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 2018年9月の独想録


 9月29日 イデア ライフ アカデミーの授業、YOUTUBEにアップしました。
 
先日9月22日/23日に行われたイデア ライフ アカデミーの「オープニング記念レクチャー」をYOUTUBEにアップしました。
https://youtu.be/bz-Nl-HioJw
イデアとは、プラトンが説いた、真善美の究極的な実在世界のことであり、私たちの魂の故郷のことです。
 結局、私たち人間の生きる目的というのは、どれほどこの地上で真善美を体現(表現)したか、そこにあると私は信じています。その方法をみんなで探求していくのがこの教室です。真善美の生き方をして何かを得ようというのではなく、真善美の生き方をすること自体が喜びなのです。なぜなら、真善美は魂の属性であり、魂が自分らしくあるということになって、魂が喜ぶからです。魂の喜びこそが、人生の本当の幸せであると私は思います。その意味では、この教室は「本当に幸せになる方法」を探求する場であると言ってもいいかもしれません。


 9月15日 人間の救われがたさ
 さて、これまで「真の仏教」について述べてきました。ここで言う真の仏教とは、まとめるなら、釈迦が説いたオリジナルな教えであり、しかもそれは八正道である、ということです。
 しかし、ここで大きな問題が生じてきます。
 釈迦が説いた八正道を、そのまま実践することは可能か? ということです。
 ほとんど不可能です。現代人には絶対に不可能だ、と言い切ってもいいでしょう。
 たとえそれを実践できたとしても、仏教の目的である解脱を体得できるとは限りません。釈迦の時代でさえ、釈迦というすぐれた指導者のもとで八正道を実践しても、解脱できなかった人の方がおそらくはるかに多かったのですから。

 まして、大昔の日本のように、文字もろくに読めない知的レベルの低い民衆や、生きるために働くだけで精一杯の過酷な生活を考えたら、釈迦の仏教(原始仏教)など、実践できるはずもないのです。悪政に虐げられ、不正がはびこり、飢饉にでもなれば容赦なく命を落とすような、そんな厳しい時代に、八正道の実践など無理です。
 「真の仏教」では、八正道が実践できないということは、救われないということですから、絶望的だということです。
 しかし、人間は苦しいときには、たとえウソでも心の支えがなければ生きていけません。

 なので、仕方なく、いわゆる「仏様」というものを生み出さざるを得なかったのです。「仏様に祈れば救ってくださるよ」と言うしかなかったのです。
 しかし、実際に仏様に祈っても現実生活がよくならないことは、あきらかなエビデンスとして突きつけられますから(つまりウソだとバレてしまいますから)、「あの世で極楽にいけるよ」と言ったのです。あの世のことなど、誰にも証明できませんから。
 そうして、「仏様におすがりすれば、死後に極楽に行けるから、それを心の支えに、今は我慢して生きなさい」と説くしかなかったのです。
 それが大乗仏教です。

 「おすがりすれば死後に極楽に連れていってくれる」などという、何の根拠もない、私から言わせれば単なる作り話、ウソや妄想を説くしかなかったわけです。しかし、たとえそれがウソであっても、人間は苦しいときにはそれを心の支えにして、慰めを得たり、耐えて生きる力を得ることもできます。何の救いもないと言われたら、絶望で生きていけません。
 なので、そのような時代に生まれた宗教家が、そうしたことを説きましたが、私は彼らを責める気はありません。それしか他に道がなかったからです。たとえそれがウソで民衆をだますことになったとしても、まったく何の救いもないのだと突き放すよりは、ずっとマシだからです。

 しかしもちろん、大乗仏教では救いは得られません。慰めや、はかない希望を与えることができるだけです。徹底的に信仰を深めれば、「救われた気持ち」くらいの心境になるかもしれませんが、そこまで達するのは容易ではありません。しかもそれは単なる思い込みです。言葉は悪いですが、ある種の「洗脳」と言ってもいいかもしれません。しかし、釈迦がめざしていたのは、「救われた気持ち」になることではなく、リアルな救いです。

 しかし、現代でも、事情はあまり変わっていません。飢饉で死ぬことはほとんどありませんが、自然災害で家も財産も家族も失い、仮説住宅で余儀なく生活をさせられることはあります。過労死するほど毎日残業してクタクタの生活。政治も官庁もウソばかり、スポーツも学術界もウソばかりです。カネとコネ、権力やパワハラがものを言う世界です。不正をしても要領よく立ち回った人が出世して金持ちになって人を見下し、正直者がバカを見るような、そんな世の中です。
 要するに、汚濁の世界です。「末法の世」と言ってもいいでしょう。
 それでも、本来は、宗教の世界だけはそうした汚濁とは無縁の領域であるべきはずなのに、その宗教が腐っているのです。
 スピリチュアルなども腐っています。「念ずればすべて自分の都合のいいように事が運ぶ」などと言っている「引き寄せの法則」などは、人間の弱さや依存心、怠惰な心を利用してカネを巻き上げる人たちの格好の商売手段になっています。人々は「らくをしていいめをみたい」という乞食根性が捨てきれないのです。だから、むかしからインチキ商法などたくさんあって事件になっているのに、いまだにだまされる人が後を断たないわけです。

