HOME独想録

 2018年10月の独想録


 10月27日 人生をどのように生きるか
 本題に入る前に、まずは報告とお知らせ。
 10月20日と21日に、イデア ライフ アカデミー瞑想教室第1回が開かれました。最初に瞑想の基本的な知識を紹介し、その後、瞑想の効果をあげる簡単な肉体エクササイズの実習、そしてリラクゼーション瞑想法を行い、最後に、私が開発した瞑想状態を深くさせる独自の音を流しながら「イデア瞑想法」を行いました。youtubeにダイジェスト版をアップしましたので、ぜひご覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=M6g_1fHHUF8&feature=youtu.be
 瞑想には次のような効果があります。・ストレス解消・リラックス効果・不動心の養成・脳機能の活性・閃きの開発・潜在能力の開発・免疫力増加・病気改善・美容効果・運命好転・願望成就・霊能力の開発・覚醒(悟り、解脱)です。イデア ライフ アカデミーでは、魂の覚醒をめざす「イデア瞑想法」を中心に、さまざまな瞑想法を試していただくことになっています。瞑想の習慣がない方は、瞑想を学ばれると、人生が劇的に変わるかもしれません。
 イデア ライフ アカデミーの今後の授業日程については、以下のホームページをご覧下さい。皆様のご参加、お待ちしています。
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/
 
 さて、本題ですが、このところしばらく、専門的で難しい内容をテーマにしてきたので、バランスをとるために、誰もが抱く身近なテーマを取り上げたいと思っています。そこで、「人生をどう生きるか」というカテゴリーを設けました。しばらく、このテーマで、いろいろと論じていきたいと思います。もちろん、そうした話題の根底には、これまで紹介してきた専門的で難解なテーマの土台があるわけなのですが。

 私は若い頃から「人生をどう生きるか」ということに関心を抱き、ずっと今まで考え続けてきました。まだ人生を語る資格が十分にあるとは言えない二十台の頃から「人生とは・・・」と熱く語ってきたところがありました(笑)。
 では、還暦ちかくなった今の私は、「人生とはこうだ」などと語る資格はあるのかと問われると、正直、自信がありません。人生とは底知れぬ深海のようなもので、いかに深く潜り込んでも、さらに深淵があるものです。ですから、私の語ることは、「結論」ではありません。今なお発展途上にある、あくまでも現在の考えであると思ってください。
 それに、歳を重ねたからといって、人生の本質がわかるとは限りません。案外、若者の方が、より人生の本質を的確に語っていることだってあると思います。ただ、経験の幅という、人生における情報量という点では、当然、歳を重ねるにつれて多くなりますから、それだけ人生の本質を読めるようになる可能性は高くなるでしょう。ただその場合でも、情報が多ければいいとも限りません。情報が多いがゆえにかえって混乱するということもあるわけですから。

 では、人生とは何であり、人生をどう生きるべきなのでしょうか?
 私の基本的な考え方はこうです。
 地上の人生とは「冒険」だと思っています。地上はさまざまな危険や困難に満ちています。ジャングルのようなものです。猛獣がいたり、毒蛇がいたり、けばけばしい色彩で魅惑する毒キノコが生えていたりします。しかし一方で、美しい花々や鳥たちの姿もあります。それが人生というものではないでしょうか。そんな地上世界にやってきた私たちは、「冒険者」なのです。

 この地上を、楽園であり、安楽で平安な、のんびりした場所であると思っていると、それはいつか裏切られるでしょう。いつひどい目に遭うかわかりません。危険や困難と隣り合わせで、私たちは生きているのです。ちょっとでも油断すれば、背後から猛獣に襲われ、ちょっとでも色鮮やかな姿のキノコに惑わされて食べようものなら、ひどい苦しみが待っていたりするわけです。

 本質的にこの地上はそういう場所なのですから、いっそのこと覚悟を決めて、「自分は冒険しているのだ」と思うことです。そうすれば、「冒険なのだから、苦労があって当たり前」と思えるようになります。そう思えば、多少の苦労や苦しみに遭遇しても、その衝撃を和らげることができます。「冒険家」は、冒険を楽しむために冒険しているわけですから。

 一番よろしくないのは、不幸や苦しみが起こると、それは「自分が悪いからだ」と自分を責めて落ち込むことです。確かに、自分が悪いために不幸や災難に見舞われることもあるでしょう。しかし、人間は完璧ではありません。ベテランの冒険家でさえ、命を落とすという例など、いくらだってあります。この世の不幸災難というものは、私たち人間がそれを防ごうとする能力をはるかに超えているのです。だから、不幸や災難や苦しみに遭遇しても、自分を責めることはするべきではありません。もともと人生には、不幸や災難や苦しみが起こるものなのです。だから「冒険」なのです。

 もちろん、反省は大切です。よくないことが起こったら、なぜそれが起こったのか、その原因を探り、二度とそれが起きないように対策を練るということは必要です。それを繰り返すことで、人間は賢くなっていくのです。懐の深い人間性が養われていくのです。
 しかし、自分を責めてはダメです。繰り返しますが、人生というものは、不幸や災難や苦しみが起こるようにできているのです。だから、そういうものが起こったら、まずは反省しますが、反省したら、あとは気にしないことです。
 私たちの多くは、不幸そのものの苦しみに加えて、その不幸が起こったことをくよくよ考えて、さらに苦しみを深くさせています。これは愚かなことです。苦しみは、不幸そのものだけでたくさんです。自分で自分をさらに苦しめる愚行はやめましょう。そんなエネルギーがあるなら、それを、明るい未来を創造するために使っていくべきなのです。


