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 2018年12月の独想録


 12月28日 心の大掃除
 まずはイデア ライフ アカデミーの報告から。
 12月15日と16日に、今年最後の授業となる瞑想教室第3回を行いました。
 自作のサブリミナル効果の動画を鑑賞していただいたり、びっくりする音や気をそらせる音を挿入した音楽を聴きながら、不動心と集中力を鍛える瞑想法などを行いました。
 ただ、今回の授業でもっとも大切なことは、「瞑想の心構え」と「反省瞑想法」です。
 インドから中国に禅、すなわち瞑想をもってきた達磨大師は、「座禅の功徳(いいこと)とは何か?」と問われたとき、「無功徳(何もいいことはない)」と答えたといいます。しかし禅の世界では座禅という瞑想を行っています。これはいったいどういうことなのでしょうか? その真意についてお話しました。
 それから、瞑想をする上でもっとも大切なことは、「品格」であることを説明しました。日々、自分の行いを反省して品格を高める努力をすることが、何よりも大切であることを、良寛の「戒語」を例にあげて説明しました。
 以上の重要な二点は、ダイジェスト版でほとんど紹介していますので、ぜひご覧になってください。
https://www.youtube.com/watch?v=YCUc123msUg&feature=youtu.be

 さて、本題に移りますが、年末で皆さん、大掃除をされている方も多いと思います。新しい年をきれいな環境で過ごしたいという思いから、年末に大掃除をするのだと思いますが、家の大掃除をすると同時に、心の大掃除も大切です。というより、人生で一番大切なのは、心の掃除であると思うのです。一年に一度ではなく、毎日必ず心の掃除をする、ということです。
 夜寝る前に、今日一日の自分の行為を振り返って、怒り、妬み、憎しみ、イライラ、邪念、貪欲、不安、恐怖、驕り、自惚れ、冷淡さ、無慈悲、その他、さまざまなネガティブな想念を心に抱かなかったかどうか、必ず毎日チェックして、もし抱いていたら、それを消して心をきれいにするにはどうすればいいかを真剣に考えるのです。これが心の掃除です。
 以上のようなネガティブな想念は、実際に「汚れ」であり、運命を悪くさせ、健康を害する「毒」そのものです。ある実験によれば、怒っている人の息を採取したところ、微量ながら、そこに猛毒の物質が検出されたといいます。つまり、怒っている人は、毒を飲んでいるのと同じだということです。
 心の掃除をせず、神社仏閣にお参りに行っても、あまり意味はありません。心の掃除さえいつもしていれば、こちらから神様のもとに行かなくても、神様の方が(きれいな)心のなかに来てくれるでしょう。
 心の掃除などという、ある意味では陳腐な道徳的説教のようなことを述べているようですが、私が今まで人生を生きてきて、今さらながら、そのことの重要さに気づいたしだいです。というのも、結局のところ、古今東西の宗教というものは、「心の掃除」を説いているのだと、最近よくわかったからです。
 悟り、覚醒に必要不可欠なこと、それは心の掃除なのです。

 さて、今年は、私にとってイデア ライフ アカデミーの開設という、記念すべき年となりました。しかし、勝負はこれからです。単なる趣味や娯楽ではない、スピリチュアルの本質をめざして、地道な活動を続けていくつもりです。
 なお、イデア ライフ アカデミーは1月と8月は休講ですので、次回の授業は2月からとなります。
 来年もよろしくお願い申し上げます。
 来年の授業日程はこちらから


