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 2021年10月の独想録


10月19日 知徳合一
 まずはご報告とお知らせから。 
 今月10月16日/17日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は、「悟りの道標 十牛図」というテーマで行いました。「十牛図」とは、禅の世界に伝わる、牛をモチーフにした十枚の絵と詩のことで、悟りの境地の段階を示していると言われています。絵の原画は残されておらず、後世の人たちがさまざまな絵を描いていますが、今回は授業のために、私自身が自ら絵を描きました。素人なので稚拙な絵となってしまいましたが、ぜひダイジェスト版をご覧になってみてください。
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 来月のイデア ライフ アカデミー哲学教室では「タロット」について解説します。といっても占いの話ではありません。タロットに描かれた絵は、実は魂の救済のための修行法が、象徴的に描かれたものなのです。その象徴の意味を、私なりの解釈で読み解いてみようと思っています。

 では、本題にはいります。
 今回は特に、自戒の意味を込めてお話させていただきます。
 先日のイデア ライフ アカデミーの授業のために、図書館から十牛図に関する本を5冊ほど借りてきて読んだのですが、そのうちの3冊に、鉛筆であちこち線や書き込みがしてあり、さらには食べ物か飲み物と思われる染みまでついていて、読んでいて不愉快になりました(消しゴムで線を消しながら読みました)。線の引き方の特徴から、たぶん、この3冊は同じ人が以前に借りたものだと思われます。
 いうまでもなく、図書館の本は公共のものなのですから、大切にしなければなりません。線を引いたり、書き込みをしたり、染みをつけたりするのは、マナー違反というか、「軽犯罪」とさえ呼びたいくらいです。

 とりわけ私が首をかしげたくなったのは、十牛図という禅の教えに関する本に、そのようなことをしたことです。禅は宗教であり、人格を立派にさせる教えです。禅を学ぼうとする人は、立派な人格、立派な生き方をめざそうとする動機があるはずだと思うのですが、それなのに、公共財産である本に対して、いったいどんな神経でそのようなことができるのかと、理解できませんでした。
 実は、以前も、別の図書館で「倫理」に関する本を借りたときも、その本に無数の線が引かれているのに閉口したことがあります。倫理に反することをしていながら、どんな考えで倫理の本など読んでいるのだろうかと。

 線をたくさん引くからには、熱心に学ぶ姿勢はあったのだと思います。もしかしたら、学生が宿題を出されて、いやいや禅や倫理の本を読むことになったのかもしれません。それだったら、まだ理解できなくもありません。
 しかし、自主的に禅や倫理を学ぼうとする人が、禅や倫理に反するような、本を汚すようなことを、どうしてできるのか、不思議でならないのです。本当に禅や倫理を学び、それを理解しようという気持ちがあるならば、そんなことはできないはずだと思うのです。

 おそらく、頭や理屈では、しっかりと禅や倫理を理解しているのでしょう。しかし、行動がそれに伴っていないのです。
 行動が伴っていなければ、本当に理解したと言えるでしょうか?
 ソクラテスは、「徳を本当に知ったならば、徳のある人間になる」と言いました。いわゆる「知徳合一」です。いくら泳ぎ方を頭で知って理解したとしても、実際に泳げなければ、泳ぎ方を知らないのと同じです。
 いくら禅や倫理を学んでも、禅の説く生き方、倫理の説く生き方ができていなければ、本当に禅や倫理を理解しているとは言えないのです。もちろん、禅や倫理の教えは崇高で限りがありませんから、その教えを完全に生きることは難しいでしょう。といっても、せめて、公共の本を汚さないといった、最低限のことができないようでは、どうしようもないと思うわけです。

 私たちは、何かすばらしいことを、単に頭で知っただけなのに、自分自身がすばらしい人間になったかのように、つい錯覚してしまう癖があるように思われます。
 たとえば、禅の悟りの境地について、さまざまな理屈が語られています。そういうことを語らせたら、学者が一番でしょう。ならば、学者はみんな悟りの境地を開いているかというと、そうではないでしょう。愛についていくら学問的に説明できたとしても、その人に愛があるかどうかは、まったく別でしょう。
 もちろん、知識が無駄だと言うつもりはありません。知識は道の方向を示してくれます。しかし、実際にその道を歩かなければならないのです。
 いずれにしろ、知識を身につけただけで、それが本当に身に付いたのだと錯覚してしまう場合が、私たちにはあまりにも多いように思います。反対に、たとえ知識がなくても、立派な人はたくさんいます。そういう人は、徳というものを本当に理解しているのです。泳ぎ方はうまく説明できなくても、実際に泳げるならば、泳ぎ方を知っているのと同じです。

 本は大変に立派だけれど、その著者に会ってみると、本ほど立派ではない、それどころか、軽蔑したくなる、といったことが、私自身の経験も含めて、少なくありません。私も本を書いてきましたから、このことは、強く自戒しなければならないと思っています。立派な本なんて、ちょっと知識と文才があれば、誰だって書くことができます。そうして読者は、「こんな立派な本を書くのだから、著者も立派な人に違いない」と思い込んでしまい、その著者を「先生」と呼んだりして崇めたりするのです。
 しかし、人間として問われるのは、知識でも言葉でもありません。あくまでも、その人の生き方です。これがすべてを物語っています。

