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 2021年8月の独想録


 8月22日 論争は避ける
 釈迦は「論争はするな」と、繰り返し説いています。
 「争論を楽しみ、迷妄の性質におおわれている修行僧は、目覚めた人の説きたもうた理法を、説明されても理解しない」(『スッタニパータ』第2章6)。
 私も若い頃は論争好きな方で、相手を論破しようと好戦的になったりしました。論理的に理詰めで相手を打ち負かし、相手が間違っていることを認めさせようとしていたのです。

 けれども、こうした試みの大半はうまくいきませんでした。
 数学のように、あきらかに証明できる領域では、相手を論破することもできるでしょうが、宗教や哲学、心理学や社会学といった文系の分野では、そもそも完全な証明だとかエビデンスといったものは基本的に存在しないので、相手を論破することは不可能なのです。
 たとえ科学という理系の分野でさえ、論破することは難しいものです。というのも、数多くのデータや実験結果の中から、自分の都合のいいものだけを取り上げて、それで論理を構築してしまう(いわゆる確証バイアスと呼ばれる)傾向が、人間にはあるからです。

 論争を楽しむような人は、その根底に「自己顕示欲」や「承認欲求」を満たそうという動機があるように思われます。そのために、自分に都合のよいデータや理屈をいくらでも見つけることができてしまうのです。逆に言うと、自分に都合の悪いデータや理屈は見ないようにする、あるいは無意識的に見えないようにしてしまうのです。
 ですから、こういう人を釈迦は「迷妄の性質におおわれている」と表現し、いくら理法を説明されても理解しないといって、論争は無意味で時間の無駄だからするな、と説いたのでしょう。

 私が若い頃、ある会社に勤めていたのですが、そこで何人かの同僚と一緒に業務マニュアルを作成することになりました。私は、「教科書的な味気ないマニュアルではなく、読んで楽しいものにしましょう。楽しければそれだけ頭にも入ると思いますし」と提案しました。しかし一人だけ「いや、マニュアルに面白さを持ち込むべきではない」と、頑として反対する人がいました。私はその人と激しい論争をしました。私はなぜマニュアルに面白さを持ち込むべきではないのかと、その理由を何度も尋ねましたが、「マニュアルとはそういうものだ」との一点張りなのです。結局、論争は2時間も続きましたが、彼も私も自説を曲げることなくむなしく終わりました。最終的には、多数決で私の考えが採用されたのですが、彼はその後、この業務をおりました。
 皆さんはどうお考えになるでしょうか。たぶん、私と同じように「楽しいマニュアルを作った方がいい」という考えの人もいるでしょうし、「マニュアルに楽しさを持ち込むべきではない」という考えの人もいると思います。そして、どちらが正解か、ということは、証明できないのです。

 日常的なことでさえ、こんな調子なのですから、これが宗教という、あいまいな領域になると、もうどうしようもありません。エビデンスはもちろん、論理も理屈もありません。たとえばこんな調子です。
「自分の宗教こそが一番正しい」
「そう言える根拠は?」
「経典にそう書いてあるからだ」
「経典に書かれてあることが正しいという根拠は?」
「教祖が経典に書かれてあることは正しいと説いているからだ」
「教祖の説いていることが正しいという根拠は?」
「教祖の言うことは正しいと経典に書いてあるからだ」
 こんな感じで、論理が破綻しているのに、そのことに気づかず、平然とこうした主張を繰り返したりするわけです。これは学歴だとか、いわゆる頭の良し悪しとは関係ありません。高学歴で、学者のような頭がいい人でも、宗教となると、平気で論理が破綻していることに気づかない場合が多いのです。それは、潜在意識に「とにかくこの宗教を信じたい」という欲求があるため、自分に都合の悪いことはスルーしてしまうからだと思います。「人は、自分が信じたいものを真理とする」ということなのでしょう。

