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 2018年7月の独想録


 7月28日 八正道
 前回は、八正道とは悟りに至る「手段」であると同時に、生き方の「目的(手本)」であることを述べました。
 では、具体的に八正道の内容とは、いかなるものなのでしょうか?
 まずは、釈迦が八正道について語った説教をそのまま引用してみます(実際には、八正道は最初から体系化されたものではなかったようです。後の学者が断片的に説いた釈迦の説法をまとめ、体系化して、釈迦が語ったものとして経典が書かれたというのが真相のようです)。
 今回は引用だけで長くなってしまうので、私のコメントは差し控えます。まずは釈迦の言葉をよく読んで、自分なりに考えてみてください。

  聖なる八支の道(八正道)

 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なるアナータピンディカ(給孤独)の園にましました。
 その時、世尊は、もろもろの比丘(びく=弟子)たちに告げていった。
 「比丘たちよ、いまわたしは汝らのために聖なる八支の道を説こうと思う。ひとつ、それを汝らのために分析してみようと思う。よく注意して聞くがよろしい。そして、よくよく考えてみるがよろしい。では、わたしは説こう」
 「大徳よ、かしこまりました」
 と、彼ら比丘たちは世尊にこたえた。世尊は説いていった。

 「比丘たちよ、いかなるをか聖なる八支の道というのであろうか。いわく、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

 比丘たちよ、いかなるをか正見というのであろうか。比丘たちよ、苦なるものを知ること、苦の生起を知ること、苦を滅することを知ること、苦の滅尽にいたる道を知ることがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正見というのである。

 比丘たちよ、いかなるをか正思というのであろうか。比丘たちよ、迷いの世間を離れたいと思うこと、悪意を抱くことから免れたいと思うこと、他者を害することなからんと思うことがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正思というのである。

 比丘たちよ、いかなるをか正語というのであろうか。比丘たちよ、偽りの言葉を離れること、中傷する言葉を離れること。麁悪(そあく)な言葉を離れること。および雑穢(ぞうえ)なる言葉を離れることがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正語というのである。

 比丘たちよ、いかなるをか正業というのであろうか。比丘たちよ、殺生を離れること、与えられざるを取らざること、清浄ならぬ行為を離れることがそれである。比丘たちよ、これを名づけて正業というのである。

 比丘たちよ、いかなるをか正命というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の聖なる弟子があり、よこしまの生き方を断って、正しい出家の法をまもって生きる。比丘たちよ、その時、これを名づけて正命というのである。

 比丘たちよ、いかなるをか正精進というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があり、いまだ生ぜざる悪しきことは生ぜざらしめんと志を起して、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいは、すでに生じた悪しきことを断とうとして志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいは、いまだ生ぜざる善きことを生ぜしめんがために志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいはまた、すでに生じた善きことを住せしめ、忘れず、ますます修習して、全きにいたらしめたいと志をたてて、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。比丘たちよ、その時、これを名づけて正精進というのである。

 比丘たちよ、いかなるをか正念というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があって、わが身において身というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世問の貪りと憂いとを調伏(ちょうぶく)して住する。また、わが感覚において感覚というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世問の貪りと憂いとを調伏して住する。あるいは、わが心において心というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。あるいはまた、この存在において存在というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。比丘たちよ、この時これを名づけて正念というのである。

 比丘たちよ、では、いかなるをか正定というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があって、もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、なお対象に心をひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地にいたる。これを初禅(しょぜん)を具足(ぐそく)して住するという。だが、やがて彼は、その対象にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向(ひとむき)となり、もはやなにものにも心をひかれることなく、ただ三昧(さんまい)より生じたる喜びと楽しみのみの境地にいたる。これを第二禅を具足して住するという。さらに彼は、その喜びをもまた離れるがゆえに、いまや彼は、内心平等にして執着なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地にいたる。これを、もろもろの聖者たちは、捨あり、念ありて、楽住(らくじゅう)するという。これを第三禅を具足して住するというのである。さらにまた彼は、楽をも苦をも断ずる。さきには、すでに喜びをも憂いをも滅したのであるから、いまや彼は、不苦・不楽にして、ただ、捨あり、念ありて、清浄なる境地にいたる。これを第四禅を具足して住するという。もろもろの比丘たちよ、これを名づけて正定というのである」
(阿含経典 相応部 四五 八 「分別」)


 7月21日 八正道の本質
 前回は、「私は存在していない」という認識が、仏教がめざす「知恵」であることを述べ、そのために八正道が用意されているというところで、話が終わりました。
 では、なぜ八正道を実践すると、こうした知恵が生じるのでしょうか?
 いうまでもなく、八正道は知恵に至るための手段です。つまり、八正道を実践することで知恵が生じてくるのです。
 ところが、原始経典を注意深く読んでいくと、気になる文面がときおり見られるのです。
 それは、「八正道を実践するには知恵が必要だ」と言っているのです。
 これは、奇妙なことです。知恵が必要だから八正道を実践しようとしているのに、その八正道を実践するには知恵が必要だといっているわけです。
 こうなると、いわゆる「たまごが先かニワトリが先か?」という問題になってきます。「八正道がなければ知恵がない、知恵がなければ八正道がない」といっているのです。
 また、釈迦はこうも言っています。
 「欲望を滅するのは知恵であるが、知恵を得るには欲望を滅せなければならない」
 これも同じことです。八正道の中身を分析すると、知恵を得るための修行と、欲望を滅するための修行の二本立てになっていることがわかります。

