですませるしかなくなってしまいます。
 つまり、創造主が「神」であっても「自己」であっても、それより前のことは考えないようにすると言っているわけです。ある種の思考停止です。
 こうした根源的で形而上学的な問題を追及していくと、どこかで思考停止しなければならなくなるのです。考えてもわからないからです。つまり、根源的一者である「創造主」という概念そのものを認識する能力は、人間には備わっていないということです。

 人間の認知能力では、世界や人間を創造した存在をとらえることは、不可能だということです。不可能なのに、無理にとらえようとすると、本質が歪められることになります。仮に、この世界を創造した存在が神であるとしてあれこれ考えたりすると、真実の神の姿とは違う、デタラメな姿を「これが神だ」と考えてしまうことになります。これは「狂信」です。(創造主としての)神について論じたり考えたりし、たとえわずかでも「神とはこういうものである」とした時点で、すでに「狂信」になってしまうのです。
 創造主について考えたり思ったりした時点で、もうその本質を歪めてしまっているのです。たとえるなら、創造主について知ろうとすることは、闇を見るために光を当てるようなものです。光がなければ何も見ることはできませんが、光を当てたら闇は消滅してしまいます。人間にとって、創造主は、原理的に認知不能、観測不能な存在なのです。

 このように、創造主とは、私たちの認知をはるかに超えた存在であり、創造主に思いを向けた瞬間に実像が消えてしまうのであれば、創造主を神と崇めたり、祈ったり、何かを求めたり期待したりすることは、できないということになります。創造主に思いをはせた瞬間に創造主は消滅するからです。残るものがあるとすれば、自分が勝手に作り上げたイメージです。ある種の「偶像崇拝」と言ってもいいでしょう。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では偶像崇拝を禁じていますが、神について論じた時点で、すでに偶像崇拝しているのです。
 以上のような理由から、創造主は私たち人間にとって「神」とはなり得ないと、私は考えています。認知不能という意味では、存在していないも同然だからです。神は創造主ではありません。私たち人間が太古の時代から「神」としてきたのは、創造主ではなく、私たちの意識の総体としてのネットワークです。

 では、結局のところ、創造主とは、何者なのでしょうか?
 それは「わからないというもの」です。わからないということが、創造主の本質であり属性なのだと思います。「永遠なる未知」と表現してもいいでしょう。おそらく、それが創造主の正体です。

 とはいえ、創造主について考えること自体が間違っていると言っておきながら、やはりどうしても、次のような疑問が生じてくるのではないかと思います。
 「いったいなぜ、創造主は、この世界や私たちを創造したのか?」
 何か目的があったのでしょうか? 目的があったとしたら、それは何なのでしょうか?
 すなわち、私たちは何のために創造されたのか、という疑問です。
 次回は、その点について考えてみたいと思います。


 1月20日 神の正体A 神の細胞としての人間
 前回は、神とは、人間という細胞によって構成された「ネットワーク」であると説明しました。言い換えると、実体としては存在していないが、「情報」としては存在しているということです。つまり、神とは「情報ネットワーク」のことなのです。これが、私が考える神の正体です。
 たとえば、インターネットを思い浮かべてみてください。
 何か情報が欲しいと思ったとき、インターネットの検索サイトから、必要な情報を得ることができます。もしインターネットというものを知らない未開人がこれを見たら、パソコンという箱の中に全知全能の神がいると思うでしょう。なにしろ、インターネット上には膨大な量の情報が蓄積されているからです。
 しかし、その情報を蓄積したのは、私たちひとりひとりです。同じように、私たちは意識レベルで、すべての人と情報をやりとりしており、その情報は、各人の記憶という貯蔵庫に蓄積されているのです。そして、何か情報を知りたくなったら、必要な情報を蓄積している誰かの意識にアクセスして、そこから情報をダウンロードします。
 たとえば、何か問題が起きて困ったとき、「神様、助けてください」と祈ったとします。すると私たちの意識は、無意識的に、問題を解決するための情報をネットワークにアクセスしてさがしだし、ダウンロードします。
 その結果、問題を解決する方法が閃いたり、あるいは無意識層に働きかけて、その情報を教えてくれる本だとか人と出会うように行動したりするわけです。
 そうしたメカニズムを知らないので、私たちは、あたかも神様という別個の存在が、救いの手を差し伸べてくれたと思い込んでしまうわけです。そして、(人間とは独立して存在する人格的な)神はいるんだと勘違いするのです。
 しかし、そのような意味での神は存在しないと思います。神とは、私たちひとりひとりの意識が蓄積した情報ネットワークのことであり、実体というものは持たないのです。

