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 2021年3月の独想録


 3月25日 立派な本を読んでもなぜ立派に生きようとしないのか?
 まずはご報告とお知らせから。 
 今月3月20日/21日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は「高次からの助けを得る」というテーマで行いました。本当の瞑想の目的とは何か、また瞑想修行を成就させるには、神(仏・守護霊・守護神)の助けがいかに大切か、またいかに神からの助けを得ることができるか、などを紹介しています。ぜひダイジェスト版をご覧ください。
 動画視聴
 来月は哲学教室(4月17日/18日)で、「イエスの教え」というテーマで行います。「キリスト教」というより、イエスの教えの真実は何であったのかについて、ご紹介していく予定です。

 それでは本題にうつります。
 むかし、図書館で道徳に関する本を借りてきたことがあったのですが、ページを開いて驚きました。いたるところに線や書き込みがあったからです。
 それを見ると、そうとう熱心に勉強した様子が伺われるのですが、しかし図書館の本は公共のものです。そこに、書き込みをすることは、道徳的にゆるされることではありません。
 私は不思議に思いました。ここまで道徳に関する本を熱心に学んでいた(ように思われる)にもかかわらず、反道徳的な行為をどうしてできるのだろうかと。
 書き込みをした人は、道徳に関する知識は得たでしょうが、道徳的には生きなかったのでしょう。しかし道徳というのは、知識ではなく、あくまでも実践であるはずです。いくら道徳に関する知識を学んでも、道徳にかなった生き方をしなければ、本当に道徳を理解したことにはならないと思います。
 このような「知ること」と「実践」との解離について、今日までずっと考え続けてきました。立派な学問をしているのに、人間的には決して誉められない人もたくさん見てきました。しかし、人のことはともかく、自分はどうだろうかと考えなければなりません。世の中には、人を正すことには熱心なのに、自分を正すことにはほとんど無関心な、ある種の「お節介」な人たちがいます。そういう人も、「知識と実践の乖離」がある人だと思います。

 さて、自分自身のことを考えてみると、やはりかなりの乖離があることが感じられます。私は仕事面でもプライベートでも、哲学や宗教など、立派なことが書かれてある本を常に読んでいるのですが、はたしてその内容通りの生き方をしているかというと、もうお話にならないくらいできていません。本を読んでいると、自分が立派になったような錯覚を覚えますが、実際に自分の生き方を振り返ってみると、まったく立派ではない自分を発見して少なからぬショックを受け、落ち込みます。こうなるのは、「自分は立派である」という自惚れがあったからでしょう。
 いずれにしろ、これでは立派な本を読む意味がありません。知識は身につきますから、学者として生計を立てる手段とするならいいかもしれませんが、立派な本を書いた人は、そうした頭だけの学者やインテリになってもらうためではなく、あくまでも立派な生き方ができる人になってもらいたいという願いを抱いていたはずです。
 ほとんどの人は、立派な本を読んでも「ああ、面白かった、感動した、いい本だなあ」と思うだけで、実際に立派な生き方をして立派な人になろうとする努力を始めません。始めても短期間でやめてしまいます。

 なぜこうなるかというと、いろいろ理由はあるでしょうが、やはり何といっても「情熱」が欠如しているからではないかと思います。もしも「立派な生き方ができるようになったら十億円あげる」と言われたら、ほとんどの人はそのために真剣な努力をするはずです。あるいは逆に「立派な生き方をしなければ全財産を失った上に悪い病気になってものすごく苦しみながら死ぬ」となったら、やはり情熱的になって必死な努力をするでしょう。
 このように、結局は「情熱」ではないかと思うわけです。
 しかし、現実には、立派な生き方をしても、十億円はもらえないし、立派な生き方をしなくても、全財産を失って病気で苦しんで死ぬということもありません。つまり、何の得もなければ損もないので、本気になって立派な生き方を実践しようとは思わないのです。