 以上の文章を、皆さんに向かって、という以上に、自分自身に向かって、書かせていただきました。


 10月7日 頑固と信念について
 人は、歳をとるにつれて頑固になると、よく言われます。
 自分の考えこそが正しくて、何があっても曲げようとしない、人の意見に耳を傾けない、自分の価値観や生き方にこだわり、しかもそれを人に強要する、柔軟な発想ができない、新しい考え方を導入できず、保守的になる、むかしからあるものは尊くて新しいものは軽蔑する、といったことをよく耳にします。
 このようになるのは、おそらく大脳の新皮質だとか前頭葉といった部分が萎縮するといった解剖学的な理由もあるのでしょうが、それよりも、純粋に精神的(心理的)な問題の方が大きいような気がします。
 
 私もそろそろ高齢者の仲間入りをする年齢になって、実は以上のことがとても気になっています。すなわち、「自分は頑固になっていないだろうか?」と気になるのです。そして、そのことと「強い信念をもつ」ということの兼ね合いを、どう区別したらいいのか、迷っているのです。
 すなわち、「強い信念」と、単なる頑固とは、どう区別したらいいのか、ということです。強い信念をもった人は、世の中や周囲の言動に振り回されず、自分の信じることをあくまでも貫きます。そうしてこそ、成功すると思うわけです。いちいち周囲の言動に振り回され、すぐに信念が揺らいでしまうような人は、何をしても大成できないでしょう。
 しかし、このような「強い信念」は、一歩間違うと、単なる頑固さにもなってしまいます。いったい、この両者をどう区別したらいいのでしょう? 私は強い信念を持ちたいのであって、頑固にはなりたくありません。頑固というのはあきらかに老化現象だからです。

 私は最近になって、自分が「強い信念」、あるいは頑固さの、どちらかが強くなってきたように感じています。というのも、以前ほど、世間や人の評価だとか、価値観といったことに左右されなくなってきたからです。「世の中や人がどう考えようと、どんな価値観を持とうと、自分は自分だ」と思うようになってきました。人から非難されても、若い頃は落ち込んだりしましたが、今は明らかに正当な理由がない限り、落ち込むようなことはなくなりました。

 ところで、私はまだ「ガラケー」を使っています。最近、ある会社が一年間、無料でスマホを提供するというので、一応、スマホも持つようになったのですが、使っているのはほとんどガラケーです。どうも、ガラケーを使っている人の多くは高齢者のようです。スマホをもっても、うまく使いこなせない人が多いようです。しかしほとんどの人はスマホをもっているでしょう。ガラケーを使っていると、「まだガラケー使ってるの!」と驚かれることもあります。
 しかし、私は新しいものが嫌いだから、スマホではなくガラケーを使っているわけではありません。また、決してスマホを否定しているわけでもありません。ただ、人によってどちらの方がよいか、ということがあり、すべての人がスマホをもつべきだ、といった風潮に抵抗を覚えるだけです。私は、私の事情を考慮したうえで、ちゃんとした理由があって、ガラケーを使っているのです。その理由をあげると、
 @ガラケーは小さいからポケットにはいる。しかしスマホは大きいから、出かけるときはスマホを入れるバッグを持っていかなければならない。つまり、それだけ荷物が増える。私はなるべく身軽な方が好きなので、いちいちバッグを持参したくない。
 Aガラケーはスマホよりバッテリーが長持ちする。つまり、頻繁に充電する必要がないから、余計な時間と労力を費やさなくてすむ。
 B落としたとき、スマホは壊れやすいが、比較的ガラケーは丈夫。なので、落とさないようにと気を使う必要がない。
 C一般的に、スマホよりガラケーの方が維持費が安い。機種にもよるが、スマホは高い。
 Dスマホには、私が必要としない機能がいろいろついており、そのために、操作がめんどうになる。
 E(これは私のスマホだけの問題かもしれませんが)動作が安定しない。しかしガラケーは動作が安定しており、しかも、メールの送受信もガラケーの方が早い気がする。
 F私は家にいることの方が多いので、家にいるときは、スマホよりパソコン画面で情報を得た方が見やすい。あえて言えば、外に出て初めての場所に行くとき、スマホのナビは便利だなと思うときもありますが、初めての場所に行く機会はめったにないので、なくてもほとんど困らない。
 他にも理由がありますが、ざっと以上のような理由で、ガラケーを使っているわけです。なので、頭から新しいものを敬遠しているからでもないし、使えないわけでもありません。私なりに、合理的な理由があるから、ガラケーを愛用しているのです。しかし、そうした理由を知らない人からは、「頑固だな、時代遅れだな、年寄りだな」と思われるかもしれません。まあ、思われても気にしませんが(笑)。
 今後は、折りたたみ式でポケットに入るくらい小さくなるスマホが出るようですし、バッテリーの寿命も長くなってきているようなので、そうしたらスマホひとつにしようかなとも思っています。あるいはガラケーそっくりのスマホにするか、どちらにしようか迷っていますが、しばらくはガラケーと、(ほとんど使わない)スマホの2台を所有するつもりでいます。

 さて、少し話がそれてしまいましたが、「強い信念」と単なる「頑固」の違いは、それが明確で合理的な理由に基づいているかどうか、ではないかなと思います。合理的な理由なく何かにこだわるのは、あきらかに頑固であり、老化現象でしょう。
 なので、何かにこだわるときは、そこに明確で合理的な理由が本当にあるのか、ということを注意深く反省する必要があると痛感しています。合理的な理由に支えられているならば、それは頑固ではなく「強い信念」だと言えるはずです。
 しかし、歳をとってから、いきなり合理的な思考を身に着けるのは、難しいでしょうから、若いうちから、こうした思考力は鍛えておいた方がいいと思います。そうすれば、いくら歳を重ねても、柔軟で若々しい精神性を保てるのではないかと思います。
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