 ところで、「マニュアルは面白くした方がいい」という、私のように、変化を志向する人もいるでしょうし、「マニュアルは面白くすべきではない」という、保守的な人もいるでしょう。世の中には、革新的な人もいれば保守的な人もいるのです。
 しかし、生物学の説によると、考え方がこのように分かれるのは、遺伝的な要素が強く、必ず革新的な人と保守的な人が出てくるようになっている、というのです。
 なぜかというと、種を保存するためだからだそうです。どういうことかというと、生物は、時には革新的な行動をすることで危険を回避することができ、時には保守的な行動をすることで危険を回避しているからです。たとえば、生きるためには敵と戦うことが必要な時もあり、敵から逃げることが必要な時もあるわけです。しかし、全員が敵と戦う革新的思想の持ち主で、もしそれに失敗したら種が全滅してしまいます。けれども、その中で保守的な個体がいれば、その個体は敵から逃げて生き残り、種の全滅を避けることができます。逆の場合も同じですが、要するに全員が同じ思想だと、それがもしうまくいかなかった場合は、種が全滅するという、最悪の結果になるわけです。生物はそれを避けるために、ある一定の割合で、革新的な個体と保守的な個体とを、遺伝的に生み出しているらしいのです。ひらたく言えば、ある種の「保険」をかけているわけです。

 こうして考えてみると、「自分の考えが唯一正しく、すべての人は自分の考えに従うべきだ」という考えは、生物学的には危険だと言えるわけです。いろいろな考え方があり、それを許容するということが、大切になってくるのです。
以上のような理由から、私は論争はしないことにしました。人間は一見すると論理的に考えているようですが、実際には「考えるより信じたい」のです。ですから、論争をしてもむなしく終わるだけで、時間とエネルギーの無駄です。たとえ論争して相手を負かすことができたとしても、それで優越感や承認欲求を満たして喜ぶといったことは、愚かしくて卑しいものです。
 さらには、さまざまな考え方がある方が、生物的には有利なのですから、論争して相手を負かし、すべての人を自分の考えと同じにさせようとすることは、とても危険なのです。
 もちろん、誰かが自分の考えに反対したとき、「自分の考えは正しいのだろうか、間違っているのではないだろうか」と省みることは大切で、もし間違っていたとわかったら、その間違いは認めるべきです。
 しかし、冷静に論理的に考えても間違っていると思えないのであれば、「あなたはそう考えればよい。しかし私はこう考える」と割り切って、自分の考えを押し付けるような論争はしない方が賢明です。


 8月7日 ワクチン接種のリスクについて
 連日、東京都や全国のコロナ感染者(陽性者)が増加しています。本日もまた、国内の感染者数が最多を記録しました(1万5700人)。それにつれて、重症者や死者もじわじわと増えてきています。今後もしばらくは最多記録を更新していくでしょう。
 こうなることは十分に予想できたことで、だから多くの国民がオリンピックを中止、もしくは延期を求めていたのですが、結局は強行されてしまいました。
 中には「死亡者が少ない。騒ぐ必要はない。コロナはただの風邪だ」といった意見もあるようですが、今まで死亡者が少なかったのは、医療関係者ががんばってくれたおかげであり、医療が逼迫し、崩壊したら、重症者や死者は増えていくでしょうし、またコロナではない患者が医療にかかれなくて死んでいく人も増えるでしょうから、それも含めると、相当な死亡者が出る可能性があると考えられます。
 早くにオリンピックを中止し、それに費やされた医療リソース、施設、財源などをすべてコロナ対策に向けていれば、医療崩壊は防げたかもしれませんし、少なくとも、犠牲者をずっと減らすことができたはずです。
 しかし、今更そんなことを語っても「時すでに遅し」です。オリンピックという「パンドラの箱」を開けてしまった以上、もう手遅れなのです。
 何事もそうですが、初期対応を誤り、そのまま放置するほど、回復のための選択肢が少なくなって、追い詰められていき、回復するのが難しくなってきます。もはや、「すべてよし」という最善の解決策はないように思われます。せいぜい「この方がマシ」という選択肢を探すしかありません。

