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 2018年8月の独想録


 8月21日 八正道の分析A
 引き続き、残りの八正道である「正念」と、「正定」(次回)について書いてみたいと思います。
 「正念」について、経典にはこう書いてあります。
 「わが身において身というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世問の貪りと憂いとを調伏(ちょうぶく)して住する。また、わが感覚において感覚というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世問の貪りと憂いとを調伏して住する。あるいは、わが心において心というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。あるいはまた、この存在において存在というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。比丘たちよ、この時これを名づけて正念というのである」
 仏教経典のスタイルとして、くどくどと語句を繰り返して書いてありますが、簡潔にまとめるなら「身(肉体)、感覚、心、存在」を観察して、この世間の貪りと憂いを克服せよと言っているわけです。

 仏教では人間という存在を「色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)」と呼んでいます。「色」とは物質のことですが、特に人間に当てはめた場合は肉体という意味でとらえます。「受」は感覚作用、「想」はイメージ、「行」は、難しくいうと、深層意識の力動的潜在勢力、ひらたくいえば衝動のことです。「識」とは意識のことです。つまり色受想行識とは、肉体と心理作用のことです。
 これが「身」と「感覚(受)」と「心(想行識)」の意味です。そして「存在」というのは、文字通り、この地上の一切の事物のことです。
 これらはすべて無常であり、無常であるとは苦をもたらすということですから、釈迦は、肉体は無常であり、心(受想行識)は無常であり、すべての存在は無常であるということを片時も忘れないように、常に注意深く観察して「目覚めておれ」と言っているのです。つまり、「肉体は無常である。心は無常である、いっさいの存在は無常である」と、常に意識していることです。これは、最近流行している「マインドフルネス」と似ています。違う点は、「無常である」という自覚をもって自己観察をするということです。

 しかし私たちは、すぐに肉体や心や地上の存在に心を奪われ、そこからもたらされる快楽に惑わされ、欲望を出して、そうしたものに耽溺してしまいます。しかし、そうしたものは無常ですから、いずれ苦しみに変わります。苦しみを味わうとこりごりして反省するのですが、また欲楽に惑わされ、同じことを何回も何回も繰り返しているのです。
 そういうことを避けるために、常に意識を肉体と心とすべての存在とに注意を向けて観察し、「すべては無常なんだぞ」と自分に言い聞かせるようにせよと、このように釈迦は説いているのです。
 たとえるなら、外からウイルスが侵入しようとすると、すぐに免疫細胞が働いてウイルスをやっつけますが、これと同じように、肉体、心、存在は「歓びである」という気持ちが芽生えようとしたら、すぐにそれを打ち消して侵入を防ぐようにするわけです。
 これが「正念」の修行法です。正念とは「無常観」という、ひとつの「観想法」ともいえるかもしれません。
 真の仏教徒は、こうしたことを常に意識して生きているので、言い換えれば、常に瞑想状態で生きているので、物静かで浮ついたところがなく、慎ましいのです。仏教徒のくせにおしゃべりで、軽口をたたき、やたらに騒ぎ、興奮し、心があちこち定まらないとしたら、それは本当の仏教徒とは思えません。「無常観」を常に観想していたら、そのようなことはできないはずだからです。


 8月4日 八正道の分析@
 前回は、八正道についての記述を経典からそのままご紹介いたしました。今回は、その内容について、もう少し詳しく私なりの解釈をしてみたいと思います。

 まず、最初の正見ですが、経典にはこう書いてあります。
「苦なるものを知ること、苦の生起を知ること、苦を滅することを知ること、苦の滅尽にいたる道を知ること、これを名づけて正見というのである」
 これは明らかに「四諦」のことです。すでに述べたように、四諦=仏教ですので、仏教の見解は正しいものであり、この見解をもつことが「正しい見方である(正見)」と言っているわけです。当然ですが、仏教の道を歩むには、ここから始めなければなりません。仏教の教えを正しい見解と納得できなければ、その道を歩むことはないでしょうから。

 二番目の正思(最近では「正思惟」と記述することが多い)ですが、経典にはこう書いてあります。
 「迷いの世間を離れたいと思うこと、悪意を抱くことから免れたいと思うこと、他者を害することなからんと思うことがそれである」
 釈迦の教えでは、悪業を積むことを厳しく戒めています。悪業を積めば苦しみが訪れますし、修行の妨げになるからです。悪業、すなわち悪い行為は、悪い思い(思考)から生じるわけですから、悪業を積まないような思い(思考)が、正しい思い(正思)であると説いているわけです。

 三番目の正語について、経典にはこう書いてあります。
「偽りの言葉を離れること、中傷する言葉を離れること。麁悪(そあく)な言葉を離れること。および雑穢(ぞうえ)なる言葉を離れることがそれである」
 正語の修行には、二つの目的があると思います。ひとつは、悪業を積まないという目的です。言葉もひとつの行為ですから、人を傷つける言葉は悪業となり、それがいずれ自分の身にふりかかってきます。
 もうひとつは、言葉というものは意識のありかたを反映します。悪い意識を持っていれば悪い言葉が出るでしょう。しかし逆もまたしかりで、意識的によい言葉を使うようにすると、意識もよい方向に高められていくのです。
 このように、悪業は、カルマの制御と意識の制御という二つの目的があると私は考えます。

 四番目の「正業」について、経典にはこう書いてあります。
 「殺生を離れること、与えられざるを取らざること、清浄ならぬ行為を離れることがそれである」
 これも悪業をしないということです。

 五番目の「正命」について、経典にはこう書いてあります。
 「よこしまの生き方を断って、正しい出家の法をまもって生きる」
 これも基本的には「正業」と同じことですが、とりわけ出家修行者の戒律を守る生き方が強調されています。

 六番目の「正精進」について、経典にはこう書いてあります。
 「いまだ生ぜざる悪しきことは生ぜざらしめんと志を起して、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいは、すでに生じた悪しきことを断とうとして志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいは、いまだ生ぜざる善きことを生ぜしめんがために志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいはまた、すでに生じた善きことを住せしめ、忘れず、ますます修習して、全きにいたらしめたいと志をたてて、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする」
 これも基本的には「正業」と同じことですが、さらに徹底しており、潜在的な悪は顕在化しないように努力し、顕在化してしまった悪はそれを断ち、さらに善についても積極的な姿勢で、潜在的な善は顕在化させるように努力し、顕在化した善はさらにそれを高めていくということです。

 以上の六つの修行は、それほど理解するのに難しいというほとではないと思います。
 しかし、七番目の「正念」と最後の「正定」は少し難しいです。
 これらについては次回、ご説明したいと思います。

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