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 2018年3月の独想録


3月24日 エゴを消滅させる方法C 宗教はエゴの産物
 宗教は、エゴの産物です。ですから、宗教を信仰している限り、真の愛は存在しません。存在しているのは、愛の仮面をつけたエゴだけです。
 その証拠に、たとえばある宗教の信者だったときは親切で優しかったのに、その宗教から脱退したとたん、手のひらを返したように冷たく無慈悲になったりします。愛は無条件のはずですから、相手がどのような宗教を信じていようと変わらないはずです。

 ある宗教を信じている人は、たとえあからさまには口にしないとしても、自分の信じる宗教こそがもっともすぐれている、真実である(言い換えれば、他は劣っている、間違っている)と思っているでしょう。その時点ですでに分断と差別が生じているのです。そして、分断と差別が存在するところに愛は存在しません。心の底では「ああ、間違った宗教を信じてかわいそうに」といった、ある種の上から目線の憐れみ、蔑み、あるいは自分は正しい宗教を信じているのだというエリート意識のようなものが見え隠れしています。過激な宗教になると、「間違った宗教から眼を覚まさせてあげよう」などといって他の宗教を攻撃したりします。そうして争いが起こり、ひどい場合は殺し合いの戦争が起こります。
 こんな状態にさせる宗教のいったいどこに、真の愛が存在し得るでしょうか。
 こうなってしまうのも、宗教がエゴの産物だからです。エゴは「自分は特別な存在だ」と思い込むのが大好きです。人を見下すのが大好きです。「世界人類を救うのだ」と思うのが大好きです。「自分は愛が深いんだ」と自己陶酔するのが大好きです。

 人が何か根拠のないものを信じるという動機は、結局、信じたいから信じたのです。
 「いや、直感によって真実だと思ったから信じたのだ」という人がいるかもしれませんが、その直感が正しいという根拠もなく信じているのでしょう。ならば、どのみち信じていることに変わりはありません。
 そして、その信じたいという気持ちは、エゴを喜ばせたい、あるいはエゴの苦しみを消したい、という欲求から来ているわけです。エゴの欲求を満たしてくれる宗教を選んでその宗教を信じているわけです。「その宗教が真実だから」という理由ではなく、「その宗教がエゴを満たしてくれるから」という理由で、その宗教を信じている人がほとんどだと思います(もちろん本人はそのことに気づいてはいないでしょうが)。
 その証拠に、自分の宗教が否定されたりすると、気分を悪くして無慈悲になったり攻撃的になったりするのです。

 イエスは二千年前から、釈迦は二千五百年前から教えを説きましたが、人類はいっこうに救われません。「モーゼもイエスも人類救済に失敗したので神はムハンマドを遣わして教えを説いた」とイスラム教では言いますが、やはり人類は救われていません。
 いったい人類が救われるまで、あとどれくらい待てばいいというのでしょうか?
 それとも、今までの宗教が間違っていたから救われないのでしょうか?
 正しい宗教が世界に登場すれば、人類は救われるのでしょうか?
 Aという神ではなくBという神を信じれば救われるのでしょうか? 「南無阿弥陀仏」でも「南無妙法蓮華経」でもなく何か別の「南無○○○○」と唱えれば救われるのでしょうか?
 そういうことはないと思います。
 宗教では救われないということです。今なお新しい宗教が生まれ、教祖が生まれて、何かを信じることを説いていますが、結局、ひとつの夢から別の夢に変わるだけで、何も解決はされません。信じることには限界があり、よい面もあることは否定しませんが、副作用があるのです。副作用の方が強いので、人類に問題を起こしているのです。

 それよりも、宗教という汚れを落とすことです。宝石が輝くためには、ただ汚れを落とせばよいのです。宗教というエゴの汚れを落としさえすれば、愛が輝きます。人間の本質は愛だからです。宗教が説いている愛は、巧妙に作られたメッキに過ぎません。自分の宗教が否定されるようなことが起きれば、簡単に剥がれ落ちてしまうニセモノの愛です。
 宗教を持たず、いかなる信仰も信念も持たず、根拠のないことは肯定も否定もしない立場であれば、そこに分断も差別も争いも生じません。つまり、そのような、なにものにもとらわれない立場であるときにこそ、真の愛が輝いてくる可能性があると、私は考えているのです。そうしてこそ、戦争という、もっとも悲惨な人類の災厄をなくすことができると思うのです。
 宗教の本質は愛であると思うのですが、皮肉なことに、宗教そのものが人々を分断させ、愛を殺しているのです。宗教という鎖につながれてエゴの奴隷になっているのです。