 これが何を意味するかというと、八正道というのは「手段」であると同時に「目的」でもあるということです。
 私たちは何かを達成するには、そのための手段を一生懸命に実践することで達成できるのだと考えています。確かに、物質的な領域に関してはその通りです。医者になるには一生懸命勉強しなければなりません。お金持ちになるには一生懸命に働かなければなりません。
 しかし、悟り(覚醒、解脱)の世界は、この原則が当てはまらないのです。
 これが非常にわかりにくいところであり、おそらく仏教理解における最大の難所です。
 「悟りを開くには悟らなければならない」と言っているようなものだからです。
 悟れないから悟りを開こうと努力しているのに、「悟りを開くには悟らなければならない」などと、分けのわからないことを言っているわけです。
 釈迦が、「私の悟り得た法(真理)は、絶妙で奥が深く、万人の理解するところではない」と言ったのは、おそらく、こういうところではないかと思います。

 このことは、まず、こう解釈できると私は考えています。
 まず、ある意味では、最初の頃は、「悟ったマネ」をすることです。悟った人は欲望を野放しにしないでしょう。なので、欲望を少しでもなくそうとします。欲望を少しでも減らすと、知恵が少し生まれてきます。
 なぜなら、欲望は知恵の発生を妨げているです。「欲に目がくらんだ」という言葉がありますが、欲望があると正常な判断力や直観力が鈍り、欲望が「私」であると錯覚させているのです(無明)。つまり、知恵が発揮できないのです。
 そこで、その欲望という障害が少しでも取り除かれると、そのぶんだけ知恵が生まれてくるのです。言い換えれば、「私(エゴ)」の意識が希薄になってきます。そして、知恵が生まれてくれば、欲望もさらになくすことができるようになってきます。そして、欲望をさらになくすことができるようになると知恵もさらに生まれてきます。……というように、欲望の消滅と知恵の発生とは相互的に影響し合いながら、しだいに高度なものになっていくのです。
 八正道というのは、そのようなプロセスで構成されているのです。
 
 欲望なく知恵があれば、それは覚者です。
 八正道を真に実践できる人は、覚者だけです。
 ですから、すでに述べたように、八正道というのは、手段であると同時に目的なのであり、目的というのを別の言葉で表現すると「お手本」と言ってもいいかもしれません。つまり、八正道を実践することは、覚者をお手本にするということであり、要するに覚者の「マネをする」ということになるわけです。
 そして、そのマネを徹底的にどんどん行っていけば、いつの日かホンモノになっていくわけです。
 いくら医者のマネをしても、医者にはなれませんが、覚者の場合は、八正道にしたがって、覚者のマネをすれば、しだいに欲望(エゴ)の消滅と知恵の生成が生じて、しだいに覚者に近づいていき、ついにはホンモノの覚者になれるわけです。

 仏教において「知恵」というのは、さまざまな段階がありますが、おそらくその究極的な知恵は、「手段と目的は同じである」ということを理解できる知恵のことです。
 欲望がある限り、そのような知恵、すなわち、手段と目的が同じであることは、認識できません。欲望は、「目的を達成するために手段に訴える」からです。
 逆に、「手段と目的は同じである」という知恵を得れば、「目的を達成するために手段に訴える」という欲望は消滅します。知恵の獲得と欲望の消滅は、両輪のような関係なのです。

 覚者に成ることを、仏教では「成仏」と言います。死ぬことではありません。仏教とは「仏に成る教え」のことです。
 しかし、成ろうとする限り、成れないのです。なぜなら、仏は「成る」ものではないからです。自分は仏であることを認識することです。そして仏というのは、欲望が作り出す「私(エゴ)という幻想が消え、「私は存在していない」と認識した人のことを言うのです。
 
 ですから、仏に成ろうとしてはいけないのです。つまり、自分を否定して何か自分とは違う別の存在に成ろうとしてはいけないのです。仏に成ろうとするのではなく、「仏であろう、仏として生きよう」ということに意識を向ける必要があるのです。
 そのような修行法、これが八正道の本質です。「修行」というより「生き方」ととらえた方が正しいでしょう。だから手段であると同時に目的(お手本)ということになるのです。

 この生き方を続けていくと、しだいに「私」という意識(幻想)が希薄になってきます。すべての人のなかに「私」を感じるようになります。そしてついには、すべての人が「私そのもの」なんだと感じるようになります。「すべての人が私」というのは、言い換えれば「(特定の)私というのは存在しない」という認識です。これが仏教で言う「知恵」です。
 私が存在しなければ、欲望は存在せず、欲望が存在しなければ、苦しみが消滅します。
 電車で足を踏まれたら怒りがこみ上げてくるのは、自分が存在する(と錯覚している)からです。私というものは存在しないと認識している人は、足を踏まれても、まるで他人の足が踏まれたような感覚でしかないので、怒りは生じません。こだわりがないのです。
 一方で、すべての人が私だという観点で言えば、他の人が苦しんでいるのは、私が苦しんでいることになりますから、ほうっておけません。自分を助けるように人を助ける生き方をするでしょう。これが慈悲であり、いわば、真実の愛です。
 こだわりのなさと、真実の愛(慈悲)、これが、覚者の特徴です。