 ところが、いわゆる聖人と呼ばれる人たちは、現世的には何の得も損もないのに、一生懸命に立派な生き方ができる人間になるように、情熱的に努めました。いったいそれはいかなる情熱だったのでしょうか?
 人によっては、天国というすばらしい場所に行けるとか、あるいは(立派に生きなければ)地獄というひどい場所に行ってしまうということが情熱になっていることもあるかと思いますが、そればかりではありません。何の報酬も期待せず、何の脅威も怖れず、ただ立派になること自体を目的にしてそうしたのです。
 何かの報酬をめあてに、あるいは罰を怖れて、何かをやるというのは、動物でもできることです。動物に芸を教えるために調教するときは、報酬あるいは罰を用います。しかし私たち人間は、単なる動物以上の存在です。すなわち、何の報酬もなくても、あるいは恐怖で煽られなくても、つまりはまったく無条件であっても、「そうすること自体に価値がある」という理由で何かをやる能力が備わっているのです。
 そのような能力に目覚めようとする道が「霊的な道」なのだと思います。
 霊的な道は、「愛」に通じる道です。なぜなら、愛は報酬めあてではなく、まったくの無条件によって為されるからです。
 逆にいえば、愛がある人、本当に愛することを知っている人であれば、無条件に立派な生き方をめざすことでしょう。聖人といわれる人たちは、そういう人たちだったのでしょう。そういう人が立派な本を読めば、それを通して立派な生き方を実践できるようになるのだと思います。立派な本を読んでも実践できないのは、愛がないからです。


 3月10日 現代人は集中力が欠如しているのか?
 私はよく名前の漢字を間違えられます。私の名前は「斉藤」(戸籍上は「齊藤」ですが難しいので普段は「斉藤」という字を使っています)ですが、「斎藤」と書かれるのです。私のもとに寄せられるメールの半数以上が「斎藤」となっています。
 今まで気にしてはいませんでしたが、あまりにも間違いが多いので、これはもう「うっかりミス」というレベルではない異常さを感じて、今回、これについて書いてみようと思います。
 この間違いは、今まで、出版社からも間違えられました。また、amazonで私の本の著者名も「斎藤」と書かれて間違われました(連絡して訂正してもらいました)。
 出版社とか、amazonでサイトを構築している人は、いわば活字のプロであるはずですが、そのような人が間違えるのですから、普通の人が間違えても無理はないとも言えるのかもしれませんが、一般常識として、名前を間違えるというのは、相手に対して失礼なことだとされていると思うので、なぜもっと慎重になれないのかなという疑問が生じます。
 しかし何といっても極めつけは、私がここ最近、税の関係で依頼している会計士が間違えていることです。しかも三度もです。最初に書類が送られてきたとき、「斎藤」となっていたので、電話をして指摘し、今度は間違わないようにしてくださいと頼みました。会計士と言えば、それこそ書類を作るプロ中のプロですから、そのプロが、しかも名前という、もっとも重要なところを間違えたのですから、これはかなり問題だと思うのですが、人間は誰でもうっかりということがありますから、このときは受け流しました。しかし、その後、半年ほどしてまた書類を作ってもらったのですが、またしても「斎藤」になっているのです。そのときも注意したのですが、「すみませんでした」と謝ったので、さすがにもう間違いはないだろうと思っていたところ、本日、確定申告に使うために、書類が送られてきたのですが、「斎藤」となっているのです。こうなると、もうどうかしているとしか思えません。「仏の顔も三度まで」という言葉がありますが、一度だって問題があるこうしたミスを、三度もくり返すこの会計士は、「改善していく」ということができない人なのでしょう。おそらく今後も同じ間違いを繰り返し、書類を書き直す余計な手間隙で貴重な時間が奪われたり、ストレスになるので、もうこの会計士に依頼することはやめました。

 私はホームページでも著作でもどこでも「斉藤」と書いてあるのに、半数以上の人が「斎藤」と表記してメールを送ってくることが、不思議でなりません。
 これはもはや、うっかりミスというレベルではなく、全般的に、現代人の集中力が欠如してきた、ひとつの証ではないかという気がしてきました。そういえば、このところニュース番組を見ても、むかしよりも間違いが多くなり、キャスターがそれを訂正することが増えたような気がします。それも、かなり基本的なミスが多いのです。
 霊的な道を歩む上では、集中力や注意力は欠かせません。自己の内面の動き、言葉、行動に注意深く集中している必要があるのです。何らかの原因で、現代日本人は、この集中力が欠如してしまったのではないかと思います。これは大きな問題ではないかと思います。
 今回、この記事を読んでくださった方は、今後、コメントやメールをくれるときには、「斎藤」ではなく、ちゃんと「斉藤」と書いてくれるものと思いますが、それでもなお「斎藤」と書いてしまうようであれば、霊的な道を歩む上で不可欠な能力が欠如していると思っていただいたほうがよろしいかもしれません。
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