 愛こそが宗教ではないでしょうか。だとするなら、宗教を持たない人こそが、真の意味での宗教者に成り得る可能性を秘めているということです。
 あえて宗教という言葉を持ち出すならば、宗教心というのは、愛のことです。無条件の愛を目覚めさせる教え、これだけが真の宗教と呼べるものです。分断や差別や争いや対立を招く宗教はすべてニセモノです。エゴが作り出した単なる妄想に過ぎません。


 3月17日 エゴを消滅する方法B 染脳から洗脳へ
 
エゴを消滅する方法はないということを述べてきましたが、ならば、いったいどうすればエゴを消滅することができるのでしょうか?
 それは、何もしなければいいのです。
 生物として生きる上で最小限のエゴは必要であり、それは肉体を持っている限りなくなりませんし、また、なくしてはまずいと思います。野生動物を見ても、エゴがありますから、ときどき争いや喧嘩などもします。その程度はいいのです。なぜなら、ときにはそのくらいの争いがあった方が生命力が鍛えられるからです。
 しかし人間は、エゴが膨張しすぎており、大量虐殺、すなわち戦争をします。動物はそこまでしません。ここが問題なのです。
 では、なぜ人間以外の生物は、そこまでエゴが膨張していないのでしょうか?
 それは、何もしていないからです。
 もう少し正確に言えば、知性が発達していないので、エゴが膨張しないのです。人間は知性が発達したために、いろいろな恩恵が得られていますが、ある種の副作用としてエゴを膨張させてしまい、戦争など、ろくでもないことをしでかしているわけです。

 では、なぜ知性がエゴを膨張させているかというと、その原因はいくつか考えられますが、もっとも大きな原因は、「根拠のないものを信じる」ということです。その最たるものが宗教です。動物はおそらく、根拠のないものを信じてはいません。宗教は持っていないでしょう。人間だけが、さまざまなものを信じています。宗教を信仰しています。動物たちは、宗教がなくたってそれなりに幸せそうに生きています。本当は宗教など必要ないのではないでしょうか。むしろ、宗教を持っているがゆえの弊害の方が大きいのではないでしょうか。
 いずれにしろ、私たちは宗教の教えや価値観などによって「染脳」されているのです。「洗脳」という表記は正確ではありません。特定の色に染めているので「染脳」と表記すべきです。
 染脳されているから、エゴが膨張して精神が病んでしまうのです。
 たとえるなら、薬だとかタバコだとか食品添加物といったものを摂取して、からだ本来の生理状態をかく乱させているようなものです。タバコなど、最初は誰もおいしいなどと思った人はいないはずです。「タバコを吸う人は大人だ、カッコいい」などといった根拠のないコマーシャルにおどらされたりして吸うようになり、その後、ニコチンによって本来の生理状態が乱されて、タバコがないと苦しくなってくるのです。
 ですから、タバコだとか、その他、からだに悪いものは摂取しないことです。余計なものは取り入れないことです。いわゆるデトックスをすることで、正常な生理状態に戻すことができます。
 同じように、私たちの精神(脳)も、デトックスが必要なのです。根拠のないものは何も信じなければいいのです。信念だとか信仰といった、余計なものは捨て去るのです。これが本当の意味での「洗脳」です。色を洗い流すのです。「洗脳」すれば、エゴは消滅します。エゴが消滅すれば、人間の本質である愛が自然と輝いてきます。そうすれば殺し合いや戦争は起こりません。

 そのためには、何もしないことです。自分が「染脳」されていることに気づいていさえすればいいのです。なぜなら、それに気づいていれば、「信じる」ことはできなくなるからです。デトックスされるまでに多少の時間はかかるかもしれませんが、何も信じないようにしていれば、やがて自然にエゴは消滅していきます。
 いわゆる「断捨離」というものが流行していますが、心の「断捨離」が必要です。余計なものは頭の中に入れないことです。教義だとか神学などというものは、エゴを増長させるだけです。余計なものであり、心の健康を害するものです。タバコと同じで中毒性があり、一時的に気持ちが安らぎますが、ついには健康を害してしまうのです。

