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                    空海物語(パート12)

 パート12

 日本文化への偉大な貢献と最期
 弘仁十三年六月、最澄が五十六歳で入滅します。新しい文化の担い手は空海だけとなり、民衆は大きな期待を投げかけました。平城上皇は空海のもとで戒律を授かり、学識者らは空海の学問や思想を慕い、高僧たちは密教の伝法を受けにやってきました。その中には、最澄の遺志を継いだ天台宗の僧侶もいました。空海は、新たな文化の指導者として、各界から仰がれるようになったのです。
 これに応えるかのように、嵯峨天皇は、翌年に東寺を密教専門の根本道場として空海に授けました。
 そうして空海は、高野山と京都の東寺の二つの寺を主軸にして、その後、入滅までの十年間、密教文化を広めるために活躍するのです。
 なかでも、注目される業績は、身分や貧富に関係なく学問を学ぶことのできる大学「綜芸種智院」(しゅげいしゅちいん)を開設したことでしょう。
 すでに説明したように、当時の大学は、位の高い氏族が子弟を教育して、後継者や国政の担当者を養成する場所に過ぎませんでした。そのため、学ばれる学問といえば、立身出世のための儒学や漢籍だけでした。
 けれども空海は、すべての人間が等しく仏の子であるとの仏教の立場から、身分の差別なく自由に学問ができる教育機関を望んでいたのです。
「このような計画は単なる理想にすぎない。これまですべて失敗しているではないか」と批判されもしましたが、空海は「さまざまな層の人が力を合わせて進めば必ず成功する」と主張し、教育への高い理念と熱い情熱を傾けました。
 そうして、ついにその情熱が実を結び、東寺の隣に日本初の庶民のための大学「綜芸種智院」を開設したのです。
 綜芸種智院を開設した頃から、空海はひとり寺に籠もって著作や思索にふけるのを好むようになりました。再び、俗界から孤独な世界に行こうとしていたのです。五十八歳のときです。ただし今回は、空海が体調を崩していたことも大きな理由になっていました。天長八年(八三一)六月、「疾にかかって上表して職を辞する奏上」を淳和天皇に差し出します。
「先月の末から、悪質の出来物が体にできて、少しもよくなりません。死後の用意を夢に見たりして、どうやら黄泉の国が近づいてきたようです。(中略)なにとぞ大僧都の位を解いていただいて、自由な身にしてくださいますようお願いいたします」
 この申し入れに対する勅答は次のようなものでした。
「真言密教は伝えられたけれども、それを学ぶ者の数はまだわずかで、奥義にいたりついた者もそれほど多くない。だからあなたの職をいま解くわけにはいかぬ。ゆっくり静養して、もういちど元気になって、真言密教の流布に努めるがよい」とあり、空海の願いは聞き届けられませんでした。
翌年の十一月から、空海は山に入って座禅にふける日々を送ります。そして、弟子たちに次のように告げました。
「私は去る天長九年十一月十二日から五穀を極端に厭い避けて、もっぱら座禅を好むようになった。弟子たちよ、よく聞くがよい。私の余命はあといくばくもなくなった。わが教えを忠実に守ってもらいたい。私は永く山に帰ろうと思う」
 そして、自分の入滅の日を今年(承和二年)の三月二十一日の寅の刻と定め、弟子たちに嘆くなかれと戒めています。
 そして、まさに遺言どおり、承和二年(八三五)三月二十一日、高野山で亡くなったのです。六十二歳でした。朝廷から多くの弔辞が贈られました。
 八十六年後、醍醐天皇から「弘法大師」の称号が贈られました。
 ただし、真言宗では、空海の死を他の仏教者のように入滅、入寂とはいわず「入定した(悟りの境地に入った)」と考えています。すなわち、大日如来とひとつの境地になられて、今なお生きて私たちを見守っていてくださると信じられているのです。
入定する年、高野山において、万灯万華の大会が行なわれ、その願文の中で、空海は次のように語りました。
「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、わが願いも尽きん……」
 すなわち、この世のすべての衆生が救われるまで私の願いは尽きない、私の願いはすべての衆生を救うことだという、途方もない誓願を立てたのです。
 衆生のために身命を惜しまず尽くしたという点では、どの宗派の教祖も同じですが、とくに空海の場合は徹底しています。空海の生涯を振り返ると、ほとんど自分の人生を楽しんだという期間がありません。釈尊でさえ出家するまではこの世の楽しみを味わいましたが、空海は物心ついたときから勉強や修行にあけくれ、文字どおり命をかけて仏法を確立し、その後も民衆の間に入って骨の折れる救済活動を行ない、また本を書いたり弟子を指導するなど、自分のすべてを与え尽くして人生を閉じたのです。

 おわり

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