 以上のことは、とても重要です。
 なぜなら、修行者を自認するほとんどの人たちが、物質的な発想、つまり、「成る」という発想で修行しているからです。これは、医者や弁護士といった、世間的に尊敬されるような職業人に成ろうとするのと、本質的に同じであり、エゴの動機に基づくものです。覚者に成ろうとしてはダメなのです。「覚者になって人から認められよう、人を支配しよう、賞賛されよう」といったエゴの動機が、どうしてもそこに働いてしまうからです。
 その発想で修行をがんばればがんばるほど、悟りを開くどころか、あやしいカルト教団の教祖みたいに、支配欲と傲慢さに満ちた「俗物」に成り下がってしまうのです。悟りを開こうと修行をしている人は「俗物」なのです。俗物である限り、覚者とは言えません。

 悟ろうとするのではなく、悟った生き方(のマネ)をすること、すなわち、毎日の生活を、ただ清らかに美しく生きることー覚者がそうであるようにー、そのような生き方そのものに全身全霊を投入すること、これが真の修行であり、八正道の実践であり、真の仏教徒なのだと、私は考えています。
 言い方を変えれば、「修行」は「訓練(トレーニング)」ではないということです。訓練は何かになることを目的としていますが、修行は、ただ修行を行うこと自体が目的になっているのです。
 もちろん、悟っていないのだから、悟った生き方はできないでしょう。しかし、そのとき「ああ、私は悟った生き方ができていない。私はダメだなあ」と思ったとしたら、まだ「俗物」です。「悟りを開いた自分は偉い、そんな偉い存在になりたい」という傲慢さがあるのです。まだそこには「自分(私)」が存在しています。「私」へのこだわりがあります。
 そのような傲慢さ、つまり「私」へのこだわり、私という意識がなければ、悟った生き方ができようとできまいと、ただとにかくひたすら淡々と、悟った生き方をすることだけに意識を向けて日々を生きるはずです。

 たとえるなら、(真の)ピアニストが、美しい音楽を響かせることだけに意識が向いているのと同じです。そこに自意識はないはずです。つまり、「私は美しい音楽を響かせている」という意識はないでしょう。
 生き方というのは、音楽のようなものであり、私たちは音楽家と同じなのです。真の音楽家は美しい音楽を表現させることだけに意識が向けられており、「すばらしい音楽家として認められよう」とは、考えたりしていないでしょう。
 八正道という美しい「音楽」を表現して生きる者、これを仏教徒と言うのです。


 7月14日 仏教がめざす解脱とは
 前回は、苦しみの原因は欲望(執着)であるが、究極の原因は、執着している「我」が存在しているからであり、その我を消滅させることが、苦しみからの解脱であり、仏教がめざしているものであるとしました。つまり、「私は存在していない」という「知恵」を得ることで、「私は存在している」という「無明」を打ち破り、その結果、欲望が消滅し、欲望が消滅することで苦しみが消滅し、輪廻転生もしなくなることが、仏教の目的なのです。
 しかし、「私は存在していない」という知恵を認識する主体は、「私(我)」なはずですから、これは矛盾したことになります。私が存在していなければ、「私は存在していない」という知恵を認識することはできないからです。
 それに対して、仏教(釈迦)は、そのような認識する主体というものの存在は考えないことを貫いています。「否定」ではなく「考えない」のです。
 さて、では、この問題は、どのように決着をつけたらいいのでしょうか?

 釈迦は、机上の思想家ではなく、実践的な思想家でした。苦しみから救われることが最優先課題であり、仏教理論はそのために必要な最低限のものしか説きませんでした。単なる知的遊戯にすぎないようなもの、また、確かめようがないものに関しては、「そんなことを考えて貴重な時間を使っているヒマはない。それよりも、苦しみから救われるために精進せよ」というのが、釈迦の基本的な姿勢です(有名な「毒矢のたとえ」が、こうした釈迦の姿勢をよく示しています)。徹底した合理主義者、実践主義者、これが釈迦です。
 もしも、認識する主体について考えた方が、解脱に役立つのなら、釈迦はそれに関して多くの説教をしていたでしょう。しかし、そんなことをしても解脱に役立たないから、そうしなかったのです。
 なぜなら、認識する主体というのは、決して認識できないからです。
 以前にも似たようなことを書きましたが、認識する主体は、眼にたとえることができます。眼は何でも見る(認識する)ことはできますが、自分自身だけは見ることができません。眼は眼を見ることはできません。つまり、認識する主体というものは、自分以外のものは認識できるが、自分自身は認識できないのです。原理的に不可能なのです。
 ですから、そのような主体について「それはどんなものだろうか?」と考えることは、決してわかるわけはないし、考えるだけ時間の無駄なのです。