 ただし、「エゴを消滅させるために何も信じないようにしよう」とすると、それは「方法」になってしまいます。ですから、「エゴを消滅させよう」という気持ちさえも捨てて、ただ内面に注意を向けて「私はこういうことを信じているな」と気づいてさえいればいいのです。
 たとえば、夢から醒めるにはどうすればいいかというと、夢を見ているとき「夢を見ているな」と気づけば、夢から醒めるでしょう。夢から醒めようとして努力することは、「夢から醒めようと努力している夢」を見ることになります。これでは意味がありません。
 同じように、「エゴを消滅させるために何も信じるのはやめよう」と努力することは、逆にエゴを強めてしまうのです。
 根拠のないものは信じないということ、信じないためには、「信じない」と努力するのではなく、ただ「信じているな」ということに気づいているだけで自然に信じなくなるということ、ここがポイントです。「何もしなければいい」というのは、そういう意味です。
 エゴというものは、そのようにして消滅していきます。エゴを消滅しようとせず、何も能動的なことをせず、ただ受動的に内面に注意を向けているだけですから、これは「方法」ではありません。方法ではエゴは消滅しません。「エゴを消滅するために内面に注意を向けるのだ」と思うと、方法になります。何も見返りを求めず、ただ内面に注意を向けることによって、自然に信じているものが消えていき、エゴは消滅するのです。



 3月10日 エゴを消滅する方法A 人類を愛する人は人間を愛さない
 
前回は、「エゴを消滅する方法は存在しない」ということを述べました。しかし、方法が存在しないからといって「エゴを消滅することはできない」という意味ではありません。「方法」ではエゴは消滅しないという意味です。ただし、人間として生きている限り、完全に100%消滅させることは難しいと思います。またその必要もないでしょう。「できる限り消滅させる」ということが目標となるでしょうか。エゴが存在する限り、私たちは不自由となり、喜びと苦しみの間をいつまでも往復することになります。

 「方法」というものは、「このように努力すれば、このような報酬が得られる」という、ある種の取引です。しかし、取引では、エゴは消滅しないのです。もしも「修行」というものを取引と考えているなら、そのような修行をいくらしても、エゴは消滅しないばかりか、むしろエゴを増長させてしまうことになります。

 私たちは、生まれたときから今日まで、「何かを得るには、その代価として努力しなければならない」と教えられてきました。もちろん、これは物質世界には当てはまります。医者になるには勉強しなければなりません。お金持ちになるには、しかるべき方法を採用して努力しなければなりません。だから私たちは常に「どうすればいいのか」と、方法を捜し求めます。その発想から抜け出せないのです。「覚醒という報酬を得るには修行という代償を払わなければならない」という発想から抜け出せないのです。
 しかし、エゴを消滅するには、そのような物質次元の取引の発想では不可能なのです。方法論という発想を超えなければなりません。
 これを理解するのは非常に難しいのですが、これを理解できるかどうかで、覚醒(悟り)を得られるかどうかが分かれます。これを理解していない宗教やスピリチュアルは、真の意味で宗教でもスピリチュアルでもなく、単にエゴを喜ばす「おもちゃ」でしかありません。そして実際、多くの人たちは、その「おもちゃ」で遊んでいるのです。私から言わせれば「宗教ごっこ」、「スピリチュアルごっこ」をしているのです。いわば、宗教やスピリチュアルが「ディズニーランド」になっているのです。

 ディズニーランドに行くと、ミッキーマウスがいます。それは着ぐるみで人が中に入っていることはみんな知っているのですが、本物のミッキーマウスだと思い込んで楽しんでいるわけです。また、子供が砂をお茶碗に盛って「はい、ごはんですよ」と言って「おままごと」をして遊んでいます。子供だって、お茶碗に盛られた砂がご飯だと思って食べたりしません。
 ディズニーランドもおままごとも、「ごっご」遊びを楽しんでいるのです。夢想世界で楽しんでいるわけで、それはそれでいいのです。「ミッキーマウスの中には人がいるじゃないか。だましたな。これは詐欺だ」などと、ディズニーランドを訴える人はいません。みんなわかって楽しんでいるのです。だから、それでいいのです。


