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                    空海物語(パート1)

 偉人の生き方に学ぶというテーマで、真言宗の開祖である空海の一生をまとめてみました。空海はまさにその生涯のすべてを世のため人のために尽くした超人的な聖者だったといえるでしょう。

 空海(くうかい)
 平安時代初期の僧。弘法大師の諡号で知られる真言宗の開祖。天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。(ウィキペディアより)




 パート1

 絶望に沈み込む空海の師、恵果
「私の命はまもなく尽きてしまうだろう……」
 西暦八〇四年、恵果和尚(けいかおしょう)は深く嘆いていました。 唐国・長安にある青龍寺(しょうりゅうじ)の大徳であり、唐朝から国師の称号を贈られるほどの高僧であった恵果には、千人を越える弟子がいました。ところが法を受け継ぐだけの器をもった弟子は、きわめて少なかったのです。
「私の入寂(にゅうじゃく)と共に、これまで続いてきた密教の灯も消えてしまうのだろうか……」
 密教の教えをさかのぼっていくと、宇宙真理の化身である大日如来(だいにちにょらい)にたどりつきます。
 大日如来の教えを受け継いだのが、金剛薩埵(こんごうさった)という仏であるといわれます。そして金剛薩埵は竜猛(りゅうもう)という名のインド僧に教えを授けました。
 竜猛は弟子の竜智(りゅうち)に教えを授け、竜智は金剛智(こんごうち)に法灯を引き継ぎました。その金剛智が中国に渡り密教を広めたのです。金剛智は、インド人と西域人の血が混じった不空(ふくう)に法を伝授しました。すなわち、第六番目の始祖であり、恵果の師匠となる人です。
 不空は金剛智の死後、インドに渡って膨大な量の経典をもって帰りました。
 インドに入ったとき、国王が不空の法力を試すため、飼っていた象を不空にけしかけました。象は両足をあげて不空を押し潰そうとしましたが、そのとき不空が手に印契を結び真言を唱えるや否や、象は倒れ、前に進むことができなくなったのです。
 また、当時の玄宗皇帝の時代にクーデターが起こったとき(安史の乱)にも、密教の呪力によって事態を沈静化させました。玄宗らは都に迫る敵軍に脅えて長安から逃走しましたが、不空はひとり都に残って賊群退散の修法を行ない、しかも帝都回復の日を「至徳二年(七五七)十月二三日」と予言までしたのです。結果、敵は退散し、予言は見事に的中しました。
 皇帝は密教のもつ鎮護国家の呪力に驚嘆し、宮廷内に灌頂道場(かんじょうどうじょう)という密教の伝授道場を設置するなど、不空を手厚く保護しました。不空は大暦九年(七七四)六月十五日に入寂しましたが、不空によって中国に密教が確立されたのです。
 そんな不空の愛弟子が恵果和尚でした。
 不空はまだ少年だった恵果をひとめ見るなり「この児、密蔵(密教)の器あり」と称嘆し、大切に育てたといいます。破天荒ともいえる不空とは違い、恵果は温和な性格で、身体はあまり強くはありませんでしたが、抜群の頭脳の持ち主でした。いかなる神童も及ばないほど聡明だったといいます。
 恵果は、師から密教経典『金剛頂経』を受け継ぎました。さらにもうひとつの密教の系譜、それは第三祖である竜智を師とする善無畏(ぜんむい)によって中国に伝えられた『大日経』なのですが、この系統も恵果が受け継ぐことになったのです。
 いわば、二本の密教の川が、恵果によって一本の川に融合されたわけです。つまり、今日の密教は恵果によって完成されたことになるのです。
 ところが、ようやく完成されたその密教が、まもなく恵果の入滅と共に消えようとしていました。
「法灯を受け継いでくれる者はいないのか?」
 そんな絶望感に沈み込んでいた恵果の脳裏に、突然、鋭い予感が走りました。
「いや、必ずいるはずだ。そのお方は、我が師の生まれ変わりである。なぜなら、我らは密教をこの世に広めるために、何代にも渡って出会ってきたからだ。師と弟子の関係を交替させながら。不空様の生まれ変わりがきっとおられる。そのお方は、ここを訪れ、我が弟子として密教を受け継ぐ者となろう」

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