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 2021年11月の独想録


 11月23日 神への愛はどのように湧き上がるのか?
 まずはご報告とお知らせから。
 今月11月20日/21日のイデア ライフ アカデミー哲学教室は、「タロットに学ぶ霊性進化への道」というテーマで行いました。タロットはもともと占いではなく、古代エジプトの秘儀を源流に、カバラ思想と融合され、その秘密の教え、すなわち霊性進化の教えが、象徴的な絵柄として描かれたものなのです。そんなタロットを、カバラの生命の樹との関係において、独自に解釈してみました。興味のある方はぜひダイジェスト版をご覧ください。
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 来月のイデア ライフ アカデミー瞑想教室では「精神的な出家」というテーマで行います。単なる趣味のレベルではなく、本格的に瞑想修行をしてみたい方のために、古今東西の聖者たちから学んだ大切な心構えを紹介させていただきたいと思っています。

 では、本題にはいります。
 キリスト教では、「神を愛せ」ということが、盛んに説かれています。「神を愛することなくして救いはない」とさえ言えるほどです。実際、過去のキリスト教の聖人たちの伝記を読みますと、それはもう、これでもかというくらい、神への愛に満ち満ちています。すべてを愛する神にゆだね、愛する神のためなら命も惜しくないのです。確かに、仏教と違って、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった一神教の宗教は、神を信仰の土台にし、至上のものとしているので、神への愛は、信仰にとって絶対条件となるわけです。

 なぜ神への愛がこれほど重要視されているかというと、理由はいくつかあると思いますが、おそらく一番の理由は、神を愛することによって自己(エゴ)を消滅させるためです。私たちは本当に愛する人のためなら、命を捨てても惜しくないでしょう。たとえば親は子供を命がけで守ります。自分をそこまで犠牲にできる動機は、愛の他にあるでしょうか?
 しかし、人間同士の愛には、そこにどうしても大なり小なりエゴが入ります。親の子に対する愛でさえ、親のエゴが多少なりとも入っています。言い換えれば、何らかの見返りを求めてしまうのです。それはエゴの働きです。
 それに対して、神への愛は、まったく見返りを期待しない純粋な愛です。「神を求めているのではなく、神の恩恵を求めている者は、自分を求めているのである」という言葉がキリスト教世界にあります。神にお願い事を求めてはいけないのです。それは神を愛しているのではなく、「お願い事」を愛している、そして、そんなお願い事によって喜ぶ「自分」を愛しているということになるからです。
 神に対して何も求めず、ただひたすら神そのものを愛する、これがキリスト教で説かれる愛です。すべてを捨て、自分さえも捨てて神を愛する、ということです。そのように神を愛するとき、神はすべてを与えるとされています。

 とはいえ、見たことも会ったこともない、それどころか、存在するかどうかも怪しい神を、それほどまでに愛することなど、できるものでしょうか?
 キリスト教では、自力では無理だと言っています。つまり、神の恩恵が与えられなければ、それほどまでに神を愛することはできない、というのです。いわば、神から選ばれた人だけが、そこまで神を愛することができる、ということです。
 そうなると、もう身も蓋もありません。神が愛するようにさせてくれなければ、愛せないというのですから、私たちにできることは何もない、ということになります。

 しかし、本当に、私たちにできることは何もないのでしょうか?
 私はあると思っています。
 私たちは、人間であれば、愛する人がいるでしょう。そういう人は誰もいないという人もいるかもしれませんが、人間でなくても、たとえばペットでも、あるいは芸術でも、仕事でも、とにかく、人間に限らず、何らかのものはあるはずです。
 そういった愛する対象を与えてくれたのは、神である、と思うことです。
 そうすれば、神に対して感謝の念が湧き、そこからしだいに神に対する愛が芽生えてくるかもしれません。もちろん、絶対にそうなるとは言えません。最終的には神の判断にまかせるしかありませんが、しかし、こうして神を愛そうと努力している者に、神は恩恵を与えてくれると思っているのです。

 ただし、ここでひとつ注意があります。
 愛する人なり、何らかのものを、神はあなたに「差し上げた」のではないということです。ただ「貸している」ということです。愛する対象は、あなたの所有物になったわけではなく、ただ借りているに過ぎない、ということです。
 借りたものは、いつか返さなければなりません。神の判断により、神が返すことを望んだならば、愛する対象は、あなたのもとから消え去ってしまうでしょう。
 この点をしっかりと認識していないと、愛するものを失ったとき、悲嘆にくれて、神を恨んだり、神への愛が失われたりしてしまいます。そうではなく、「一時的にしろ、すばらしいものを貸してくださって、ありがとうございました」と思うようにすることです。
 この地上世界に、「自分のもの」というのはありません。愛する人も、お金も、名誉も、何であれ、一時的に「借りたもの」に過ぎないのです。つまりレンタルです。すべてはレンタルなのです。いつか返さなければならないのです。そう思うことです。


 11月4日 友人の死
 9月に、私の母に次ぎ、先月は、20年来の友人が、亡くなりました。癌でした。まだ50歳くらいではないかと思います。彼は関西地方に住んでいたのですが、私が東京でセミナーを行うときには、ほとんど参加してくれました。イデア ライフ アカデミーの授業でも、ほとんど毎月、学びに来てくれました。ルックスは筋肉質で大柄な体格でしたが、ハートは繊細で優しく、物静かでした。お茶会の席でも、あまり自分から話すタイプではありませんでしたが、一度口を開くと、実に的を得た、内容の濃い話をしました。
 私はそんな彼と毎月、授業で会えるのを楽しみにしていました。彼に私の話を聞いてもらうことは、大きな喜びでした。