 
しかし、宗教、とりわけスピリチュアルなどは、実証されていない非現実的な事柄を、実在するものと主張しています。夢想なのに現実だと妄想しているのです。ここが問題なのです。
 たとえば、かつてチャネリングが流行したとき、単に頭の中に浮かんだ考えに過ぎないのに「これは霊界の偉人から送られてきたメッセージだ」、「宇宙人からのメッセージだ」などと信じ込み、突如として普通の主婦が「チャネラー」になったりして、注目を浴びたりしていました。その後は「引き寄せの法則」だとか、最近では食べなくても生きていける「不食」などというものが流行っているようですが、これなども同じです。単なる「チャネリングごっこ」、「引き寄せごっこ」、「不食ごっこ」をして遊んでいるだけです。
 問題は「ごっご」をしていることに気づいていないという点です。現実だと思い込んでいるのです。ディズニーランドは架空の世界だとわかって楽しんでいるので問題はありませんが、スピリチュアルの世界は、架空の世界なのに現実だと思い込んでいるところが病的であり、稚拙であり、問題なのです。
 こんな夢想に浸っていたら、現実生活がおろそかになります。人生の舞台はあくまでも現実なのですから、現実をしっかりと見つめ、地に足をつけて生きていかなければなりません。

 覚醒に至る真のスピリチュアルの舞台は、この現実世界です。霊界だとか、神や仏だとか、オーラだとか生まれ変わりといった世界に、真のスピリチュアルはありません。それらは単なる夢想です。夢想というのが言いすぎなら、単なる「観念」と言ってもいいでしょう。人生は観念ではなくて、リアルです。リアルな日常の仕事や家事、子育てといった、おそらくスピリチュアルの信奉者があまり好きではない平凡な現実生活を生きることの中に、真のスピリチュアルがあるのです。

 「人類を愛する人は人間を愛さない」という言葉を聞いたことがあります。なるほどと思いました。どういう意味なのでしょうか?
 「人類」などというものは存在しません。存在するのは人間だけです。「人類」というのは単なる観念なのです。目の前にいる人間こそが人類です。しかし、人類という観念を愛する人は、そちらに意識が向けられてしまっていますから、目の前の人間を愛することができないのです。目の前の人間をリアルに愛することが、人類を愛することです。

 愛する人は「どうすれば愛することができるだろうか?」などと問うでしょうか?
 たとえば、「A子ちゃんに恋したい。A子ちゃんに恋をするにはどうすればいいのか?」などと、「恋する方法」を考えたりするでしょうか?
 そんなことはしません。気がついたら恋していた、気がついたら愛していた、ということです。つまり、愛するには「方法」など必要ないのです。愛するための方法など存在しないのです。愛するための方法を捜し求めていたら、いつまでたっても愛することなどできません。「愛するにはどうすればいいだろうか?」などと考えている人がいたら、まったくナンセンスで、こっけいでしょう。
 覚醒も同じです。「覚醒するにはどうすればいいだろうか?」などと考えることは、まったくナンセンスでこっけいなのです。
 しかし、方法論というもので洗脳されている私たちは、このことが理解できません。そうして、覚醒に至るための方法を捜し求め、グルを捜し求め、組織を捜し求めるのです。グルや組織が提供するのは、「覚醒した夢」であり、「覚醒ごっこ」でしかありません。
 覚醒に至る方法も、グルも組織も求めず、いかなる夢想や観念に逃げることなく、ただ日常の生活をリアルな感覚で生き抜くこと、そこにこそ、覚醒は存在するのです。そこにこそ、観念ではない真の愛が存在するのです。真の人類愛が存在するのです。



 3月3日 エゴを消滅する方法@ 不愉快な目覚まし時計
 
再び新たなカテゴリーをもうけて、私の見解を述べてみたいと思います。
 そのカテゴリーのタイトルは「エゴを消滅する方法」です。
 このタイトルを見て「そんなものはない!」と、即座に思った人がいたとしたら、このブログを読む必要はありません。その人は悟っているはずだからです。
 実は、エゴを消滅する方法なんて、存在しないのです。このタイトルそのものが間違っているのです。
 では、なぜ間違っているもの、存在しないものを、あえて取り扱うのでしょうか。
 それは、エゴを消滅する方法など存在しないことを理解していただくためです。
 覚醒(悟り)とは、エゴを消滅した意識、少なくとも、エゴを消滅しなければ開かれない意識のことですから、「エゴを消滅する方法は存在しない」と主張することは、「覚醒する方法は存在しない」と言っているのと同じことになります。
 世の中には、覚醒する方法を説いている教団や指導者や本がたくさん存在しています。
 はっきり言わせていただきますが、そうしたものは全部、ウソです。
 ならば、覚醒とは何なのでしょうか?
 覚醒(悟り)とは、そのための方法など存在しないことが、心底わかったときに開かれる意識なのです。ですから、覚醒する方法を説いている指導者は、覚醒などしていないのです。

