HOME独想録

 2021年6月の独想録


 6月22日 私の眼のトラブル
 まずはご報告とお知らせから。 
 今月6月19日/20日のイデア ライフ アカデミー哲学教室は「ギリシアの仏陀 プロティノス 1」というテーマで行いました。仏陀(覚醒者)というと釈迦を思い浮かべますが、プロティノスも仏陀と呼ぶべき偉大な哲学者です。その思想も仏教と似たところがありますが、けっこう難解です。でもとても面白いです。ぜひダイジェスト版をご覧になってください。
動画視聴
 来月(7月17日/18日)は、瞑想教室で、「自己放棄と瞑想」というテーマで行います。

 では、本題に入りたいと思います。
 今回は、私の個人的な健康に関する記事で、このブログのテーマとはあまり関係のないことなので、お忙しい方は時間の無駄になるかもしれませんので、あえて読む必要はないかもしれないことを、あらかじめお断りさせていただきます(笑)。
 私は若い時から強度の近視でコンタクトをつけているのですが、三ヶ月ほど前から、左目だけですが、コンタクトをつけるとひりひりして充血し、すりガラスのように視野が曇って見えるようになりました。右目は問題ないのですが、左目だけです。
 最初は白内障かと思いましたが、目薬をつけると、その瞬間だけくもりがなくなり鮮明に見えるので、白内障ではないと思いました(白内障は角膜内部が白く混濁するので目薬をつけてもくもりはなくならないでしょう)。インターネットでいろいろ調べたところ、角膜表面がひどく傷ついているのだと思いました。
 角膜の傷ならほうっておいても治るだろうと思い、「角膜修復」をうたっている目薬を3種類くらい買ってずっと試してみましたが、ほとんど効果がありません。
 仕方がないので、昨日、眼科医のもとに行きました。そうしたら、やはり角膜がひどく傷ついているとのことで、角膜の傷を治し、目の乾燥を防ぐ作用があるとされる「ヒアルロン酸NA点眼液」と、目の炎症をやわらげる作用があるとされる「フルオロメトロン点眼液」の2つの目薬をもらってさすように言われ、一週間後にまた診察に来てくださいと言われました。早ければ二週間くらいでよくなるが、場合によっては数ヶ月かかると言われました。
 こうなった原因について医師からの説明はありませんでしたが、私が思うに、これは加齢に伴って涙の量が減ったり、また涙の質が劣化することにより、コンタクトと擦れて、角膜に傷がついたものであることに、まず間違いないでしょう。
 しかも恥ずかしいことに、私はコンタクトの使用期限を守らずに使っていました。2週間で交換するコンタクトレンズを使っていたのですが、もったいないので2ヶ月使っていました(笑)。しかし、それで今まで何年も問題がなかったので、大丈夫だと思っていたし、このままずっとこれで大丈夫だと思っていました。
 しかし、年齢による劣化ということを見逃していました。私は先日61歳になったのですが、悲しいことに、からだや知能のあらゆる面で、あきらかに劣化を感じます。まさか眼がこういう形で劣化するということは予想できませんでした。せいぜい老眼になるとか白内障になるといったことしか想像していませんでした。
 幸い、私はほとんど家で仕事をしているので、今は家にいるときはめがねをかけています。医師は、コンタクトを使うなら一日使いきりのコンタクトがいいと言っていました。確かに、どうしても外出しなければならないときは、いまテレビで宣伝している「生感覚レンズ」の一日使いきりコンタクトレンズを使っています。確かに、これをつけると、目がひりひりしたり充血したりすることなく、かなり楽です。
 ただ、一日使いきりコンタクトは、お金がかかります。30枚入って3千円くらいします。もし両目に毎日つけるとすると、一ヶ月6千円、年間7万2千円かかってしまいます。
 かといって、めがねをずっとつけているのも、けっこう鬱陶しいです。特に私は老眼もあるので、近視用のめがねの上に老眼用のめがねを重ねないと、近くが見えません(めがねをはずせば近くは見えるのですが、私は強度の近視のため、本を読むときなど、鼻が本につくくらい近づけないと見えないので、それでは首を痛めてしまうので、近視用のめがねの上に老眼用のめがねをかけざるを得ないのです)。
 まったく、年齢を重ねると、しだいに生きることが不便になってくるのは、本当にいやなものです。しかし、これは自然の摂理ですから、受け入れるしかありません。