 私たちは、ネットワークという相互の結びつきの感覚を「愛」という気持ちで感じるのではないかと思います。その意味では、神は愛であると言えなくもないのですが、むしろ、「愛が神である」と言った方が正確です。なぜなら、私たちは神を人格的にとらえているからです。神はネットワークですから人格ではありませんが、同じ人格どうしの結びつきから生まれる愛の感覚は人格的です。ですから、神を人格的なものとしてとらえている私たち人間レベルで言えば、愛こそが神だと言えるのです。

 ところで、私たちは、肉体を構成している個々の細胞にとっては「神」ということになります。私たちは、個々の細胞とは別個の意識を持っているように感じられます。
 しかし、私たちの実体は、細胞によって構築されているので、細胞とは別個の意識というものは原理的にありえません。私たちの意識もまた、個々の細胞が生み出しているのです。私たちの意識というのは、からだ全体の細胞の意識の総体なのです。その中心となるのは脳ですが、脳だけが意識を生み出しているのではありません。からだの細胞すべてによって意識が生み出されているのです。その証拠に、心臓移植をしたある人が、かつてその心臓の持ち主だった人の性格に似てきたという事例が報告されています。
 言ってみれば、私たちは、個々の細胞たちの「神」なわけです。
 同じように、私たち人間の「神」が、どんな存在であるか、どんな性格をしているか、どんな考えや意識を持っているかは、私たちひとりひとりの意識によって決められているのです。
 もし私たちが憎しみや悪意、あるいは恐怖をもって生きるならば、私たちの神もまた、憎しみや悪意や恐怖を持つことになります。そのため、未成熟な時代の人々の神は、生け贄を要求し、逆らえば怒って災いをもたらすという人格をもって現れたのです。彼らは実際、そのような神を知覚していたのだと思います。
 しかし、私たちの精神レベルが向上するにつれ、そうした野蛮な神は知覚されなくなりました。愛である神として現れるようになったわけです。それは、私たちが、さまざまな恐怖や怒りを、かつてより抱かなくなり、そのかわり、愛を抱くようになってきたので、そのような神が意識のなかに姿を現すようになったわけです。
 このように、神は、人間とは別個に原初から存在していたのではなく、人間の意識のネットワークの産物なのだと、私は考えます。
 その意味では、「神が人間を創造した」のではなく、「人間が神を創造した(している)」とも言えるわけです。「私」が細胞を創造したのではなく、細胞が「私」を創造したのと同じです。
 私たちひとりひとりは「神の細胞」です。神の一部であり、断片的ではありますが、神そのものだとも言えるわけです。あなたも私も神なのです。そして、私たちがそうであるように、神は完成された存在ではなく、より完全をめざして、今なお進化を続けている存在です。
 ですから、神に隷属し、神に「おんぶにだっこ」で救いを求め依存することは、間違っているのです。私たちが自主独立の精神をもって、自分で自分を救おうと努力し向上していくとき、ネットワークである神も進化して有効に働くようになり、その神から救いがもたらされるのです。聖書の言葉を借りれば「神は自ら救おうとする者を救う」ということになるでしょうか。

 では、人間が神を創造したのだとすると、人間は、いったい誰が創造したのでしょうか?
 それこそが「神」ではないのでしょうか?
 次回、この問題について考えてみたいと思います。