 そんな中、ワクチンが解決の切り札になると言われていますが、私はそれに対して懐疑的です。
 たとえば、イスラエルでは、国民のほとんどがワクチン接種して、確かに一時期、感染者が大幅に減少しましたが、最近になって増えており、三回目の接種を実施しています。ウィルスは変異を繰り返すので、ワクチンが効かない変異種が生まれたのと、ワクチンの効果が持続しないのがその原因のようです。そうなると、今後、延々とワクチンを打ち続けなければならなくなるのでしょうか? その結果、さらに強毒化した変異ウィルスが生まれないとも限りません。
 また、ワクチンは重症化を防ぐのであって、感染を防ぐ効果は低いのです。その点を理解していない人が「自分はワクチンを二回うったから平気だ」とマスクもせず街中に繰り出してウィルスを撒き散らしている人もいるようです。
 つまり、ワクチンの効果は一時的であって、長期的に見れば、皮肉なことに、ワクチン接種が増えるほど、ますます感染者や重症者が増えてしまう可能性もあるわけです。中には、(どこまで本当かはわかりませんが)ワクチン接種をした人が吐く息によってウィルスが感染してしまうという説を唱えている人もいます。もしそれが事実なら、ワクチン接種は間逆のことをしていることになります。

 さらに問題なのは、ワクチン接種そのものの危険性が、マスコミではほとんど取り上げられていないことです。最近、ある野球選手がワクチン接種後に亡くなりましたが、私の知る限り、テレビではまったく取り上げられていません。
 私が調べたネットでの情報が正しければ、ワクチン接種後に、現在までおよそ千人の人が亡くなり、3千人の人が重篤になっているとのことです。
 こうした情報は、テレビではまったくといっていいほど取り上げません。Youtubeでこうしたことを主張する動画をアップすると、削除されたり、アカウントを停止させられているようです。これは問題です。あきらかに公序良俗に反する動画であれば別ですが、ワクチンに関する情報はそうしたものとは別であり、私たちはあらゆる情報を知る権利があります。意図的に隠蔽しようとしているとしか思えません。むしろ、そうしたことをしていること自体、ワクチンの安全性には重大な問題がある証拠ではないかと勘ぐりたくなります。

 いずれにしろ、ワクチン接種にはリスクが伴うことは確かです。しかも、長期的な影響という点を考慮すると、将来、どのような問題が生じるかも未知数です。
 もちろん、ワクチンによってコロナの重症化を一時的に防ぐ効果があることは確かであり、そのために高齢者の重症者数や死亡者数が激減したことも事実です。
 つまり、コロナで死ぬ(もしくは重症化する)リスクをとるか、ワクチンで死ぬ(重症化する)リスクをとるか、どちらにしてもリスクはあるということを覚悟しないといけないのです。
 しかし、政府は、ワクチンは「まったく安全・安心」であるかのように言って接種を進めています。私たちは、そうした情報に惑わされず、自分でしっかりと情報を集め、総合的に判断し、自分の責任でワクチンを接種するかどうか決めるべきだと思います。
 念のために申し上げますが、私はワクチン肯定派でもなければ否定派でもありません。ましてや、いわゆる「ワクチン陰謀論」などは信じてはいません。私が申し上げたいのは、繰り返しになりますが、自分で情報を集めて総合的に判断し、自分の責任でワクチンを接種するかどうか決めるべきだということです。そのために私たちから情報を隠蔽するのは間違いだと言いたいのです。
 ちなみに、ワクチンに批判的な動画として私がある程度、説得力があるかなと感じたのは、以下の動画です(この動画を信じなさいと言っているわけではありません。あくまでも参考までに)。
https://www.bitchute.com/video/SNK1RRqkSBvD/
https://www.bitchute.com/video/wAooHKH8blrD/
 ただし、この動画(二番目)の中で、「マスクをしても意味がない」ということを語っていますが、これは間違いだと思います。マスクの網目よりウィルスの方がはるかに小さいから素通りしてしまう、という理由からそう言っているようですが、確かにひとつひとつのウィルスは素通りしてしまうでしょうが、私たちは話をしているとき、小さい唾液の粒(つまりウィルスのかたまり)をかなり撒き散らしています。その粒はマスクの網目より大きいので、マスクはその粒を巻き散らさない効果はあります。それだけでもかなり違うと思います。ですから、「マスクなんてしなくていい」という考えは間違いで、マスクはするべきです。もちろん、だからといって、マスクは万能であり、マスクさえしていれば感染しないし、感染させない、ということではありません。あくまでも「しないよりはした方がいい」という意味です。ただし不織布ではないマスクはNGです。