 ですから、何か実体があるかのように、その主体について考えるのではなく、その「働き」について論じていけ、というのが釈迦の考え方です。彼は次のように言っています。
 「いかなる苦しみが生ずるのであろうとも、すべて認識作用によって起こるのである。認識作用が消滅するならば、苦しみが生ずるということはありえない」(『スッタニパータ』734)
 「認識する主体が消滅するならば」とは言っていません。「認識作用が消滅するならば」と言っているわけです。
 
 ところが、少し余談になりますが、釈迦がこのように空論を弄ぶことを嫌い、あくまでも実践を重視していたのに、「なるほど、認識作用が苦の消滅につながるのか」ということで、今度は認識作用について、後の学者らが、あれこれ複雑な理論を作り上げてしまいました。それが「唯識」と呼ばれるものです。
 「唯識」は、原始仏教に、(おそらく)ヨーガの哲学などをおりまぜて作り上げた、複雑怪奇な「深層心理学」です。知的遊戯としては面白いです。しかし、仏教というものを難解なものにしてしまった罪もあります。このようなものを学ばなければ解脱ができないということはないし、むしろ、深入りして学ばない方がいいと思います。ますます実践へのエネルギーがそがれ、観念的な人間になってしまう怖れがあるからです。

 さて、話をもとに戻しますが、私たちは「認識作用が消滅する」ということだけを考えればよく、「認識作用の主体が消滅する」と考える必要はなく、というより、そのような実体的なものを考えてしまうと、ある種の妄想というか、幻想のようなものを想定し、見てしまう危険があるので、考えるべきではないのです。
 これを、さきほどの眼のたとえを使って説明すれば、眼は自分を見ることはできませんが、鏡を使えば自分自身を見ることができます。しかし、鏡に映った自分は本当の自分ではなく、いわば虚像です。しかし眼は、その虚像を本当の自分だと錯覚してしまうわけです。
 このような錯覚に陥るので、主体の存在など、考えない方がよいのです。
 似たような言葉で、禅の世界では、「仏を見たら仏を殺せ」と言っています。物騒な表現ですが、その「仏」は本当の仏ではないからです。真の仏は見えないものなのです。

 では、「認識作用が消滅する」とは、いったい、どのような状態なのでしょうか?
 認識作用とは、要するに、通常、私たちが「意識」と呼ぶものです。正確にいえば「意識を意識する働き」です。
 ですから、「認識作用が消滅する」という意味は、「意識を意識しなくなる」ということです。意識そのものは存在しているわけです(もし意識そのものが消滅したら、個としての存在が消滅したことになってしまいます)。
 私たちの内面に注意を向けると、さまざまな雑念、思い、イメージ、妄念、欲望といったものが次から次へと湧きあがってきています。私たちはそうしたものを「自分(我)」と錯覚しています。
 しかし、そうしたものを意識しないようになれば、実質上、「自分」は存在しないのと同じことになります。
 さきほどの眼のたとえでいえば、鏡に映った虚像を見ている眼が、まぶたを閉じたようなものでしょうか。そうすれば、自分の姿は見えなくなります。
 すると、「私はいなくなった」と認識するでしょう。
 一方、眼は自分を見ることはできず、見えないということは、主観的には、存在していないのと同じことですから、「私はいなくなった」と認識している「私」も、存在していないことになります。
 しかし、客観的には、主体は存在するわけですから、「私はいなくなった」という認識作用はあるのです。正確にいえば、「(もともと)私はいなかった」ですが。
 一方、ここで奇妙な現象が同時に生じます。
 「私はいない」という認識をしている主体は存在するわけで、それは「私」であるのですが、そのときの「私」は、特定の個人としての「私」ではなく、ある種の普遍的な「私」なのです。そのため、悟った人は「私はいない」と認識すると同時に、「すべてが私である」という認識をするのです。その「私」こそが仏性ではないかと思うわけです。
 釈迦は悟りを開いたとき「天上天下唯我独尊」と言ったそうですが、これは釈迦個人が「私だけがただ一人偉いんだぞ」と言ったのではなく、すべての人に宿っている「仏(という私)」が偉いんだぞと言ったのではないかと、私は推測しています。つまり、仏性を持っている私たちすべての人が(本質的には)偉いのだということではないかと思うわけです。
 そして、「すべてが私である」という認識に至ったならば、何が生じるかというと、「生きとし生けるものに対する慈悲」ということになります。

 ところで、「私はいなかった」という認識作用が、仏教で言う「知恵」なのですが、ならば、いったいどうしたら、その知恵が生じるのでしょうか?
 具体的な修行は八正道ということになるのですが、八正道を行ずると、なぜ「私はいなかったのだ」という認識作用(知恵)が生じるのでしょうか?
 次回は、この点について、さらに深く考察してみたいと思います。


 7月7日 オウム真理教はなぜ道をあやまったか?
 本日も「真の仏教」について論じる予定でしたが、ご存知のように、昨日、オウム真理教の教祖やその信者がついに死刑になりましたので、今回は予定を変更して、この話題について論じてみたいと思います。もっとも、ある意味では「真の仏教とは何か」ということも間接的に知ることができるのではないかと思います。

