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 2021年7月の独想録

 7月26日 オリンピックに熱狂する国民
 オリンピック真っ最中ですが、前回も書いたように、私は五輪にはまったく関心がないので、開会式は最初だけ少し見ましたが、あとはまったく見ていません。
 ただ、五輪そのものには関心がありませんが、五輪に対する人々の反応には関心があり、ヤフーニュースのコメント欄などはよく見ています。日本の国民、というより、人間の本性を知るよい機会だからです。

 五輪が始まる前は、大多数の国民が反対していました。ところが、いざ五輪が始まると「始まったんだから、あとは成功を祈り五輪を楽しもう」といった人が増え、五輪を反対している人たちやメディアに対して、中には辛らつな言葉を使い、感情むき出しで非難している人もいます。「ああ、人間というのはこういうものなのだ」と思いました。
 最初は反対していたのに「始まったものは仕方ないからその成功を祈り楽しむ」ということに、整合性があるとは感じられません。始まろうと始まるまいと、そこに反対していた理由を覆す明確な根拠があるのなら別ですが、もしあるとしたら、それは何なのでしょう? 「仕方ない」というのは理由になりません。理由がないならば、最後まで反対を貫くのが、反対を唱えていた側の誠意ではないでしょうか。

 ところで、かつて世界を放浪していた頃のユダヤ人は、居を定めた国で優位に立つために、3S政策なるものを実施しました。3Sとは、SCREEN(映画)、SEX、そしてSPORTSです。今日では映画に加えて「ゲーム」をあげてもいいような気もしますが、人々は映画やセックスやスポーツに接すると熱狂して愚かになり、怠惰になって本業がおろそかになり、ユダヤ人はそのすきに努力して地位をあげていったというのです。実際、聞いたところによると、こうしたエンタテイメント業界に携わるユダヤ人は多いらしいのですが、彼ら自身はこうしたもので遊んだりせず、勤勉に努力して、カネや地位をつかんでいったというのです。
 以上の話は、どこまで本当かはわかりませんが、少なくとも3Sにこうした力があることは否定できないでしょう。
 五輪反対派を攻撃している人たちは、楽しみたいという自分たちの気分が害されたからそうしているようにしか思えず、理性よりも感情に操られ、まんまと3S政策のメカニズムにひっかかっているように思われます。そうして、五輪に反対している人を「左翼」だとか「反日」といってヒステリックに攻撃しているのです。ちなみに私は左翼でもなければ反日でもありません。ただエビデンスに基づき論理的に思考して、その時その時の状況がどうあるべきかと判断している人間です。

 こういうのを見ると、第二次世界大戦のとき、戦争反対をしていた国民が、いざ戦争が始まると、「始まったものは仕方がない。あくまでも戦うべきだ」とコロリと主張を変え、それでも戦争反対を唱えている人を「非国民」扱いして迫害した時代と重ねてしまいます。そうして戦争に突っ走っていった結果が、原爆による悲惨な結果と敗戦です。冷静に考えれば負けることなどわかっていた戦争でした。最初から、あるいはせめて、途中でやめていたら、被害はもっと少なくてすみました。
 今はコロナとの戦争といってもいいでしょう。実際、政府は「有事」だと言っています。アメリカでは、戦争で死んだ以上の人がコロナで死んだと大統領が追悼しているくらいです。

 感情に支配されず、理性的に考えることが大切です。
 私はコロナだけでなく、もともと五輪開催には反対でした。なぜなら、子供の貧困や少子化、災害復興など、あらゆる問題が山積している日本の状況を考えると、五輪などというお祭り騒ぎをやっている場合ではないと思うからです。五輪によって経済効果があるというのはまやかしで、それで恩恵を受けるのは、一部の人たちだけです。当初、7,8千億くらいでやるはずだった五輪は、結局、3兆円もかかってしまいました。これだけのお金があれば、生活に困っている人をどれだけ援助できたでしょうか。また、コロナで困っている飲食業その他の人たちを十分に救えたでしょうし、その結果としてコロナの蔓延も阻止できたでしょう。どれだけの人が死なずにすんだことでしょう。

 にもかかわらず、五輪が決まりました。その誘致には不正な裏金が動いていたとも言われており、しかも「7月、8月はスポーツをやるのにもっとも最適な季節だ」などと大嘘をついています。7月8月など、高温多湿で不快であり、熱中症で死んでいる人さえいるくらい、スポーツにとって最悪の季節であることは、日本人なら誰だってわかっています。実際、すでに猛暑で体調を崩した外国選手も出てきています。さらには台風の季節でもあります。五輪はこうした薄汚い嘘で決まったものなのです。