 すでに述べたように、エゴを消滅させなければ覚醒はしません。
 しかし、覚醒していない人は、エゴで生きているわけですから、「覚醒しよう」とする行動そのものが、エゴの行動ということになります。つまり、エゴでエゴを消滅させようとしているわけです。これでは覚醒しません。エゴという汚れを落とすために、エゴという汚れを注いでいるからです。服についた泥を泥で落としているようなものです。
 これでは、いつまでも汚れなど落ちるはずがありません。それどころか、ますますエゴの汚れにまみれてしまいます。
 ですから、覚醒に至る方法は存在しないのです。
 「覚醒したい、悟りたい」という欲求は、エゴなのです。覚醒したいという欲求を抱いて努力すればするほど、逆にエゴが強化されてしまい、覚醒とは反対の方向へ進んでしまうのです。すなわち、それは幻想です。そうして、しまいには悟った幻想を自ら作り出し、「自分は悟りを開いた」と言っている人がたくさんいるわけです。
 クリシュナムルティは「悟った人は悟ったと言わない」と言いましたが、確かにその通りだと思います。なぜなら、悟ったとき、悟りなど存在していないことがわかるからです。言い方を変えれば、悟りなど存在しないことに気づくことが悟りなのです。

 
悟りが存在すると考えることは幻想なのです。神も仏も幻想です。生まれ変わりだとかカルマの法則だとか、霊界といったものも、すべて幻想です。あるのはただ「空(くう)」だけです。それ以外のものは幻想です。
 幻想は捨てなければなりません。つまり、何も信じてはいけないのです。
 しかし、エゴは幻想が大好きです。ですから、心地よい幻想を与えてくれる宗教団体や指導者や本に人気が集まるのです。こうしたものは「スピリチュアル・エゴ」です。スピリチュアルとは本来、エゴを消滅させるためにあると思うのですが(というより、エゴを消滅させた状態がスピリチュアルだと思うのですが)、逆にスピリチュアルがエゴを育む土壌になっており、そのためにスピリチュアルで金儲けができてしまうのです。もし、真のスピリチュアルの姿を知ったら、興味を示す人はほとんどいないでしょう。もし本当のスピリチュアルを説いているのであれば、スピリチュアルで金が儲かるなどということはあり得ないのです。
 私はそうした真のスピリチュアルを、特にここ最近、語っていますので、負け惜しみではありませんが、私のブログは人気がなくて、読者も少ないのです。しかし、仕方ありません。人気を得るために心にもないウソをついてみなさんをだますようなマネはしたくありません。

 
禅の開祖である達磨大師が「禅をして何かいいことでもあるのか?」と尋ねられたとき「何もいいことはない」と答えました。この言葉は真実なのです。「なら、何のために禅なんてやるんだ!」という話になるでしょう。有名な達磨大師の言葉ですから、この言葉に深い意味があるだろうと人々は考えて尊重するでしょうが、無名の人が同じことを言ったら、人々は理解できずに、無視したり嘲笑したりするでしょう。何もいいことがないものをやろうという人などいないでしょう。

 しかし、いつの時代でも、こうした言葉に「はっ」として、何か感じるものがあり、どういう深い真意がそこにあるのだろうかと探求する人が、きわめて少数でしょうが、いるものです。そういう人は、ある種の芸術的なセンスを持っている人です。なぜなら、芸術の世界は功利(損得感情)を超えた直感で成り立っているからです。この直感を感じられる資質を持っているかどうかで、覚醒できるかどうかが分かれるのではないかと、私は思っています。
 このブログは、そういった人たちのために書こうと思っているのです。幻想を与えるブログなら他にたくさんあります。むしろ、ほとんどがそのようなものだと思います。幻想を見ていい気分になりたい人、つまり、エゴを喜ばせたい人は、そちらを見た方がよいです。
 
しかし、覚醒とは、幻想から覚めることです。心地よく夢を見ていた眠りの状態から眼を覚まさせてくれるのは、不愉快な目覚まし時計の音です。このブログもまた、そんな不愉快な目覚まし時計みたいなものだと思っています
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