 さて、私は20代前半の若い頃、オウム真理教の前身である「オウム神仙の会」という、小さなヨガ団体に半年ばかり入っていました。これについての詳しいことは拙著『悟りを開くためのヒント』で書いたので、ここでは簡単に申し上げますが、そこで、道場に通ったり合宿にも二度ほど参加したりして、麻原の指導を受けたわけです。また、麻原の師匠であるパイロットババというインドの行者を招いたときも、その人の指導を受けました(このインドの行者はいまは「私はインド公認の大聖者である」と宣伝している女性ヨガ指導者の師匠になっています)。
 弟子たちはみな熱心でした。超能力だとかそういう浮ついたものに憧れてきた人は少なく、ほとんどが「解脱」だとか「人間としての真実の生き方」といったものを真剣に求めていました。私も同じでした。
 麻原の説教は、かなり高度なもので、歯切れがよく、少なくとも説教に関してはすばらしいものがあったことは確かです。理路整然と論理的に話すので、理数系の若者にはたまらない魅力があったと思います。また、ヨガの難しいポーズや呼吸法もマスターしていましたから、それなりにヨガの達人だったようです。
 ですから、私をはじめ多くの若者が心酔し、彼こそ真の最終解脱者であり、仏陀であり、グルであると信じてしまったわけです。

 しかししばらくして、私は当時からオカルト雑誌に記事を執筆していたのですが、その記事が自分の説教をマネして書いたものだといって麻原から電話がかかってきたのです。その口調は、常軌を逸していると思われるほどヒステリックで粗暴な言葉使いでした。
 私が最終解脱者として抱いていたイメージは釈迦であり、釈迦は決して粗暴な言葉使いをしたことがなく、静かに穏やかにゆっくりと、説いてきかせるように話したと聞いていましたので、まずはこのことに大きな違和感を覚えました。
 私はマネはしておらず、麻原とは関係のない別の本から引用したと言って、その本の題名まで告げましたが「いや、あの本には書いてない!」の一点ばりなのです。
 最終解脱者なのに、そのくらいの事実がわからないことにまた驚きであり、仮に百歩ゆずって私がマネをしたとしても、そんなに激怒するようなことなのだろうかと思いました。
 あくる日、私は道場に呼ばれました。広い部屋に案内されると真ん中に座布団がおいてあって、そこに坐らされました。そして、まわりを信者に囲まれました。私の目の前に坐ったのは、今回、死刑になった早川でした。早川は「あなたの記事のここは尊師の言ったことだ、ここもそうだ、あそこもそうだ」と言うのです。それはどの本にも常識的に書いてあることなのですが、あくまでも麻原が言ったといってゆずりません。ところが、麻原が電話で文句を言った肝心の箇所は出てこないのです。
 おそらく、後で本を見て、私が正しかったことがわかったのでしょう。しかし、「最終解脱者」が間違ったではすまされません。なので、とにかく私が間違ったことにするために、まったくくだらないことで因縁をつけて私を悪者にしたのだと思います。
 私はもう麻原は電話の時点でインチキだと感じたので、「マネはしていませんが、似たような文章を書いてしまったことをお詫びします」という手紙を書いて渡すと、ようやく解放してもらえました。ちなみに、その場所に麻原は結局顔を出しませんでした。
 そしてすぐに脱会しました。それからまもなくオウム真理教となり、最初は「子供が出家して帰ってこない」という問題が出てきました。私はそのニュースを見て「たぶん、問題を起こすだろうな」と納得がいきましたが、さすがにサリンをまいて世界を震撼させるテロを行うことまでは予想できませんでした。

 さて、今回、論じたいのは、まじめに解脱や人間の真実の生き方といった、いわば釈迦の弟子と同じ動機で入信した弟子たちが、なぜ、あのような凶悪事件を起こしてしまったかです。それについては、いろいろな学者がいろいろと言っていますが、現場にいた者として、私の見解を述べてみたいと思います。
 まず、彼らの多くは、入信する前に、すでにヨガの思想に洗脳されていました。ここが重要なポイントです。たとえば、ラジニーシというインドの有名なグルがいましたが(後に彼の教団は毒をまいたり、教祖は麻薬違反で逮捕されました)、その教団に入っていた人も何人かいました。
 ヨガ系の教えでは、グルは絶対者であり、グルを疑う者は決して解脱できない。グルを心底信じるものだけが救われる。そのためにグルは弟子のその信仰の強さを試すのだということが、言われているのです。たとえば、ヨガの伝説的なグル「ババジ」などは、はるばる山奥にババジの弟子になるためにやってきた人に対して、「もし私の弟子になれないなら死ぬというのなら、死んでみろ」と言っています。そうしたらその人は崖から飛び降りて死んでしまいました。するとババジはその信仰の強さを認めて、生き返らせてやり、自分の弟子にしたのだと、そんな話が伝えられています(本当かどうかはわかりませんが、インド宗教にはまった人は、こうしたことを信じてしまうのです)。他には、ミラレパという人物がいて、この人物も師匠から、師匠への信仰を試されるようなことをさんざんされています。
 こうした話が脳裏に焼きついているために、グルから「そんなことしてはまずいのではないか」と思われるような命令を受けても「グルはちゃんとよく考えて、結果的にあなたのいいように導いてくれているのだ。だから、それを信じて行うことだ。それが真の弟子であり、そうしてこそ解脱ができるのだ」というように、すでにそうした教えに洗脳されている人が、オウムのもとにやってきたのです。私もその一人だったわけです。