 そしてコロナ禍が訪れました。政府は「安心、安全」をオウムのごとく繰り返して強行しましたが、これまで海外から来た人たちの中からすでに百人以上の感染者が出ており、プレイブックを守らずに外出している外国人もかなりいると聞いています。
 こういうと「五輪よりも、国民の人流の流れの方が悪い」と言う人がいますが、確かに五輪そのものより、国民の人流が増えている方が影響力が大きいでしょう。そのために今後、従来より感染力の強い変異株もあって、かなりの感染者が増えることは、まず間違いありません。しかし、「他のスポーツ試合や学校の卒業式などは禁止で五輪だけはゆるされる」というのであれば、いったい誰が自粛しようという気になるでしょうか。しかも、飲食業などはもう死活問題であるというのに。しかしもしも「コロナ対策のために五輪は中止だ」となれば、国民の意識も違ってきて、「五輪を中止にするくらいだから自分たちも自粛しよう」となったはずです。つまり、物理的な問題ではなく精神的な問題だということです。

 また「問題なのは感染者数ではなく、重傷者数や死者数だ」と言う人もいます。「ワクチンによって高齢者の死亡者数は減っている」と言う人もいます。確かに高齢者の重症者数や死亡者数は減っていますが、今は20代から50代の方に問題がシフトしています。この世代の人たちの感染者が大部分を占めているのです。しかも、ワクチンも十分に接種されていません。そして、今日の感染症指定の基準レベルでいえば、症状がなくても、軽症であっても、基本的に入院となります。感染者数が今後、大幅に増えれば(というより、増えることはほぼ間違いないでしょう)、今はまだ少し病床に余裕があるとはいえ、あっというまに埋まってしまいます。すると、コロナではない他の病気の人が入院できなくなり、そのために死んでしまうというケースが、かなり出てくるでしょう。また、コロナであっても入院できず、他の施設や自宅療養ということになるでしょう。コロナは急変する傾向があるので、治療を受けることなく、ひとり相当な苦しみを味わいながら死んでいくことになるでしょう。そして、仮に命は助かったとしても、とりわけ変異株の場合、相当の人が後遺症で苦しむといわれています。中にはかなりの長期になったり、深刻な症状に見舞われたりします。若い人は、命は助かるかもしれませんが、長期にわたり深刻な後遺症に苦しめられる可能性があるわけです。これは大問題です。
 こうした見解は、私の勝手な憶測ではなく、専門化が指摘している、論理的で理性的な結論なのです。

 以上のように、冷静に論理的に考えれば、五輪などやるべきではなかったのです。さらに、現実的には難しいでしょうが、今からでも中止にするべきだと私は思います。そうすれば、人々の気も引き締まり、人流もそれなりに抑制されると思うからです。先の戦争のように、もし途中でやめていたならば、被害が少なくてすむはずです。
 選手たちが汗を流して懸命に戦っている姿を見れば、心が動かされるのも理解できなくはありません。感動や勇気も与えてくれるでしょう。しかし、今は有事なのです。多くの人の命がかかっているのです。平和で問題がないときなら、五輪も大いにけっこうでしょう。しかし、この緊急事態において、どちらを優先させなければならないかは明白です。一時的な感情に流されて、五輪に浮かれ騒ぐ時ではありません。全体的かつ長期的な視野から現実を見つめ、理性的に対処することが求められているのです。

 最初は五輪に反対し、五輪が始まるとコロリと考えを変えるような人は、今後、感染者や重傷者が増えて恐ろしい現実に直面した時には、またコロリと考えを変えて「だから五輪に反対していたんだ」などと言うのではないでしょうか。人間としての誠意に欠けています。一貫性を貫くべきです。これは「頑固」とは違います。頑固とは、正当な理由なりエビデンスがないのに自分の考えを貫くことですが、一貫性というものは、正当な理由やエビデンスに基づくものです。「始まってしまったものは仕方がないから楽しめばいい」というのは、正当な理由もエビデンスもない、まったく不誠実な態度です。そのままずるずると続けていけば、現状は悪くなることはあっても、よくなることはないでしょう。
 このブログのテーマである「覚醒」という点で見ても、まったく眠っている状態であり、覚醒とはほと遠いものです。

