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 2021年2月の独想録


 2月26日 「断情報」のすすめ
 
まずはご報告とお知らせから。 
 今月2月20日/21日のイデア ライフ アカデミー哲学教室は「カバラ思想の本質」というテーマで行いました。魔術や占いの一種であるかのように誤解されがちなユダヤの神秘主義カバラとは、どのような教えなのか? ぜひダイジェスト版をご覧ください。
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 来月は瞑想教室(3月20日/21日)で、「高次からの恩寵」というテーマで行います。霊的修行は、やはり自力だけでは限界があります。高次の霊的存在からの援助がどうしても必要になります。そのような援助を受けるにはどうすればいいのかについて、ご紹介していく予定です。

 では、本題に入ります。
 釈迦は弟子にこう説教しています。
 「修行僧は時ならぬのに歩き廻るな。定められたときに、托鉢のために村に行け。時ならぬのに出て歩くならば、執著に縛られるからである。……そうして修行僧は、定められたときに施しの食物を得たならば、ひとりで退いて、ひそかに坐れよ。自己を制して、内に顧みて思い、こころを外に放ってはならぬ」(『スッタニパータ』第二章386〜)
 つまり、托鉢は仕方がないが、それ以外は人がいる所にいくな、ということです。なぜなら、人がいるところは、五感を通して地上的な欲望を刺激するような情報が入り込んでくるからです。こんな感じで意識が外にばかり向けられていたら、霊的修行などできません。ですから釈迦は、「自己を制して、内に顧みて思い、こころを外に放ってはならない」と言ったのです。五感を通して物質的なものが意識に入り込んでくるのを極力阻止し、常に精神内部に意識を向けていることが大切になってくるわけです。
 私たちは、常に誰かとつながっていないと心穏やかでいられません。常に外部から何らかの情報(刺激)を取り入れていないと落ち着かないのです。まるで、酒を飲んでいないと不穏になるアルコール依存症のようなものです。いわば「情報依存症」に陥っているのです。常にスマホでラインやメールやSNSなどで人とやりとりし、あるいはyoutubeを見たり、音楽を聴いたり、ゲームをしたりしています。
 こんな感じで、いつも外部の刺激にさらされているような状態なので、自己の内面を見つめる時間といったものは、ほとんど失われています。こんな状況では、霊的に成長することは決してできないでしょう。ですから、可能な限り、余計な情報は遮断することが大切です。
 外部から入ってくる情報のうち、どれだけ本当に必要なものか、本当に大切なものか、よく吟味するべきです。仕事や生活をする上で本当に必要な情報は取り入れるべきですが、大部分は、単なる好奇心だとか、退屈しのぎといったようなもので、まったく必要のない、それどころか有害でさえある情報を取り込んでいるのではないでしょうか。
 必要ではない情報は極力遮断しましょう。そして、意識を内面に向ける時間をなるべく多く持つようにしましょう。
 しかし、すでに述べたように、私たちは「情報依存症」になっていますので、これはけっこう苦しいです。ある種の苦行と言えるかもしれません。苦行というと、「断食」などが浮かんできますが、断食ならぬ「断情報」は、断食と同じか、断食以上に苦しいかもしれません。
 しかし、自分が本当に変わるときというのは、苦しみが伴うものです。人間は、多くの場合、苦しみを通して変わるのです。霊的修行というのは、自分を変えていく作業のことですから、苦しみは覚悟しなければなりません。
 この地上世界は、戦場のようなものです。自己との戦い、誘惑や苦難との戦い、その連続です。苦しみの連続なのです。それがこの地上人生というものです。戦場にいる兵士たちは、自宅にいるときのように、平穏にくつろぎ、楽しみ、憩いを覚えることなどあるでしょうか。敵は、いつどこから攻めてくるかわかりません。常に警戒していなければならないのです。地上という戦場にいる私たちも、それとまったく同じです。この地上に、真の憩いの時間などといったものは存在しません。ただ、存在しているかのように錯覚しているだけです。


 
 2月11日 教え(知識)を血肉とするために大切なこと
 まずはお知らせから。
今月のイデア ライフ アカデミー(20日/21日)は、「カバラ思想の本質」というテーマで行います。魔術や占いの一種であるかのように誤解されがちなユダヤの神秘主義カバラとは、どのような教えなのか。その本質に迫っていきたいと思います。

 では、本題に入ります。
 世界で一番売れている本は聖書だそうです。ご存知のように、聖書には、愛することや謙虚さ、節度や寛容さといった、徳を養い、人格や霊性を高める教えがぎっしりと書かれています。仏典も同じです。聖書ほどではないにしても、仏典を読んでいる人も多いでしょう。
 しかし、ここで素朴な疑問が湧いてくるのです。
 これほどすばらしい本が、これほど多く読まれてきているのに、人類の精神性はそれほど進歩していない、ということです。聖書や仏典を読んでいるのに、その一方で、下劣で恥知らずなことを平気でやる人も少なくありません。
 つまり、善い知識を頭に入れただけでは、それがそのまま人格や霊性の向上につながるとは限らない、ということです。何かが欠けているのです。もちろん、人格を向上させるために、善い知識は必要でしょう。しかし、それだけではダメなのです。知識を、人格向上という実践レベルにまで変換するものが必要なのです。
 では、いったいそれは何なのでしょうか?