 話を戻しますが、仮にワクチンを接種しないと決めたとすると、いったいどうしたら、この爆発的な感染を食い止めることができるのでしょうか。
 もしできるとすれば、の仮定で話しますと、私は2つあると思います。
 ひとつは、初期段階での薬の服用です。すでにあるアビガンやイベルメクチンといった薬を、初期の段階で投与するのです。そうすればかなりの割合で重症化を防ぐことができるはずです。ところが、なぜかこの薬は認可されていません。インドで一時期、深刻な感染者数だったのがその後、劇的に減少した理由は、イベルメクチンによるものだとされています。イベルメクチンはもともと皮膚病の薬であり、それなりの歴史があって安全性も証明されています。にもかかわらず国が認可しないのは、理解できません(一説によると、イベルメクチンは価格が安いので、これが普及してコロナがおさまるとワクチン接種が減り、そのために製薬会社が儲からなくなるために厚生労働省に働きかけているとのことです。どこまで本当かはわかりませんが、そういう説があるということも頭に入れておいた方がよいでしょう)。ちなみにイベルメクチンは輸入代理店を通して個人でも入手可能です。

 もうひとつは、やはり人との接触機会を減らすしかありません。オリンピックの開催によって人々の気が緩み、緊急事態宣言にもかかわらず市中に人が溢れ返ってしまったことは事実です。その意味でもオリンピックは中止すべきだったと思うのですが、しかしだからといって「国がオリンピックをしているんだから、自分たちは自粛する必要なんてない」といって、マスクなしで飲食して大声で会話したり、路上で酒を飲んで騒ぐことは、やはり間違っていると思います。はっきり申し上げて、政府の危機管理能力はあまりにもずさんであり、頼りになりません。なので、もはや、自分たちのことは自分で守るしかないのです。
 ですから、不要不急の外出は、できるだけ避けることです。
 私も、今月のイデア ライフ アカデミーの授業は、休講にしました。私にとってそれはとても悔しく残念なことなのですが、参加してくださる方々の安全を考えての苦渋の決断です。休講にしたのは昨年に続いて二回目です。
 しかしなかには、これ以上、自粛したら、生活が破綻してしまう、という人もいるかと思います。とりわけ自粛の最大の標的にされている飲食業界の方々は、本当にもう限界ではないかと思います。政府が支援金を十分かつ迅速に、継続的に出せればいいのですが、そうはいっていないようです。くどいようですが、オリンピックにかかった3兆円ものお金をこうしたところにまわせば、どれほどの人が苦しまずにすんだでしょうか。苦境のために自ら命を絶った人がどれほど救われたでしょうか。

 さまざまな理由でどうしても自粛できない人は、どうしたらいいのでしょうか?
 私は、感染対策を念入りにして、活動をしたらいいと思います。もちろん、それでもリスクはあります。デルタ株は水疱瘡と同じくらい強い感染力があるとされています。完全な感染対策などというものは、それこそ防御服でも着れば別ですが、現実的には不可能です。すでに述べたように、もうここまできたら「すべてよし」という完璧な手段など残されていないのです。コロナで死ぬか、生活苦で死ぬか、という極限に立たされたら、コロナに感染するリスクを犯しても、生活を立て直していく方が、まだマシであると思うからです。
 私も、今月はイデア ライフ アカデミーの授業は休講にしましたが、来月はどのような状況であっても、感染対策を念入りにしたうえで授業はやるつもりです。

 結局のところ、コロナが地球から完全に消えてなくなることはないでしょう。仮に消えてなくなるとしても、半世紀くらいたってからではないかと思います。コロナの脅威は、人類が集団免疫を獲得するまで続くことになるでしょう。その後はインフルエンザと同じ扱いになるのではないかと思います。しかし、そうなるためには、医療崩壊と経済崩壊を避けながら、アクセルとブレーキをうまく使い、徐々に移行していく必要があります。そのへんの舵取りが非常に難しいと思うわけです。そのためにはすぐれたリーダーと、そのリーダーの手腕をうまく活かせるシステムが必要ですが、日本にはその両方とも存在しないように思われます。そこが悲しいところです。

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