 12月6日 地に足を着けて素朴に生きる
 まずは例によって、イデア ライフ アカデミーの報告とお知らせから。
 先日、12月1日と2日に、イデア ライフ アカデミーの哲学教室第3回「聖者はいかにして誕生するか−P・ソローキンに学ぶ−」を行いました。
 旧ソビエトに生まれ、革命家として投獄されて死刑判決を受けるも釈放され、国外追放されてアメリカに亡命。ハーバード大学の社会学教授となったピティリム・A・ソローキンの「愛の力の研究」を紹介しました。彼は、古今東西の聖者と呼ばれる人々や、名もなき利他主義者のケースを集め、彼らに共通する項目を探すことで、いかにして「愛の力をもった人」、すなわち愛の実践者は生まれ育つか、その秘密を解き明かそうとした学者です。ソローキンによれば、やはり道徳的で幸せな家庭からは聖者(愛の実践者)が生まれる確率は高いとしながらも、不幸な家庭に育った人は、幸せな家庭に育った人よりも、回心する(つまり愛の実践者になる)ときは急激に回心することを発見しました。また、「予期せぬ親切」によって人は愛の実践者へと生まれ変わるとし、そのよい例が小説『レ・ミゼラブル』だといいます。また、人は苦難に陥ると、前より悪人になる人と善人になる人に分極化されるとし、苦難によって善人(愛の実践者)になるのは、どういう条件によるものなのか、授業ではそういったことを紹介しました。とても有意義な研究をした人物なので、ぜひその一端を動画のダイジェスト版でかいまみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=--VJCkb2CIE&feature=youtu.be
 イデア ライフ アカデミー、今年最後の授業は、12月15日と16日に行われる瞑想教室です。運命を好転させるサブリミナル動画と音声による瞑想、突如としてびっくりするような音が流れ、いかなる状況でも心を安定させる不動心養成のための瞑想法などを行う予定です。すべて私が独自に開発したオリジナルです。興味のある方はぜひご参加ください。

 さて、本題に入りたいと思いますが、「人生を生きる」というのは、言うまでもなく、「リアルな世界」で生きるということです。
 しかし、最近の傾向として、とりわけスピリチュアルと呼ばれる世界においては、リアルな世界で生きるのではなく、「観念的な世界で生きている」と思えてなりません。それは宗教もたいてい同じであり、宗教の教えを聴いて頭で理解して、それでリアルな世界に生きているかのように錯覚しているのです。
 たとえば、宗教やスピリチュアルの世界では、「愛しなさい」ということを説きます。愛について、たくさんの言葉が費やされています。そうした言葉を何回も読んだり聴いたりしていると、「自分は愛の人で、愛を実践している人だ」といった錯覚を起こしやすいのです。しかし実際には、ほとんど愛と呼べるような実践はしていないのです。実践していないのに、「自分は愛のある霊的に高いレベルの人間だ」と自惚れていたりするわけです。
 ソローキンも述べていましたが、「愛の宗教」であるはずのキリスト教の信者のなかには、愛の実践者が思ったよりずっと少ないこと、また、愛の実践者の多くは、インテリよりも、それほど学識のない「素朴な人」が多いということです。あるいは、かつては高い学識を持っていても、そうしたものを捨てて素朴になった人です。
 ところが、宗教やスピリチュアルの世界に行くと、やたらと自分の知識をひけらかす人がいます。こういう人は、「認められたい」というエゴに縛られているのです。
 
 知識や学問が無駄だとは言いません。しかし、そうしたものは、基本的に「バーチャル」であり、頭の中だけのものなのです。それで終わってしまったら、愛の実践の邪魔になるのです。つまり、魂の覚醒の邪魔になるのです。知識や学問といったものは、しばしば人を傲慢にします。知識や学問がない人を小馬鹿にしたりするのです。これは真の宗教やスピリチュアルとは反対の異物です。本当に愛を知っている人は、愛の知識が豊富な人のことではなく、実際に愛することができる人です。

 イエスは、「幼子のごとくなれ」と教えました。これは素朴になりなさいということでしょう。
 素朴な人は、地に足を着けて、淡々と誠実に、現実生活を一生懸命に生きています。愛の知識だとか、あの世の知識などといった観念の「幽霊」をもてあそんでなどいません。そういう人は、地に足が着いておらず、電車のなかで、老人を前に立たせておきながら、自分たちは座って得意げに愛についての議論をしているような人たちです。

 しかし、こういう人は、宗教やスピリチュアルの世界に少なくないのです。あの世のことだとか、霊的な不思議なことばかりに興味がいって、それがまるで現実世界であるかのように、夢遊病者のように生きているわけです。
 現実世界を淡々と生きるというのは、エゴにとっては魅力がないのです。だから、エゴを歓ばせるような、私から言わせるとニセの宗教やスピリチュアルがはびこっているのです。
 あの世のことだとか、高次元世界のことだとか、神だとかカルマの法則だとか、そういったことは証明できません。証明できないものは観念の世界から外に出ることはありません。もしあの世が存在するとするならば、あの世に行けばあの世が「現実」になるでしょう。しかし、この物質的な地上世界で生きている私たちにとっては、この世界こそが現実であり、生きる「舞台」なのです。
 その舞台の上で、精一杯に生きないで、ふわ〜と観念(という夢)の世界で生きている人たちは、本当に生きているとは言えないのです。
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