 なので、麻原からすれば、カモがネギを背負ってやってきたようなものです。自分を最終解脱者でありグルだと信じさせさえすれば(そのために利用されたのが、空中浮揚のトリック写真です)、なんでも自分の思う通りになる奴隷がやってきたことになるからです。
 麻原からの「坂本弁護士を殺せ」とか「サリンを作れ」という命令は、どの弟子も最初はおかしいと感じたはずです。ところが、「グルには私たちには想像も及ばない考えがあるのだ。私たちを試しているのだ。グルにしたがっていれば何も問題なく、すべてがうまくいくのだ」と思い込んでしまったのだと思います。
 そうしてあげくの果てに、あのような凶行に及んでしまったのだと思います。

 私も、他の修行仲間から、出家しないかと強く誘われました。「これからこの教団は大きくなっていく。いま出家すれば、麻原の側近の弟子になれるぞ。そのチャンスを逃すのはもったいないだろう」と言われました。そう言われると、心がぐらつきました。何しろ、解脱できるかどうかはグルに近ければ近いほど可能性があると、インド系ヨガでは説かれているからです。

 しかし、結局、なぜ私が出家せず脱会したかというと、きっかけはさきに紹介したトラブルにあったのですが、あの件がなくても、私は脱会していたと思います。
 その理由は、まず完全に麻原を信じられなかったからです。最初は、信じられないのは自分の信仰が薄いからだと思い、自分を責めたりしましたが、しだいに、どうもそうではないと気づきました。
 確かに、麻原の説教はすばらしいのですが、麻原そのものに「美しさ」を感じなかったのです。私にはそこが非常に重要だったのです。
 麻原は、見た目も美しくありませんでしたが、見た目は別としても、とにかく全体的に美しさを感じられなかったので、「何かがへんだぞ」という疑念が晴れませんでした。

 後で深く気づいたことですが、「美しさ」というものは、実は大変に重要なことなのです。私は、真理であれば美しく、善であれば美しいと考えています。美しさを感じない真理、美しさを感じない善というものは存在しないと考えています。
 こうした考え方は、私の気質が、もともと芸術家タイプであったことと関係するのかもしれませんが、ギリシアの思想を学生時代に学んだことも大きかったと思います。ギリシアの思想では、「美」というものを、解脱の非常に重要な要素であると考えているのです。

 断言してもいいですが、美しさを感じないものは、まずニセモノです。少なくとも不備があります。もちろん、見せかけの美しさという意味ではありません。見た目もある程度は重要ですが(人は内面の状態が外面に表れるものですから)、それよりも、もっとトータルにかもし出されるものです。
 汚いもの、汚れを感じさせるものは、いかにその説教がすばらしくても、あるいは、いかに「聖者」と呼ばれているとしても、まずニセモノだと思って間違いありません。
 釈迦はこう言っています。
 「悪いことをせず、善いことをすること、心をきれいにすること、これが仏教である」と。
 この「心をきれいにすること」を、もう少し突っ込んでいえば、「心を美しくさせること」と言えるでしょう。
 ここが、宗教の最大のポイントであり、解脱修行をする上での主軸になるのです。
 ここをなおざりにして、やたらにテクニックばかり追い求めても意味はありませんし、むしろ邪道に陥ってしまいます。オウム真理教ではクンダリニーヨガを教えていましたが、クンダリニーヨガそのものは、エネルギーを高めて超能力を開発するだけで、それだけでは解脱しません。それに加えて「心の浄化」の修行を徹底的にしないと、狂人になり、邪悪になってしまいます。
 麻原はその間違いを犯してしまったのです。麻原はクンダリニーヨガは成就していたと思われますが、心の浄化がまったくできていませんでした。そもそも彼は若い頃にニセ薬を販売して逮捕されるなどの事件を起こしていますし、もともと心が汚れていたのです。心が汚れたままエネルギーを高めるような修行だとか、苦行をすると、まず間違いなくおかしくなります。
 しかし、インド系の教えしか知らない人は、そうなりやすいのです。