 亡くなる一ヶ月ほど前に、メールで「実は末期の癌です」と連絡を受けたときには、言葉を失いました。彼は死後の世界のことなど、いろいろ聞きたがっていたので、ラインを通して、何回もやりとりしました。
 私は以前、癌患者のためのホスピスでカウンセラーをしていたことがあるので、その経験から、彼の回復は絶望的であると思いました。長くても今年いっぱいくらいかと予想していましたが、それよりも早く旅立ってしまいました。
 死を覚悟していたとはいえ、実際に、今まで親しかった人が突如として姿を消し、もうこの世のどこを探しても決して会えないのだという現実をつきつけられると、なんともいえない悲しみと寂しさを覚えます。
 母の場合は高齢であり、しかもすでに長いあいだ認知症でコミュニケーションができない状態だったので、こう言っては何ですが、すでにもう亡くなったという感覚でしたので、実際に亡くなっても、悲しみや寂しさは感じませんでした。
 しかし、まだ亡くなる歳でもなく、長いあいだ、私の話を熱心に聴き続けてくれた友人が亡くなったことは、本当に胸が痛みます。人生のはかなさと無常とを、あらためて感じました。

 私の感じたところだと、彼は七割ほど死を覚悟し、残り三割は、奇跡が起きて回復することを望んでいたようです。確かに、末期から奇跡的に回復したという人の話も聞いたりしますが、実際には、そういうことは稀で、私の知る限りでは、末期から回復した人はひとりもいません。
しかし、身内や親しい人からすれば、無理もないことなのですが、「きっと回復するよ、だからがんばって!」という言葉が出たりします。患者さんもそうなることを希望しているので、励まされて「よし! 必ず回復するぞ!」と思ったりします。実際、その意気込みで一時的に元気になることもあります。
 ところが、癌はじわりじわりと肉体を蝕んでいきます。患者さん本人もそのことがわかり、日ごとに具合が悪くなってくるのを感じ、しだいに絶望的な気持ちに支配されてきます。「もうがんばりたくない、がんばるのに疲れた」と感じたりします。
 ところが、周囲の人は愛する患者さんの死を認めたくないので、さらに「がんばって!」と励まします。患者さんは、家族や周囲の人の気持ちを傷つけたくないために、「わかった、がんばるよ!」と気丈な態度を見せ、ある種の芝居をしたりします。
 しかし、そうすると、「誰にも本当の気持ちが言えない」という孤独感に、さいなまれることになりかねないのです。それはとても辛いことだと思います。
 もちろん、まだかなり回復の可能性がある場合、患者さんもその気になっている場合は、「がんばってね」と励ました方がよいこともあります。しかし、患者さん本人の様子を慎重に見て、もうがんばりたくないと思っているようなら、がんばってと励ますことは、よいこととは言えないと思います。

 そうして、悪化の一途をたどり、いよいよ、本人はもちろん、周囲も、もうダメだと思ったときには、元気なうちにいろいろと死ぬ準備ができたであろう、そのための時間も体力も残っておらず、患者さんは苦悩しながら亡くなってしまう、という悲劇が、しばしば起こるのです。

 安らかな気持ちで死ぬためには、まだ時間も体力もあるうちに、しておくべきことがいろいろあります。遺産や葬儀といった事務的なこともそうですが、精神的には、「感謝の言葉を伝えたかった人」に感謝の言葉を伝えることです。また、「謝りたかった人」に謝ることです。「愛している人」に、愛していると伝えることです。
 最低限、これをしないと、たいていの人は、苦悶を抱えたまま亡くなります(もちろんすべての人がそうだというわけではありません)。しかし、これさえやっておけば、完全は無理としても、かなりの程度、安らかな気持ちで死を受け入れる気持ちになれるものです。

 なので、私は、友人にはっきりと言いました。「一応、死ぬことは覚悟した方がいいと思う。死ぬことを前提に、今したいこと、やるべきことをした方がいいと思う」と。そして、上記のことを伝えました。また、「死はまったく恐ろしいものではない、むしろ、死はこの世のあらゆる苦しみから解放されるという意味では、救いであり、喜ばしいものである」という、私の見解を述べました。
 彼は、私の言葉を素直に受け入れてくれたようです。最期の様子については知らされていないのでわかりませんが、安らかな気持ちで旅立ったことを祈るばかりです。

 それにしても、見るからに頑丈そうだった彼が、あれよあれよという間に病気が進行して亡くなってしまったことを見るにつけ、人間というもの、人生というものは、実にはかないなと痛感しました。
 本当に、人間はいつ死ぬかわかりません。癌の場合は、発覚から死ぬまで、ある程度の時間があるのが普通ですから、その間に、いろいろと死ぬ準備、死ぬ前にやるべきことができます。しかし、急性の病気や事故などで、一瞬のうちに死ぬ人も少なくありません。
 ですから、人間はいつ死んでもいいように、毎日を生きなければならないと思うのです。朝起きたら「今日死ぬかもしれない」と思って一日を過ごすくらいで、ちょうどいいのかもしれません。
 そうすれば、無駄なことに時間を浪費することもなくなり、人生において何がもっとも大切なものであるかわかるようになり、人生を有意義なものにさせていけるようになるのではないでしょうか。

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