 ただ、まだ若い皆さんには、忠告させていただきたいと思います。
 まず、コンタクトの使用期限は守りましょう。そして、少しでも違和感を感じたら、しばらくコンタクトをやめてめがねを使うか、もし一日使いきりコンタクトを使っていなければ、それを使うなどした方がよいです。一週間しても改善しなければ、ためらわずに眼科医に行った方がよいです。ひどくなればなるほど治りもおそくなるし、場合によってはもとに戻らない可能性もあります。からだのどの部分でも自由が奪われるのはいやなものですが、やはり視力が奪われるというのは、かなり苦痛で不便であり、精神的にも落ち込んでしまいます。なので、くれぐれも眼は大切にしてください。


 6月1日 地上世界に生きている時間を最大限に生かす
 私が主催するイデア ライフ アカデミーでは、基本的に釈迦やキリスト、また次回ご紹介するプロティノスなど、すぐれた思想家や宗教家の教えを土台にしています。いわば、彼らのエッセンスをそのまま(ただし哲学思想になじみのない方でも理解できるようにある程度かみくだいて)紹介しています。なので、イデア ライフ アカデミーの授業そのものには、ほとんどオリジナルなものはありません。もちろん、哲学思想というものは、自然科学とは違い、それをどのように解釈するかという主観的なものが、どうしても入り込んでしまいます。なので、私は自分の主張を無理強いすることはしません。むしろ「私の言うことを信じないでください。自分の頭で考えて、受け入れるかどうか判断してください」と述べています。

 さて、釈迦やキリストなどが説いた教えをひとことでいえば、「徹底的な現世否定であり、自己否定」です。自己否定とは、前回の授業でご紹介したように、エゴの否定ということですが、エゴの否定をするには現世の否定が必要不可欠なのです。逆に、現世の否定はそのままエゴの否定につながります。これが彼らの教えのエッセンスです。
 この現世における(完全なる)幸福は説いていません。というのも、原理的に、この地上世界で本当の幸せをつかむことは不可能だからです。この世界は無常であり、肉体は病に冒されながらついには死滅します。最終的にはすべてが失われるのです。それだけではありません。さまざまな苦しみ、ときには耐え難いほど悲惨な苦しみに見舞われることもあります。この地上世界の実態は、非常に危険な、恐ろしい場所なのです。

 しかし、巷にはびこる宗教やスピリチュアルといったものは、現世で幸せになること(正確に言えば欲望を満たすこと)、エゴを増長させるようなことばかりしています。この世界はエゴで生きている人がほとんどですから、そのためにこういうものは人気がありもてはやされます。しかし、エゴを喜ばせても、一時的には幸せを感じるかもしれませんが、最終的には苦しみをもたらすか、あるいは堕落させるかのいずれかに終わります。堕落すれば恐ろしい苦しみが待ち受けています。
 つまり、あきらかに釈迦やキリストの教えとは真逆なことをしているのです。釈迦やキリストを超える人物はいるでしょうか? 私はいないと思います。それなのになぜ、人々がこれほど偉大な人の教えを学び、それを真剣に実践しようとせず、怪しいスピリチュアルにはまる人がこれほど多いのか、それを思うと、とても残念な気持ちがします。
 かといって、そのことを人に押し付けることはしません。人にはそれぞれ、そのときに必要なことがあるからです。幼稚園児には「お遊戯」が必要でしょう。私も過去を振り返って、今から思えばまったく幼稚なことに多大な時間を割いてきました。しかしそれは、その当時の私には必要だったのだと思うことにしています。たとえ仮にそのとき、イデア ライフ アカデミーのようなものがあったとしても、「何だそりゃ? 怪しいカルトか?」などと言って振り向きもしなかったでしょう(笑)