 1月13日 神の正体@
 これまで「霊界と生まれ変わりの真実」というカテゴリーで、霊界や生まれ変わり、カルマの法則といったものは、否定も肯定もできないものであり、結局はわからないもので、わからないものはわからないとするべきであるという、私の考えを述べてきました。
 そこで今度は、そうした霊的な次元よりも上の、究極の次元である「神」について、論じてみたいと思います。すなわち、神とは何であるかという問題です。
 もちろん、霊的な次元のことがわからないのですから、さらに高い究極の存在である神のことなど、わかるはずがないのですが、それでも可能な限り推論を働かせて、「おそらくこうではないか」というものを提示してみたいと思います。
 というのは、宗教やスピリチュアルの信奉者はもちろんですが、特にそうした信仰を持っていない人でも、神という存在が、この人生を生きる上での、ある種の基軸になっているからです。人間が神という超越的な存在に思いをはせるのは、ある種の本能のようなものではないかと思います。たとえば陰で悪いことをしようとしても、ふと「神様が見ている。神様に怒られる」などと考えて、悪事をやめたりするわけです。
 そのため、神という存在の認識をあやまると、人生を誤った方向に進めてしまう危険が出てきます。たとえば、未開な種族に見られる「神というものは、定期的に生け贄を欲している存在だ。生け贄を捧げないと怒って災いをもたらす」といったように神をとらえていると、何の罪もない人が、神の名の下に殺されてしまうといったことが起こるわけです。
 あるいはまた、イスラム過激派のように、「神は、イスラム教を否定する者を殺害することを望んでいる」ととらえていたら、人殺しが行われてしまいます。神という存在をどうとらえるかで、人を殺人者にしてしまうわけです。
 ですから、私たちは神というものを、可能な限り正しくとらえる必要があると思うのです。
 では、神の正体とは、どのようなものなのでしょうか。
 あくまでも私の考えですが、紹介してみたいと思います。

 神というと、究極かつ根源的な一者であり、完全無欠であり全知全能であるとされていますが、私はそうは考えていません。究極的かつ根源的な存在、完全無欠で全知全能な存在というものは、あり得ないと考えています。
 なぜなら、仮にそういう存在がいたとして、その存在は完全に「静止」しているからです。完全なのですから、もうそれ以上の進化はありません。完全なのですから、何もする必要がありません。「何かをする」とは、何かを達成するためにするわけで、何かを達成するということは、達成されていないものがあるということ、つまり、完全ではないことになります。
 したがって、もし完全な存在がいるとしたら、その存在は凍結して静止しているはずです。何もせずじっと固まっているわけです。いってみれば、それは死体のようなものです。成長進化しない存在は死んでいるのです。
 もし神がそういう存在であるとしたら、人間との交流もありません。交流がなければ、実質的に神は存在しないのと同じです。論じる余地がなくなります。
 ですから、神は完全無欠な存在ではなく、今なお完全無欠へと向かって進化を続けている不完全な存在であると考えます。その進化の過程は「永遠」です。つまり、終わりがありません。ちょうど無理数が永遠に数を連ねるようにです。だからこそ神は「生きている」と言えるわけです。生きた存在とは、終わりなき永遠の進化を遂げる存在ということです。

 神というと、人間を創造した別個の存在をイメージします。
 しかし私は、そういう意味での神というものは存在しないと考えています。
 神というのは、私たち人間の「ネットワーク」のことだと考えています。
 どういうことかというと、たとえば、生物のからだを考えてみてください。私たちのからだは、37兆もの細胞によって構成されています。言い方を変えれば、ひとつひとつの細胞が集団になった存在が、私たちということになります。細胞と私たちは独立した存在ではありません。「私」は細胞であり、細胞は「私」です。
 細胞ひとつひとつは生きており、独立した生命体です。そして、おそらく非常にシンプルではあるでしょうが、意識というものを持っていると思われます。そしてこれら細胞は、他の細胞と情報を伝達しあっています。つまり、ネットワークで結ばれています。
 このように、私たち人間とは、37兆もの細胞で構築されたネットワークなのです。
 同じように、人間というものは、神という存在の「細胞」なのです。いえ、むしろ「神とは人間という細胞が集まって構築された存在である」と表現した方がいいかもしれません。
 そして、ネットワークというものは、情報交換される関係性でありシステムということになりますから、物理的な実体というものはありません。実体はあくまでもネットワークを構成している個々の要素です。
 すなわち、私たち人間こそが実体なのであり、神というものは、ネットワークですから、実体というものはないのです。「私」というものが存在していないのと同じです。存在しているのはひとつひとつの細胞です。細胞がなくなれば「私」もなくなります。「私」というのは実体がないのです。「私」とは、細胞のネットワークが作り出した存在だからです。
 その意味では、神は存在しないことになりますが、私たちの意識内部では、神の存在を感じます。情報として感じるのです。その意味では、神は存在していると言えるわけです。
次回、引き続きこの点について、詳しく見ていきたいと思います。
 