 念ずればすべて自分の都合よく物事が運ぶ」などということはありません。ところが、「引き寄せの法則」でセミナーをしたり本を書いている人たちは、そう言われたときのための言い訳をちゃんと用意しています。「念じても願望が叶わないのは、潜在意識の奥まで念じていないからだ。どこかにそれを否定する気持ちがあるからだ」と言うのです。いったい、そう言う根拠は何でしょうか? 仮にそれが事実だとして、ではどうしたら潜在意識の奥まで念じることができるのか、という点では、明確な回答をしていません。
 これは、「人生でよいことが起きないのは、あなたの信仰心がうすいからだ」と、宗教家がよく言う常套句と同じです。
 魔法ではあるまいし、念ずれば人生すべてが自分の都合よく運ぶ、願望が叶うなどということを信じている、いい歳をした大人がたくさんいることに、私は驚きを禁じ得ません。

 しかし、それも、大乗仏教と同じ理屈なのだと思います。
 たとえウソでも、この生きにくい時代にあって「念ずれば願望が叶うんだ」と思えれば、それが慰めや生きる支えになるのでしょう。
 とはいえ、いずれそのことがウソだとわかるときがきます。念じて願望が叶うことは、たまたまあるでしょうが、なんでもかんでも念じれば叶うわけではないことを思い知らされます。そうして、しだいに現実というもの、その絶望感へと沈んでいくか、あるいは、グルや救世主を名乗るカルト教団など、別の「夢想」を与えてくれるものを求めたりするわけです。

 悲しいことに、この汚濁の世界で清らかに生きることは、至難の業です。
 みんながカンニングしているのに自分はカンニングしないという学生は、成績も悪くなり、よい就職先もないでしょう。カンニングしたずるい人間が出世するのです。学者になっても、巧妙に他人の論文を盗んだり、カネさえだせばどんな粗末な論文でも掲載してもらえる学術誌に投稿して「実績」をあげ、教授になっていくのです(もちろんすべての教授がそうだと言うわけではありません)。最近、話題になっているスポーツの世界でも、カネやコネやパワハラによってまともな判定がなされていません。文科省の役人が自分の息子を裏口入学させています。
 こんな世界で、清らかに生きることは、バカを見ることになるのです。

 しかし、釈迦の説いた仏教というものは、要するに「清らかに生きる」ということなのです。もしこの汚濁の世界で清らかに生きようとしたら、まず出世や成功は望めません。カネも入りません。不正なことをして上にあがった腐った連中からバカにされ、蔑まれるという屈辱に耐えなければなりません。また、そういう「さえない男」であれば、結婚相手を見つけるのも楽ではないでしょう。
 そういうことを覚悟してまで、清らかに生きようとすることは、無謀ともいうべきことです。バカのすることです。そんな人は、この世にどれだけいるでしょうか?
 それよりも、耳に甘いウソを平気で口にする人の方に、人気もカネも集まっていくのです。
 宗教もスピリチュアルも、汚染され、商売道具、ビジネスになっています。
 真実に生きてバカを見るか、ウソに生きて腐って生きるか、この二択を迫られているという点で、人間のおかれた状況というものは、救われがたいのです。

 個人的な話になりますが、私は子供時代から、無謀でバカなので、ウソや幻想で生きることはできない人間でした。たとえば小学生の頃から、教師の言動にウソがあるとそれを指摘したりしていました。「俺はえこひいきはしない」と言う教師がいて、その教師がどう考えても、ある生徒をえこひいきしているとしか思えず。念のために他の友達にも意見を聞いてみると同じだったので、私はその教師に面とむかって「先生は、えこひいきをしている」と言いました。その後、私はその教師から憎まれたり無視されたりするようになりました。正直であるということは、この世では損をする、バカをみる、ということに直結するのです。
 しかし、人間の性格というのは変わらないのでしょう。
 もうすぐ還暦だというのに、ウソのない清らかな求道の場所を作りたいという思いから、「イデア ライフ アカデミー」を立ち上げました。会費も3千円で、諸経費などを考えると、かなりきつきつで、金儲けにはなりません。
 オープニング記念レクチャーを今月22日と23日に始めますが、予想通り、参加者は今のところ少数です。しかも、最初は好奇心で来ても、しだいに来なくなってくると思います。
 しかしそれでもかまいません。なぜならこれは、この汚濁の社会に対する、私のささやかな抵抗だからです。
 将来、ウソや金儲けにまみれている社会&宗教&スピリチュアルの世界にあって、斉藤啓一というバカな人間が、ウソや金儲けとは無縁の清らかな求道の場を作っていたなあと、誰かの記憶に留まってくれれば、それでいいと思っています。たとえそれが、たった一人であったとしても。


 9月7日 正定について
 前回の「正念」から、少し間があいてしまいました。申し訳ありません。
 さて、今回は八正道の最後に位置する「正定」についてお話いたしますが、これは瞑想行のことです。釈迦はこの正定について四つの段階を説いています。初禅・第二禅・第三禅・第四禅です。

