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                    空海物語(パート9)

 パート9 

 奇跡が再び起きて帰国する
 しかし、すぐに帰れといわれても、遣唐船は、あと二十年待たなければやってきません。
「機会は必ず訪れる。それまでは自分を磨きながらじっと待っていればいいのだ」
 たしかに機会はやってくるでしょうが、二十年先では遅すぎます。かといって、こればかりはどうしようもなかったでしょう。
 しかし、空海は思ったはずです。
「はるばる唐まで密教を学びに来たのは、密教を日本に伝え、日本の国を平安にし民衆を救うためである。目標はまだ半分達成されたにすぎない。私はなんとしても日本に帰られなければならないのだ!」
 強い使命感に裏打ちされた信念は、またしても不可能を可能にしてしまうようです。奇跡としか思えないような、信じられないことが起きたのです。
 なんと、臨時の遣唐船がやってきたのでした。
前年、順宗が退位して皇太子の憲宗の即位という慶事があり、憲宗の即位を祝うために、臨時の遣唐使の派遣が決定されたというのです。
 空海は、さっそく唐朝に手紙を書いて許しをもらい、その遣唐船に乗って、無事に帰国することができました。恵果から譲り受けた膨大な量の経典・仏像・仏画・法具などと一緒に。
 九州の太宰府に着いた空海は、二十年の予定が二年で帰国したことで、しばらく太宰府近くの寺に軟禁させられました。しかし空海の持ち帰った品々を見て二十年間の業績に匹敵すると評価され、お咎(とが)めもなく許されます。「日本にない経典、名だけは知られているが実物がない経典、それらはここにほぼそろっている」と空海は言いました。
 先にも触れたように、日本のすべての経典を読んでいなければ、こうは言えません。さもなければ、すでに日本にあるものをもってくるといった無駄が生じていたかもしれないのです。
 まさに空海の行動は、ずっと先まで見通した遠大な計画のもとに実行されていたことがわかり、驚きを禁じ得ません。
 ところで、空海の持ち帰った品々が本当に価値あるものかどうか評価したのが、一年ほど先に帰国していた最澄でした。
 最澄も密教に関する経典などを持ち帰っていましたが、空海のものと比べると、かなりの不備があったことに気づきました。そして空海の持参した品々は申し分なく、高雄山寺に招いて自分も教えを受けたいとの趣旨を朝廷に報告したのです。世俗の虚栄にこだわらず、あくまでも仏法に謙虚なところに最澄の偉大さが伝わってきます。
 こうして空海は、大同四年(八〇九)、嵯峨天皇の代になってようやく朝廷から迎えられました。それまで筑紫の観音寺に待機するように命じられ、帰国して三年間は、持ち帰った経典などの整理をしたといわれます。
 せっかく早く帰国しても、三年も隠遁的な生活をさせられては、空海としても不本意だったに違いないでしょう。しかし桓武天皇が崩御され、平城天皇が帝位につかれても、藤原一族との間で政争が激しく、政治的に混乱していたのです。そうした理由から空海にまで頭が回らなかったのでしょうが、むしろ不安定な政局の中で頭角を現わすよりも、事態が安定するまで息を潜めていたほうが得策だともいえるでしょう。
 空海は、実行力にかけては大変なバイタリティをもっていましたが、静かにじっと機会を待つということにも非凡だったのです。
「機会は必ずやってくる。そう信じて自分を磨き、じっと待っていればいい……」
 実際、平城天皇は三年ほどで嵯峨天皇に譲位されました。空海は和泉の高雄山寺に迎えられ、そこを本拠地として密教の布教と弟子の育成に力を発揮することになります。空海三十五歳のときでした。
 一方、嵯峨天皇は、当時二十四歳。おそらく空海は、密教を広めるために政治的な力が必要だと考えたに違いありません。なんとか嵯峨天皇と親睦関係を築き、後ろ盾になってもらいたいと願っていたのだと思います。
 そのころ、「薬子(くすこ)の変」という政変が起こりました。これは平城天皇が弟の嵯峨天皇に位を譲った後、寵愛していた藤原薬子にそそのかされ、もう一度天皇に復位し、都を奈良の平城に移そうと企てたものです。薬子とその兄の藤原仲成が共謀でクーデターを試みたのです。
 空海がこのチャンスを逃さないはずがありません。さっそく嵯峨天皇に手紙を書き「高雄で護国のための密教修法をしたい」と申し出ました。
 すでにご紹介したように、これはかつて密教の第六祖であり、空海の前世とも考えられている不空が、玄宗皇帝の時代にクーデターが起こったとき(安史の乱)に密教の呪力によって事態を沈静化させたことと、奇しくも重なっているわけです。
 結果的には、クーデターは失敗に終わり、藤原仲成は殺され、薬子は自殺、平城上皇は出家することで沈静化されました。
 空海の思惑どおり、嵯峨天皇と空海はこれを機に親しく交わるようになりました。空海はさらに、新しい文化を好んだ嵯峨天皇に対して、唐から持ち帰った数々の書、狸の毛で作った筆、自分で漢詩を書いた屏風などを贈り続けたのです。こうした「プレゼント作戦」と空海自身の人徳や学識もあって、嵯峨天皇は空海を手厚く保護する後ろ盾となりました。国家の安定と文化の発展という共通の目的のために協力し合い、互いに助け合う親密な交際を続けていくことになったのです。

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