 1月1日 非凡な人
 
皆様、明けましておめでとうございます。
 今年はいったいどんな一年になるのでしょうか? いま世界は、困難な課題を数多く抱えています。テロ、戦争、環境破壊、貧困、その他さまざまです。とりわけ日本においては、北朝鮮問題がどうなるかが差し迫った課題でしょう。中長期的には、少子高齢化に伴って生じるであろうさまざまな危機的状況への課題です。いずれもかなり厳しい状況にあるように思われます。
 北朝鮮の問題が来年までこのままの状態で続くとは思えませんので、何らかのところに行き着くでしょう。それが戦争という最悪の形にならないことを祈るばかりですが、どうであれ、今年はおそらく、世界が大きく舵を切る一年になるのではないかと思います。
 いま世界は、「分断」の方向に揺れています。この傾向はもうしばらく続くと思います。今年はそれが過剰になるかもしれません。しかし歴史は、振り子のように対極の間を行ったりきたりしていますから、いずれ分断から「統合」へと振れてくるはずです。
 ある程度、こうした両極性を行き来するのは自然であるかと思いますが、極端になりすぎると危険です。特に分断に向かう場合は非常に危険です。分断は、差別、憎悪、争いを生むからです。その最たるものが戦争です。
 ですから、極端になりすぎてはまずいのです。極端にならないよう、バランスを取らなければなりません。バランスを取れる人々が求められるのです。

 成功する人というのは、世の中の流れの一歩先を読む人です。あまり先を読みすぎても成功しません。トランプ大統領が成功した(大統領に選ばれた)のも、分断に傾いていくという世の中の流れの一歩先を読んだからです。
 しかし、一歩先を読んで行動する人は、ともすると流れを極端に加速させてアンバランスにさせてしまいます。その点でもトランプ大統領は典型的な人物です。
 それに対して、いわゆる聖者だとか覚者という人は、一歩や二歩どころか、もっとはるか先を読んでいます。ですから、たいていその時代の人々からは理解されません。イエス・キリストなどはその典型です。もちろん、マザーテレサやガンジーのように、理解されて賞賛された聖者もいます(それでも認められるまではかなりの辛酸をなめました)。しかしそれは、たまたまそうなっただけです。
 芸術家などもこの傾向があります。死んでしばらくしてから作品が理解され、賞賛されたりするのです。ゴッホなどはその典型かもしれません。

 真の宗教家や芸術家というものは、自分を売るために世の中の流れに迎合することなく、自らの信念や内的直感に正直に生きています。それがたまたま時代の流れに合えば理解され賞賛されますが、時代の流れにあわなければ無視され、ときには迫害さえ受けたりします。
 いわゆる「平凡な人」と「非凡な人」の違いというのは、ここにあると思います。特殊な才能があるとか、すごいことをやってのけたというよりはむしろ、時代の流れに迎合せず、遠い未来の先を読んで、その信念や内的な直感に敢然と従う生き方ができる人ではないかと思います。時代にあわなければ、そういう人は世の中から「変人」扱いされます。もう少しましな評価が与えられる場合は「孤高の人」となって敬遠されます。

 時代の流れに迎合しない生き方は孤独です。さまざまな面で社会的にも不利になりやすいです。しかし、そうした「非凡な人」こそが、極端に傾きだした世の中にバランスをもたらすことができる可能性を持っていると私は考えます。
 真理というものは、極端な考え方の中には決して存在しません。真理は、右にも左にも、白にも黒にも存在しません。真理は、両者が統合されたレベルに存在しているからです。
 そのことを見通した人は、世の中が右に流れれば「左だ!」と叫びます。白に流れれば「黒だ!」と叫びます。だから、人々から憎まれ嫌われ、笑われ蔑まれます。
 それでもなお、その生き方を貫くのです。
 それゆえに、そういう人々は「非凡な人」なのです。
 私はいま、たくさんのそういう「非凡な人」が、宇宙から求められているように思います。「世の中から」ではありません。「宇宙から」です。
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