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                    空海物語(パート2)

 パート2

 自分が進むべき方向に苦悩する若き空海
 その頃、すさまじい嵐の海を唐に向けて航海している船団がありました。遣唐船です。四隻あった船のうち一隻は沈没。一隻は日本に逃げ帰り、残る二隻も暴風雨に翻弄され、そのうちの一隻は大きく進路をはずして漂流することになったのです。
 その漂流してしまった船の中に、不空が入寂したまさにその日、すなわち宝亀五年(七七四)六月十五日に生を受けたひとりの男が乗っていました。
 空海と名のる三十一歳の留学僧です。
 密教の秘法を求め、命がけの冒険をおかして唐をめざしていたのです。まるでなにかに憑かれているように。あるいは、誰かに呼ばれているかのように。
「この世の災い、衆生の苦しみを救うには密教より他にはない。なんとしてもその教えを日本に伝えなければならないのだ。なんとしても!」
 金剛石のように堅いその意志を破るものは何もありませんでした。これまでに経験した、長くて困難な修行生活でさえも。
 四国の讃岐国(香川県)の屏風が浦に生まれた空海は、幼名を真魚(まお)といい、何人かの兄弟の三男でした。
 父は大伴氏をルーツにもつ佐伯氏の一族出身で、母は渡来系の氏族・阿刀氏の出身。いわば地方の名門の御曹司ということになります。
 やがて、後に桓武天皇の皇子の侍講(じこう)となった母方の伯父・阿刀大足(あとのおおたり)のもとで、幼少の頃より論語や孝経などの漢籍を習いました。そして神童と呼ばれるほどの利発ぶりを発揮します。
 十五歳で都(平城か長岡京かは不明)にのぼり、十八歳のときに大学の明経科にて、官吏となるために必須の漢学や儒学を学びます。
 勉学への熱中ぶりについて、空海は自らこう語っているほどです。
「冬の夜は雪の明かりで、夏は蛍の明かりで勉強したといわれる孫康や車胤、天井から吊り下げた縄で首を縛り、眠くなると首が締まるようにして勉強したといわれる孫敬などよりずっと勉強した!」
 けれども、空海はその努力に空しいものを感じていました。というのは、大学とは単に一族の期待を担って官吏になるための道だったからです。
 今日でいえば、東大を卒業して高級官僚というエリート・コースを歩んでいたのです。
 当時の大学は、一部の貴族にだけ開かれた、いわば国の官吏を養成する予備校にすぎませんでした。家名を揚げるため、箔をつけるために通う者もたくさんいたようです。
「このまま大学を卒業し、官吏となれば、父も母も親戚も、一族すべては喜ぶだろうが、それが私の歩む道なのだろうか?」
 一方で空海を惹きつけていたのは、仏教でした。当時、文化の中心といえば奈良で、少年の頃から仏教寺院や僧侶たちに接し、仏教に対する関心を深めていったようです。
 しかし一方で、現実の悲惨な光景も映ってきました。華やかな都の陰で嘆き苦しんでいる極貧の人々、病に苦しむ人々を、空海は見過ごすことはありませんでした。
「世の中にはこれほどの悲惨があるというのに、一族の名誉といった小さなことのために人生を費やしていいのか? むしろひとりの人間として、もっと他にやるべきことがあるのではないのか?」
 空海は、この世の栄誉の空しさを感じたといいます。空海にとって真の幸福とは、世の悲惨を救い、人生の苦しみを根本的に解決する道を歩むことだったのです。

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