 釈迦の時代、多くの弟子が釈迦の教えのもとで修行しました。当時のインドの習慣として、師の教えを書き留めるということはなかったようです。すべて暗記に頼っていました。もちろん、個人の暗記力には限界がありますから、弟子たちは、釈迦の説法が終わると集まって、各人の記憶を出し合って、どんな説法が行われたかを復元し、そうしてまとめたら、最後にみんなで何回もそれを暗誦して記憶に定着させたのです。ですから、当時の弟子たちは、おそらく現代の私たちよりもはるかに記憶力がよかったのではないかと思います。
 現代の私たちは、本に頼っています。ところが、一度読んだだけでは、その内容の何分の一、あるいは何十分の一くらいしか記憶していないものです。それなのに「必要な時はいつでも読めるからいい」という、安易な状況にあるために、結局、次から次へとたくさん本は読むが、ほとんど記憶に残っていない、ということになります。記憶として定着されていなければ、どんなに善い本を読んでも、それを人格レベルにまで落とし込むことは無理でしょう。

 それに対して、釈迦の弟子たちは、記録して本としていつでも読めるような状況になかったので、それこそ非常な真剣さで、釈迦の語る言葉をすべて吸収しようと、必死に聴いていたに違いありません。その真剣さに、まず大きな違いがあるのではないかと思います。
 しかも、弟子たちは常に釈迦の教えを聴けるわけではありませんでした。釈迦から直接、説法を聴けるのは、月に一度か二度、多くても数回程度で、後は修行仲間と研究したり、独りで思索や瞑想する時間の方がずっと多かったのです。釈迦は本当に大切なことを少し話す程度で、弟子たちひとりひとりに手取り足取り手厚い指導をしていたわけではありませんでした。
 にもかかわらず、経典によれば、多くの弟子がそれで煩悩を清め、人格を向上させて解脱を果たすことができたというのです。
 知識という点では、難解で膨大な仏教理論が頭に入っている仏教学者には、足元にも及ばなかったと思います。しかし、仏教学者で解脱を果たしたという話は聞いたことがありません。
 いわゆる原始仏教、つまり、釈迦が弟子に説いた教えは、奥は深いが、量としてはそれほど多くなかったのです。言い換えれば、情報量は圧倒的に少なかったわけです。ところが、むしろ情報量の少なさゆえに、釈迦が説いたわずかな教えを宝物として大切に守り、あたため、それを実践して解脱したわけです。
 そう考えると、私たちは、あまりにも情報に恵まれすぎていて、知識を詰め込みすぎ、かえってそれが妨げになっているのかもしれません。たとえるなら、たくさん食べ過ぎた結果として下痢をし、かえって栄養不足になるようなものです。
 それよりも、エッセンスとなる教えを、少なくてもいいのでしっかりと頭に入れ、あたため、自分でも繰り返し繰り返し何回も深く考え、そうして自分の血肉とする方が、ずっと有効ではないかと思われるのです。

 それと、教えを誰から聴くか、ということも重要な要素になると思います。
 卑俗なたとえで恐縮ですが、好きでもない人から高価な贈り物をもらうより、安物でも好きな人からもらった方がずっと嬉しいように、釈迦という比類なき指導者から教えを受けるという、そのありがたさと、釈迦に対する深い尊敬の念とを伴ったとき、その教えが非常に活きてくると思うわけです。
 このように、すばらしい師匠に恵まれた人は幸せです。深い尊敬の念をもって学ぶでしょうから、自然と真剣となり、教えを大切なものとして受け入れるでしょう。そうしたとき、いかに少ない教えしか説いてもらえなかったとしても、立派に進歩していくことができるのです。
 その意味では、人を指導する立場にある人は、尊敬に値する人間性をもつことが非常に重要になってくるともいえますが、一方で、釈迦ほどの人でさえ、小馬鹿にする人がいたようですから、教えを受ける方も、教えを授けてくれる人を尊敬する気持ちをもつようにすることが大切になってくると思います。
 私の経験から言っても、霊的な分野に限らず、どのような分野であれ、礼儀正しい人は伸びます。基本的な礼儀がなっていない人は伸びません。また、自分が尊敬する人は礼儀正しいが、そうでない人には非礼なことをするような、二面性があるような人も伸びません。誰に対しても礼儀正しく、謙虚に学ぶ姿勢がある人は、どのような分野であれ、よく伸びます。

 とはいえ、ほとんどの人はそんな師匠には恵まれていないと思いますので、結局は本を通して教えを学ぶしかありません。
 しかしそのとき、「本を読んでいる」という意識を捨てて、その本の著者が目の前にいて、直接教えを説いてくださっているのだ、という気持ちになることが大切です。
 たとえば、私は毎日少しずつ『ブッダの言葉(スッタニパータ)』と、前回ご紹介した『キリストにならいて』の本を読むのを日課にしています。そのとき、「本」を読んでいるという意識は捨てて、実際に目の前に釈迦がいて、その教えを聴いているのだ、という気持ちで文字を追うようにしています。また、目の前にイエスがいて、私のために教えを説いてくださっているのだ、という思いで目を通しています。ゆっくりと、ひとつひとつの言葉をかみしめるようにしながら。そういう気持ちで読むと、やはり真剣さが違ってきます。自然と内容が頭の中に記憶されてきます。
 そうして私は、この2冊の本を、完全に暗記するまで、エンドレスで何回も繰り返して読み続けていこうと思っているのです。
 皆さんも、善い本を読むときは、このような感じで読んでみてください。そうすればきっと、善い教えが自らの血肉となって、人格と霊性の向上につながっていくと思います。

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