 初禅について、経典にはこう書かれています。
「もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、なお対象に心をひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地」
 初禅は、四諦のなかの最初の「苦諦」と関係するもので、「無常なる現世の欲望は苦しみのもとだと頭では理解している。しかし正直、まだそれに惹かれてしまう。それではよくないと自分を戒め、欲望をなくすように修行に邁進していこう!」という、そのような意気込みというか、修行に向けて邁進していく覚悟ができた境地のことだと考えてよろしいと思います。

 第二禅については、こう書かれています。
「対象にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向(ひとむき)となり、もはやなにものにも心をひかれることなく、ただ三昧より生じたる喜びと楽しみのみの境地」
 第二禅は、無常なる現世の欲望に惹かれる心がなくなり、欲望や雑念に振り回されず清らかとなり、精神を集中している状態です。精神を集中すると、現世の欲望とは違う精神的な歓喜や安楽が生まれてくるのですが、そこまで至った境地のことです。

第三禅については、こう書かれています。
「その喜びをもまた離れるがゆえに、いまや彼は、内心平等にして執着なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地」
 第三禅では、内から湧き出る精神的な歓喜でさえも、それは(無常である)心がもたらしたものである(つまり苦しみの原因になる)として、それに対する執着も捨て、そうして念(自分の心を見つめる意識)と慧(真理を観じる意識)があり、安楽の境地に至るというのです。

 そして、第四禅については、こう書かれています。
「楽をも苦をも断ずる。さきには、すでに喜びをも憂いをも滅したのであるから、いまや彼は、不苦・不楽にして、ただ、捨あり、念がある、清浄なる境地」
 そして最後の第四禅では、そうした安楽な境地に対する執着さえも捨て、苦も楽も感じず、ただただいかなる執着も捨て去る意識と念の意識だけがある清らかな涅槃の境地(解脱)になるというわけです。
 仏教では智慧によって煩悩を打ち破るとされているので、実際の修行は第三禅までであり、第四禅は、第三禅が成就された結果としてのゴールと見なすことができるかもしれません。

 解説すると、ざっと以上なのですが、これだけでは、よくわからないと思います。
 そのために、多くの学者がこの正定について、難解な見解を展開させてきました。
 たとえば、こうした段階を経るにつれて「自意識」が消滅していくというのです。すなわち、最初は「自分という意識」がある状態だが、次には「自分という意識がない」状態になり、ついには「自分という意識がない、という状態さえもない」状態になると言っています。難しい言葉を使うと「我想」、「非我想」、「非非我想」です。
 私はこの正定については、ヨーガの理論と基本的には同じではないかと考えています。
 ヨーガの目的は「心の作用を止滅させること」にあります。その「心」を、わかりやすく「エゴ」と呼んでもいいでしょう。私たちの本性は仏性なのですが、エゴという汚れにおおわれているのです。だから、エゴを捨てる必要があるのです。私たちの心に湧いてくるあらゆる思い(それが苦しみであれ喜びであれ、その他なんであれ)は、すべてエゴから来ています。
 だから、非常に簡潔に言ってしまうと、正定というのは、「捨てて捨てて捨てまくれ!」という行法であると、私は考えています。
 仏性を「得る」必要はないし、その発想は間違っています。もともと仏性は持っているからです。仏性を妨げているものを、ただ捨てればいいのです。そうすれば自然に仏性は現れます。これが仏教の解脱理論です。
 難解な理屈を好む学者からすれば、仏教をこんな簡単な言葉で片付けるとはけしからんとなるかもしれませんが、実際、仏教というのはシンプルなのです(奥は深いですが)。
 繰り返しますが、正定の行というのは、最近はやっている「断捨離」と同じです。心のなかにあるあらゆるものを断捨離し、最終的には煩悩の土壌である心を断捨離するのです。
 そのために、表向きは精神集中の瞑想が行われるのですが、精神集中することが目的なのではなく、あくまでも仏性以外の余計なものを捨てることなのです。

 八正道については、語ればきりがないのですが、これまでの解説で、少なくともエッセンスだけは押さえたつもりです。これで物足りないという人は、仏教書を買い求め、難解な(ように見える)教理を学んでもよいかもしれません。
 しかし、仏教(釈迦)の目的は、人を学者にすることではありません。あくまでも、「苦からの解脱」です。そのためには、実践するしかありません。実践してこそ、八正道の本当の意味が、単なる机上の空論ではなく、リアルな感覚としてわかるのです。

 宣伝になってしまいますが、今月から私が始めようとしている哲学&瞑想教室「イデア ライフ アカデミー」では、現代の私たちが日常生活を送りながら実践できるレベルにアレンジした「八正道」を紹介し、共に行じていこうと考えています。テクニックだけの瞑想をしていては、へんな方向にそれてしまいます。そうならないために、八正道というシステムのなかで瞑想をする必要があるからです。

 イデア ライフ アカデミー(東京都東村山市)
 オープニング記念レクチャー 9月22日(土)/23日(日) ※両日同じ内容です。
 午後1時半(開場12時)
 会費:3千円
 お申し込み&お問い合わせ
 

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