 10月16日 イデア ライフ アカデミーの音響システムについて
 イデア ライフ アカデミーの瞑想教室の準備が整いました。瞑想の効果をあげるには、環境が非常に大切です。幸い、教室は閑静な場所にあり、その点では恵まれていますが、さらに効率的に深めるための音響システムを構築しました。瞑想の達人になると、内面から独特の音が聞こえるらしいのですが、その音の周波数分析のデータがあり、それをもとにパソコンとシンセサイザーで同じ周波数の音を作成しました。同時に、「宇宙の根元の音」とされる音も作成し、両者を併せた音を作りあげました(自分ではこれは「特許もの」の発明ではないかと自負していますが)。いわば、ミクロの音とマクロの音を合成した音であり、共鳴現象によって、この音に耳を傾けることで瞑想がより深くできるようになると考えられます。そして、その音を、前方2つと後方2つ、それにサブ・ウーファの5つのスピーカーを配置した教室に流します(右図。青い円で囲まれた領域で瞑想します)。自分で試してみましたが、目を閉じていると、四方八方から響く音に包まれて、まるで異次元の空間に浮遊しているような感覚になってきます。都内でこれほど瞑想に適した空間は他にないのではないかと思います。
 皆様、ぜひこの異次元空間の感覚を体験しに来てください。瞑想教室は、10月20日(土)と21日、11月17日(土)と18日に開催されます。


 10月15日 正しい瞑想とは
 今月の20日(土)と21(日)に、イデア ライフ
アカデミーの最初の瞑想講座を開催します。詳細は下記のホームページをご覧ください。
 http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/
 さて、瞑想ということはよく言われますが、そもそも瞑想とは何なのでしょうか?
 瞑想のはっきりした定義はないようです。結局、それは瞑想に何を求めるかによると思います。たとえば、健康が目的であれば、「瞑想とは健康になるためのものである」となるでしょうし、超能力を身に着けるのが目的ならば、「瞑想とは超能力を身に着けるものだ」ということになるのでしょう。瞑想には大きな効果があるので、忍耐強く続ければ、そうした目的はいずれ成就できるはずです。
 しかし、瞑想とは「覚醒や悟りを開くためである」としたならば、ここに大きな注意が必要となるのです。

 瞑想を続けていくと、潜在意識の領域にまで入り込みます。そこに何らかの願望を携えていくと、潜在意識はそれを実現しようと自動的に働きます。たとえば、「お金が欲しい」と願望を抱いて瞑想すると、原則的にはお金が入るようになるのです。
 つまり、このことは、「お金が手に入る」という暗示をかけながら催眠状態に入るのと同じことになるわけです。
 お金というものは、この現実世界のもので、本当にお金が手に入ったかどうか、客観的にわかります。健康や超能力も、客観的にわかります。だから、妄想に陥ることはありません。
 ところが、覚醒だとか悟りといったものは、客観的に実証できません。
 すると、どうなるかというと、私たちの心は、願望を投影するという性質を持っているため、「私は覚醒した、悟りを開いた」という妄想が起きてしまうのです。
 禅ではこのことに気づいていて、そのために「仏に会ったら仏を殺せ」などという物騒な言葉が伝えられています。その「仏」は、自分の願望が投影された妄想だからです。

 そもそも、覚醒も悟ってもいない私たちが、何かをする動機というものは、エゴに基づいています。たいていの場合、覚醒したい、悟りたいというのは、「覚醒して人々から認められたい」という動機か、あるいは、この世の中がいやになって、そこから解脱したいという動機の、いずれかです。
 そのような動機を持ち続けながら瞑想をすると、「自分は覚者になった」という妄想に陥ってしまうのです。また、この世の中がいやになって解脱したいという動機の場合、もし人生が何か幸運に恵まれるようなことが起こったら、すぐに瞑想などしなくなってしまうでしょう。結局、エゴはこの地上における名誉だとか富、欲望を叶えることなどが動機になっているからです。

 覚醒や悟りというものは、エゴを消滅させることですから、皮肉なことに、瞑想をすればするほどエゴが拡大強化されていき、どうしようもなく醜悪なものになっていくわけです。その最たる見本がオウム真理教の教祖です。

 ですから、もし覚醒や悟りをめざそうとするのであれば、必ず正しい瞑想を行わなければなりません。
 では、正しい瞑想とは、どのような瞑想なのでしょうか?
 それは、「覚醒や悟りを開こう」という願望を捨てた瞑想です。
 達磨大師は、「座禅などして、どんな功徳があるのか?」と問われたとき「何もない」と答えたといいます。この答え方が正解なのです。エゴは「何の功徳(得、いいこと)もないのに、なんで座禅なんかしなければならないんだ」と考えます。
 しかし、魂が多少でも目覚めた人であれば、このときピンとくるはずです。「そこにこそ真実がある」と直感するのです。そうして、とにかく座禅、すなわち瞑想を始めてみるのです。
 もちろん、その後もさまざまな障害が待ち受けています。それをひとつひとつ乗り越えていかなければなりません。まさに瞑想とはエゴとの闘いです。あらゆる妄想、「ひとかどの人間として認められたい」という欲望、低俗な物欲、そして、悟りたいという欲望など、あらゆるものを、とにかく捨てて捨てて、捨てまくっていく必要があるのです。
 そこをどのようにうまく乗り越えていくか、それが私の研究課題であり、このブログの課題であり、また、私が主催するイデア ライフ アカデミーの課題でもあるわけです。

このページのトップへ