 ということで、今回の五輪で、私はいろいろ学ぶことができました。
 しかし、戦いはこれからです。長い間、どれほど険しい困難が待っているか。五輪がつまづきの石となり、ただでさえ衰退している日本をさらに衰退させることにならないか。
 そうならないことを祈りますが、覚悟は決めておいた方がよろしいと思います。そのときでも、決して感情に流されたりせず、冷静かつ論理的に対処することが重要になってくるでしょう。


 7月23日 東京オリンピックについて
 まずはご報告とお知らせから。 
 今月7月17日/18日のイデア ライフ アカデミー瞑想教室は「自己放棄と瞑想」というテーマで行いました。自己放棄、すなわち、エゴの放棄こそが、仏教でもキリスト教でも、救いのための絶対条件であり、究極の目的です。しかし、文字通り「究極」ですから、容易なことではありません。ならば、いかにすれば自己放棄をすることができるでしょうか。ぜひダイジェスト版をご覧になってください。
動画視聴
 来月(8月21日/22日)は、哲学教室で、前回の続きである「ギリシアの仏陀 プロティノス2」というテーマで行います。

 それでは本題にうつります。
 本日、いよいよオリンピックが開催されます。この記事を、いま私は午前中に書いています。夜には開会式が行われます。
 私自身は、オリンピックにはまったく関心がありません。今まで実況中継などは見たことがありませんし、日本人が金メダルをいくつ取ったとか、そんなことも、まるで関心がありません。もともとスポーツだとか、お祭りのようなものには関心がないからです。
 しかし今回は、別の意味でとても関心があり、これまでのさまざまな経過を注視してきました。それは、今回のオリンピックほど、人間のエゴや醜悪さを露呈したことはなかったと思われるからです。地上世界や人間の実相を垣間見るには絶好の機会ではないかと思います。そして、そのことを知ることはとても重要だと思うのです。

 皆さんもお気づきのように、「平和の祭典」などときれいな名目を掲げていながら、実際は一部の関係者の利権のための祭典であることが、白日のもとにさらされました。しかも、このコロナ禍のなかで、実施すればあきらかに感染者が増え、感染者が増えれば、いくらワクチンの普及によって死亡者が減ってきたとはいえ、ある一定以上の死者が出てくるのは避けられないでしょう。にもかかわらず、政府はオリンピックを強行しました。それも、「安心・安全になるから大丈夫」などという、まったく根拠のない言葉で国民をごまかしながらです。実際、海外から来た選手や関係者から大勢の感染者が出て、街中に出たりしています。つまり政府は、国民の命より、自分たちも含めた利権を重視したのです。

 また開催組織委員からは、過去に行った障害者に対するイジメ(実際はイジメというよりも極めて悪質な虐待や犯罪のレベル)を得意げに雑誌に語ったミュージシャンが辞任したり、ホロコーストを揶揄したコントを行ったアーティストが解任されたりしました。前者の場合、音楽ファンの間ではよく知られたことだったようで、組織委員会はそうした身辺調査をせず、安易に依頼していたようです。
 オリンピックに関係する業務の多くが、ある大手の広告会社に丸投げですが、この広告会社はその業務の多くを他の会社に丸投げしています。つまり、自分は何もしないのに相当なお金が入ってくるという仕組みです。その多くに税金が使われています。

一方、これは英国から送られてきた情報らしいのですが、ドーピング問題で参加できないロシアが、開会式を妨害するために、大規模なサイバー攻撃をしかけるというのです。実際、昨夜から早朝にかけて、一時的に、開催組織委員会や大手企業のホームページなどにアクセス不能となりました。これはインターネット環境を管理しているアメリカの会社の単純な人為ミスだったらしく、サイバー攻撃ではないということですが、開会式当日にこうしたトラブルが生じたというのは、偶然とは考えにくいものがあります。今夜の開会式がはたして無事に終わるかどうか、不穏なものを感じます。
 それにしても、ロシアは、自分たちがドーピングというずるいことをしていながら、他国のオリンピックを露骨に妨害するとしたら、まったく醜悪であるとしかいえません。