 繰り返しますが、この地上世界に真の幸せはありません。あるのは一時的な快楽だけで、人はそのはかない一時的な快楽にすぎないものを「幸福」と勘違いしているのです。人間の本当の幸せは、肉体を離れた死後に存在します。この地上は、その幸せな世界に移行するための準備期間、いわば、魂を鍛える場所であり、魂はそのために地上に生まれてきたのです。
 私が宗教や哲学を志す前の、かなり若い頃、こうした、いわば「救いを死後に求める」という考え方が嫌いでした。なぜなら、単なる弱者の現実逃避のように感じられたからです。それよりも、この地上でたくましく生き、成功して富と名声をつかみ、さらには慈善事業などをして人を救う、といった生き方こそが、ずっと価値があると思っていました。
 しかし、今はそういう考えを持っていません。古今東西、多くのすぐれた聖者たちを研究し、自分でも思索を深めていった結果、証明はできませんが、死後の高い霊的領域こそが、人間がめざす目的であるということを確信したからです。

 もちろん、この世で苦しんでいる人を助け、この世界をよいものにしていく努力は大切ですし、必要だと思っています。
 しかし、この世界という場所は、もともと苦難や屈辱や失敗や孤独といったものを通してエゴを滅却するために創造されたものなのです。ですから、どうあがいても、この世界が完全に幸せな世界になることはありません。はっきり言いますが、この地上世界は救いようがないのです。原理的構造的にそうできているのです。さもないと、存在意義がなくなってしまうからです。たとえるなら、トレーニングジムの中にある、さまざまなトレーニングマシンを捨て去ってしまうようなものです。これではトレーニングジムが成り立たないでしょう。
 したがって、この世界で苦しんでいる人を助けるという意味は、早くこの世界から脱出するように、釈迦やキリストなど、その他すぐれた霊的な教えを説いてあげることだと私は考えているのです。一生懸命にトレーニングして、マッチョな魂を獲得させる、ということになります。筋トレをしている人を見ていると、苦しそうですが、この人生も同じなのです。さまざまな苦難、屈辱、孤独といった苦しみによって魂を鍛えることが人生なのです。この世の快楽を味わうことではありません。逆に、この世のいっさいの快楽を捨て、この世に対するいっさいの未練や関心を捨て去ることにあるのです。

 だから、皆さんには、この地上に生きている間、くだらないことに時間を浪費することをせず、とにかくこの地上世界から解脱して、この地上世界よりはるかに幸せな、永遠なる世界に移行するべく、一生懸命に努力していただきたいと思っているのです。
 地上世界というトレーニングジムに生きているということは、ある意味では、トレーニングという最高にすばらしい機会が与えられているということです。もしこの機会を失ったら、いつか死後、自分が地上に生まれ変わった理由を思い出して、ひどい失意を味わうことになるかもしれません。たとえるなら、10億円の当選宝くじを、間違ってごみと一緒に捨ててしまったときのことを想像してみてください。どうしようもない後悔やくやしさで心かき乱され、一生、悔やむことになるでしょう。
 しかし、この地上世界でトレーニングをさぼるということは、このたとえよりも、はるかに残念であり、悔やんでも悔やんでも悔やみきれないものがあるのです。なぜなら、高い霊的領域の幸せに比較したら、この地上の幸せなど、ゴミのような、つまらないものだからです。幸か不幸か、私たちはそのような霊的幸せを知らず、比較できないので、この世のつまらない幸せを、たいそう大事なもののように思い込んでいるのです。

 人はいつ死ぬかわかりません。明日、いえ、今日、死ぬかもしれないのです。どのくらい時間が残されているのかは、誰にもわかりません。ですから、一生懸命に学んでいただきたいと、私は切に願っています。
 ただ、一応念のために申し上げますが、私はイデア ライフ アカデミーに来て欲しいために、こういうことを書いているのではありません。「来て欲しい」と思うのはエゴです。だから、私は、人が来なくてもがっかりしないし、人が来ても喜んだりしません。
 ただ、ともに人生最大の目的に向かって歩む同志が集まってきてくれたという点では、やはり嬉しさは感じるものですが。

このページのトップへ