 ですから、私はひとつの教えだけを学ぶというのは、よくないと思っています。
 いろいろな宗教を学ぶべきです。そうすれば、その宗教の欠点や弱点もわかってきます。それを他の宗教で補う必要があるのです。
 ヨガ、仏教、キリスト教、ギリシア哲学、道教、ユダヤ神秘主義(カバラ)、クリシュナムルティ、そして心理学と芸術。こうした教えは、解脱に必要な「必須カリキュラム」だと、私個人は考えています。また、言うまでもないことですが、こうした教えを学びながら、地に足をつけて現実生活から学ぶ姿勢も不可欠です。
 みなさんには、ぜひ、これらすべてを学んでいただきたいと思っています。このうち、どれかひとつだけに心酔することは危険です。それぞれ真理の一面はとらえていますが、真理は「一面」ではなく「全面」だからです。ですから、真理をとらえて解脱するためには、少なくとも上記にあげた思想はすべて学ぶべきだと思っています。
 そうしていたら、オウムのような事件は起きなかったのではないかと考えています。

 宣伝になってしまいますが、実は上記の教えを学ぶ塾のようなものを今、計画しています。
 東京の東村山市に別荘を持っている人と知り合いになり、使っていないから貸してあげるよと言ってくださいました。その三階に広い部屋があり、12人〜16人くらい収容できますので、こじんまりした勉強会ですが、月に二回くらいのペースで開こうと思っているのです。
 「いかなる宗教組織、グルに頼ることなく、独力で魂の覚醒をめざす人のための情報提供の場」というコンセプトです。いうまでもありませんが、宗教団体ではないし、私もグルなどではありません。私は単なる「案内役」です。勉強会に来た人は、年齢・性別・職業・家柄・過去の経歴、その他、あらゆることに関係なく平等に尊重されます。かたぐるしい緊張した学びの場所ではなく、明るく楽しく、勉強会の終了後には、みんなでお茶を飲みながら歓談しようと思っています。会費は一回三千円くらい頂こうと思っていますが、お茶会は無料です。なので、お茶会だけに来てくださっても、ぜんぜんOKです。なぜなら、そうして人が集まってくれれば、お互いに情報を交換することができ、私も参加者も役に立つからです。
 今年の9月くらいから始めようと思っています。詳細が決まりましたら、またお知らせをしたいと思っています。近郊にお住まいの方はぜひ、いらしてください。ただ、いつまでこの家が借りられるかわからないので、存在しているうちに来てください(笑)。
 私の「野望」は、この勉強会から、「美しい人」をなるべくたくさん輩出し、苦悩している人を少しでも慰めてあげられるような人を世に送ることです。
 私は無力なので、残念ながら、世の中を変えることはできません。しかし、世の中を変えることができる人を変えることはできるかもしれないと、ひそかに期待しています。
 自分も他者も世の中も、みんな美しくなる。そんな勉強会にしたいと思っているのです。

 あともうひとこと。いま紹介した必須カリキュラムのなかのユダヤ神秘主義カバラのセミナーを行います。難解なカバラの基礎から奥義まで、すべて理解していただき、しかも実生活に活用できるレベルまで紹介するという、かなり無謀(?)な内容になるかと思います。

 日時:2018年8月26日(日) 10:30〜16:30(終了後、懇親会あり)
 場所:ホテルローズガーデン新宿(東京都新宿区)
 会費:9800円(税込)
 こちらもぜひ、よろしくお願いいたします。
 詳細&申し込み↓
 51コラボレーションズ


 7月1日 欲望をどのように捨てるか
 仏教の目的は欲望をなくすことです。なぜなら、欲望があるがゆえに苦しみがあるからです。欲望があるがゆえに苦しみがあるという道理は、前回、説明したとおりです。
 さて、では、なぜ欲望があるかというと、それは「無明(むみょう)」が原因だというのです。無明とは智恵がない状態のことをいいます。
 つまり、知恵がないから欲望があるのだと言っているのです。
 無明(智恵がない)→欲望→苦しみ、という連鎖です。
 これについて、もう少し説明しなければなりません。
 たとえば、おいしそうなキノコが生えていたとします。しかし、それは毒キノコです。もし「これは毒キノコだ」と考えることができる智恵があれば、おいしそうだからといって、毒キノコを食べたりしないでしょう。智恵がなければ食べて苦しみます。
 同じように、この世の欲望は苦しみをもたらすのに、その欲望を野放しにするのは、「欲望は苦しみをもたらす」という智恵がないからです。智恵があれば、苦しみに変わる欲望を求めたりしません。
 この智恵は、四諦のなかで苦諦のことであり、それは八正道の「正見」の修行によって達成されます。
 私はこの智恵のことを「分析智」と読んでいます。
 分析智があれば、欲望を追い求めたりしなくなるでしょう。
 ただし、欲望は「抑制」はされますが、消滅はしません。毒キノコは食べないでしょうが、「食べたい」という欲望は残ってしまいます。
 そこで、仏教では、さらに高度な智恵の獲得をめざしています。私はそれを「直観智」と呼んでいます。直観智が開かれると、欲望は消滅します。