 他にも、今回のオリンピックで明らかにされた、さまざまな方面での、ずるさ、偽善、醜悪さ、ずさんさなど、いろいろありましたが、きりがないのでこれ以上語るのはやめておきます。
 もちろん、スポーツには人を感動させ勇気を与えるといったメリットもありますが、それは必ずしもオリンピックでなくてもいいし、少なくとも、これまでのような薄汚いオリンピックではなく、一度すべてをリセットして、本来の高潔な理念を反映したオリンピックにするべきだと思います。コロナで職を失い生活に困っている人が数多くいるなかで、お金のかかる仰々しい開会式のショーなどは必要ありません。もっと質素なものにするべきだと、私個人的には思います。

 このように、オリンピックにからむ偽善性や醜悪さを人々に知らせたという点で、私はある意味、今回の東京オリンピックはとても意義あるものになるだろうと思っています。
 こうした問題が生じる根本にあるのは、結局のところ、私たち人間ひとりひとりの「エゴ」によるものなのです。たとえ、ひとりひとりは善い人であっても、集団になると、集団独自のエゴというものが形成されたりします。
 ですから、この地上を少しでもよいものにしていくには、何よりも私たちひとりひとりが自分のエゴを抹消する努力をしていく必要があるのです。
 しかし、それは容易なことではありません。よほど真剣かつ忍耐強く努力を続けなければ、達成できるものではありません。ですから、仮に今回のオリンピックがそこそこうまくいき、人々が浮かれ騒いで楽しんで終わったら、「喉もと過ぎれば熱さを忘る」ように、今回のさまざまな問題も忘れられ、相変わらず醜悪なオリンピックは続けられることになるでしょう。つまり、教訓を学ばないということです。特にこの傾向は、忘れっぽい日本人に顕著だと思います。これでは、いつまでたっても世の中はよくならないでしょう。


 7月10日 究極のリスク管理
 国家においても、企業においても、いわゆる「リスク管理」というものが求められます。すなわち、将来、起こるかもしれない何らかの危機的状況やトラブルの可能性をまえもって予想し、そのような問題が生じないように対策を立てたり、もしも生じた場合は、どう対処したらいいか、あらかじめ講じておくことです。
 こうしたリスク管理は、国家や企業に限らず、個人においても必要なことです。たとえば、将来、病気になったり職を失ったりするといったリスクがあるわけですが、それを回避するような手段を日ごろから講じたり、万が一そうしたリスクが生じた場合、どう対処するかといったことを、あらかじめ準備しておく必要があるわけです。そのために、健康面ではダイエットや運動をするといったことがあげられますし、職を失ったりするとか、事故や災害などに関しては、保険をかけておくといったことをすることになるでしょう。

 ところで、世間でいうリスク管理は、あくまでもこの世に生きている間だけに関してであって、「死後のリスク」については関与していません。しかし、個人レベルでは、死後のリスクについても、リスク管理をする必要があると思うのです。いわば、遠い先までも考慮した「究極のリスク管理」です。
 死後のリスクというのは、「死後に苦しい状態に陥る」ことです。俗に言う「地獄に落ちる」ということです。
 ここで問題となるのは、そのような、死後の世界などといったものがあるのかどうかです。唯物論者は一笑に付して、死後の世界など存在しないと言うでしょう。もちろん、死後の世界が本当にあるかどうか、誰にもわかりません。あるという証明もできないし、ないという証明もできません。あるかないかわからないものに対して、対処をしておくなどということは、馬鹿馬鹿しく思われるかもしれません。
 しかし、リスク管理というものは、そもそもそういうものなのです。将来、たとえば交通事故を起こすかどうかなど、誰にもわかりません。しかし、もし交通事故を起こしてしまった場合、その損害は致命的なものになるので、ほとんどの人は、クルマに乗るときは自賠責保険だけでなく任意保険もかけているわけです。

 死後の世界も同じです。「死後の世界なんてない、地獄なんて存在しない」といって、人をさんざん苦しめてまでカネや地位を獲得した人がいるとして、もし地獄が存在していたら、その人は死後に地獄に行って、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わうことになるかもしれません。
 釈迦もキリストも地獄はあると言っています。彼らの教えによれば、地獄という場所は、想像をはるかに超えたひどい苦しみを、永遠か、永遠に近いともいえるほど長期間にわたって味わうことになるらしいです。
 たかだか長くても百年くらいにすぎないこの地上人生を、人を苦しめてまでカネや地位に恵まれて幸せに暮らせたとしても、死後に待ち受けている、壮絶な苦しみを気が遠くなるほど味わわなければならないとしたら、割りにあわないのではないでしょうか。

