HOME書庫空海物語

                    空海物語(パート5)

 パート5

 奇跡的に入唐への道が開かれる
 遣唐船はいつも出港しているわけではなく、二十年に一回くらいしかありませんでした。平安朝初めての遣唐使派遣は、延暦二十二年でした。四隻の船で行くのが通例で、一行は難波の津から出港しました。
 このときの船に空海が乗っていたという記録はありません。おそらく乗ろうと努力したはずですが、うまくいかなかったのでしょう。しかし、この船を逃したら二十年も待たなければならないのです。
「ああ、やはり唐へ渡って密教の真髄を学ぶことは無理なのか?」
 さすがの空海も、こんな思いが脳裏をよぎったかもしれません。それとも空海のことですから「いや、機会はきっとくる。必ず道は開けるのだ」と信じて疑わなかったかもしれません。
 結論からいえば、その船はまもなく暴風雨にさらされて破船し、入唐は中止になってしまったのです。
 風を動力としなければならない帆船でしたから、どうしても風が強く吹く時期に出港しなければならず、台風と紙一重の天候を選んでいました。それがしばしば災いとなったのです。つまり遣唐船に乗り込む人は、みんな死を覚悟のうえだったのです。
 そこで再び翌年二十三年に、遣唐船が派遣されることになりました。そして、前回の難破で帰った乗員は、厄を嫌って再度、乗船することは許されません。そこで、人員の補充が行なわれました。
 まさにチャンスが訪れたのです。
 しかし、どんなに希望しても、国家公認の僧でなければ入唐できません。そこで空海は、出港する直前の四月に正式の得度を受けています。こうして国の免許を駆け込みで取ったのです。
 さらに問題は残っていました。僧の資格を取ったら、次は留学僧に選ばれなければなりません。そのためには政治的な手法が必要でした。
 それに関しては、おそらく空海の一族である佐伯氏に頼み込み、あれこれと手を尽くして留学僧としての推薦を取り付けたと思われます。
 こうして三十一歳の空海は、ついに延暦二十三年(八〇四)五月、遣唐船に乗り込むことができました。
 常識的には不可能と思われた目標を現実のものとさせたのです。前年の遣唐船派遣が暴風で中止になったことは、空海にとって幸運な出来事でした。
 しかしその幸運のチャンスを活かして成功にまで導いたのは、空海自身の熱意と努力の賜物に他なりません。

このページのトップへ