 たとえば、欲望があり、それがかなえられないと、「怒り」という苦しみの感情が湧きあがります。分析智があれば、怒りは苦しみであるから怒ってはいけないと抑制されます。しかし、怒りそのものは消えません。いわば、我慢しているような状態です。それでもとにかく我慢(抑制)は必要なのです。我慢しなければ、怒りはますます増大してしまうからです。
 しかし、直観智が開かれると、怒りは消滅します。
 以上を、次のようなたとえで説明してみます。
 電車で足を踏まれたとします。踏んだ相手は謝りもしません。あなたは怒りを覚えるでしょう。しかし、あなたは分析智によって、「怒ったら喧嘩になり、いろいろとまずいことになるだろう」と考えて、怒りを抑制します。でも、怒りの感情は残ったままです。
 ところが、ふとその人を見たら、その人は目の不自由な人で、さらに足も不自由で、間違って足を踏んだことがわかり、しかも、足を踏んだことに気づいていない様子であることがわかったとします。すると、どうでしょうか。あなたの怒りは消滅するのではないでしょうか。
 たとえるなら、これが直観智です。
 厳密には、このたとえばあまり正確ではないのですが、とりあえず今の段階では、分析智と直観智の違いが、なんとなく理解していただけたと思います。

 この直観智を得ることが仏教の最終目的です。それを達成する修行が、八正道の最後の「正定」です。ただし、いきなり直観智を開くことはできないので、そのためには、まず分析智を開いていき、しだいに直観智を開くようにしていくのです。それが残りの八正道の修行プロセスです。
 表現を変えれば、欲望の「抑制」から入っていき、最後に「消滅」させる道、これが仏教なのです。

 ところで、ここで大きな問題があります。
 なぜ直観智によって、欲望がなくなるのでしょうか?
 さきの怒りのたとえでは、なぜ足を踏んだ人が障害者だとわかったら、怒りが消滅したのでしょうか? そもそも、なぜ足を踏まれたら怒りが生じるのでしょうか?
 少しくらい足を踏まれても、別に何の不都合もありません。なのに、怒りを感じるのは、「自分は軽んじられた」という思いが生じるからです。つまり、自分のプライドというか、そうしたものを否定されたからです。「自分が否定された」と言ってもいいでしょう。
 ところが、相手が障害者だとわかると、わざと足を踏んだのではないことがわかり、自分が軽んじられたわけではない、自分は否定されたわけではないことがわかって、怒りがなくなったのです。

 以上のたとえでは、「自分は否定されたわけではない」という認識が、直観智であるという説明をしました。しかし、これは少し正確ではありません。
 仏教の直観智とは、「自分が否定されたわけではない」ということを認識することではないからです。では、何を認識するのかというと、「怒りというものを感じている自分というものは存在しないのだ」ということを認識することなのです。
 欲望を感じるのは、欲望を感じる主体があるからです。その主体を仏教では「我(が)」といいます。わかりやすく言えば「エゴ(偽りの自己)」です。
 そして、仏教では、我(自分という意識)は存在していないというのです。
 私たちは「私が、私を、私に」とか、「これは私のもの」といったように「私」という意識を持っていますが、そんなものは存在しない、単なる錯覚であると、仏教では説いているのです。「私」は存在しないと言っているのです。
 欲望の主体、つまり、欲望する私が、そもそも存在しないのだと認識すれば、欲望は消滅します。これが直観智であり、仏教が最終的にめざしている境地、すなわち、悟りであり、ニルヴァーナです。
 禅の道元は「仏道とは自己を習うことなり。自己を習うとは、自己を忘れることなり」と説いていますが、まさにその通りなのです。厳密に言えば、「自己を忘れる」というより、自己など存在していないことを知るということになるでしょうか。
 自己など、どこにも存在しない。仏教ではこのことを「諸法無我」と呼んでいます。
 つまり、実は苦しみの最終的な根本にあるのは、欲望ではなく「我」なのです。「私という意識」なのです。これがあるから、欲望が生まれ、苦しみが生まれるのです。
 ですから、仏教の最終的な目的は、我の消滅です。正確に言えば、我など存在しないという認識を得ることです。無明とは、「我など存在しないことがわからない状態」ということになります。

 ところが、ここで再び大きな問題が生じます。
 いま「我など存在しないという認識を得ること」が仏教の最終目的だと言いましたが、しかし、「我など存在しないという認識」をする主体そのものは、いったい誰なのか?、ということになってしまうのです。認識するという行為は誰が行っているのか?ということです。それもまた我ではないのか? という疑問が生じるのです。
 「私は、私など存在しないことがわかりました」と言ったら、おかしなことになるでしょう。「そう思っている<私>は誰なんだよ?」と、ツッコミを入れたくなるでしょう。これと同じ理屈です。「私」が存在しないなら、「私が存在しないことがわかる」ということはありえません。

 ところが、こういう疑問は自然に起こるのだと思うのですが、釈迦は次のように言っているのです。
「(誰が執著するのですか?という問いに対して)このように問うのは正しくない。わたしは<(誰かが)執著する>とは言わない。……”いかなる縁にもとづいて執著があるのですか?”とわたしに問うべきである」(雑阿含経)
 理屈からすれば、執著(欲望)する主体があるはずなのですが、釈迦はそういう主体を「否定した」、というより、「考えない」という立場をとっているのです。
 いったいなぜなのでしょうか?
 これは、仏教のもっとも深い核心部分です。ここがわかったら、真の仏教がわかったことになると思います。次回は、この点について説明したいと思います(もし説明できれば、ですが)。

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