 ですから、私たちは、死後の世界までも考慮してリスク管理をしておく必要があるわけです。そのためには、「悪いことはしない」ということです。殺人といった重大な犯罪はもちろんですが、ささいなイジメや嫌がらせ、パワハラといった、人の心を傷つけるような行為であっても、その報いを受けなければならないリスクがあるわけです。そしてその報いは、釈迦やキリストの主張が本当なら、私たちが想像する以上に苦しいものです。
 したがって、死後の世界があるかどうかはわからないとしても、もしあった場合のことを考えて、それに対処していく、つまりリスク管理をしておく、ということが大切だと思うわけです。そのために、ずるいことはせず、人をだましたりいじめたり裏切ったり踏み台にするようなことはせず、正直に、誠実に、まじめに、正義感をもって柔和に生きることです。これが究極のリスク管理です。

 ところが、この地上世界という場所は、ずるいことをしたり、人をだましたりいじめたり裏切ったり踏み台にしたりする人の方が、成功したりカネや地位に恵まれることが多いのです。たとえそこまで言わないにしても、目上にこびたり、自己を売り込んだり、心にもないパフォーマンスをすることが上手な人が成功する傾向があるわけです。
 一方、正直に、誠実に、まじめに、正義感をもって柔和に生きる人は、そのために馬鹿を見るようなことも少なくありません。この地上世界は、だいたいにおいて、不条理で汚い場所なのです。ですから、このような地上世界で、正直に、誠実に、まじめに、正義感をもって柔和に生きているのが、愚かしく思えてしまったり、いじけてしまいたくなったりするのです。無理もないことです。

 しかし、そうしてこの世ではさえない人生を送ったとしても、「死後の地獄行き」という、とんでもないひどいリスクは回避していることになります。もちろん、地獄など存在しなければ、悪いことをしてまでもこの世の成功をつかんだ人が「勝ち逃げ」ということになりますが、もし存在していたら、その損害と苦しみの恐ろしさは、はかりしれないものがあります。
 ですから、人生をまっとうに生きて、そのためにさえない人生を送ることになったとしても、それはすばらしい「リスク管理」をしていることになると思ったらいかがでしょうか。クルマの保険をかけ続けて、結局、事故を起こさなければ、今まで支払った保険料は無駄ということになりますが、しかし、安心してクルマの運転ができたわけですから、その保険料は「安心を買った」という意味に解釈できるわけで、決して無駄ではなかったことになります。

 なお、釈迦やキリストは、天国(極楽)についても説いています。善き行いをした人が天国に行くわけですが、地獄とは正反対で、地上のいかなる幸福とは比較にならないくらい幸福だとされています。長くても百年という短い地上人生の間に、人間としてまっとうに生き、人に優しくし、困っている人がいたら助け、機会あるごとに親切にするならば、天国か、少なくともそれに近い霊的領域に死後は行くことになるでしょう。これを「投資」にたとえるなら、最高にパフォーマンスの高い投資です。千円の株を買って、それが値上がりして一億円になったくらい、あるいはそれ以上のものです。
 たとえ人に親切にして、感謝されなかったりしても、実害はありません。むしろ、感謝されたりしたら、それだけ功徳が減ると考えて、感謝されなくてよかった、くらいに考えるといいと思います。
 神智学の教義によれば、ほんの小さな親切であっても、霊界では、とてつもなく大きな功徳として認められるとのことです。卑俗な例をあげれば、貧しい人に千円をあげたら、霊界では一千万円をあげたくらいの功徳があるらしいのです。
 たとえ、そのような功徳は別としても、人を助けたり善いことをすれば、気分がいいし、それだけでも十分な報酬であるとも言えると思います。

 ということで、皆さん、この地上人生は短いです。あっという間です。私なんか、いつのまにか60歳になったと思ったら、先月、もう61歳になってしまいました(笑)。こんな短い人生において、どれほどカネや地位を手にしたところで、それが何だというのでしょう。それよりも、リスク管理をして生きようではありませんか。悪いことはせず善いことをして死んだなら、仮に死後の世界がなかったとしても、そういう生き方をしたというだけで気持ちよく生きたことになります。そして、死後の世界があったなら、それこそ想像を絶するほどすばらしい生が待っているのです。どちらにしろ損はないのです。

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