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                    空海物語(パート11)

 パート11

 民衆の苦しみを癒す
 その後、最澄が天台宗を打ち立てるために南都(奈良の諸大寺)との間で激しい論争を展開していたのに対し、空海は友好的な交際をしていました。空海は若い頃から南都で学んでおり、出身である佐伯氏が南都と深い関係にあったのも理由にあげられるでしょうが、やはり空海のおおらかな性格、および密教がいっさいのものを包み込むという基本理念をもっていたからでしょう。
 密教の考え方によれば、あらゆる仏や菩薩は大日如来から生まれたもの、あるいは大日如来の多様な働きとして現われたものだと解釈します。
 したがって、この世のさまざまな教えもまた、本源的には大日如来から来ているのであり、ひとつに包摂されてしまうのです。
 どんなにささいなことも、大日如来の働きなのです。空海は、位の高い普通の僧なら嫌がってやらないような民衆救済の活動にも、積極的に乗り出していきました。
 四十二歳の頃、四国行脚の旅に出かけました。そして民衆と交わり、信徒の育成に力を注いだのです。これが今日、「四国八十八カ所」の霊場巡りの発端となったことは周知のとおりです。
 さて、最澄が比叡山に居を構えて修行と伝法の本拠地としたように、空海も真言密教のための本格的な道場を築きたいと思いました。
 そこで、その場所を高野山に選び、嵯峨天皇に申請しました。嵯峨天皇は、すぐに許可を与え、三年の歳月を費やして、弘仁十年(八一九)、高野山を開きました。高野山全体のことを金剛峯寺(こんごうぶじ)といいます。
 しばらくの間、空海は高野山に籠もって俗世から離れ、密教の修法に専念しました。空海の人徳と才能を惜しむ民衆は、山にばかり籠もらず都に姿を現わしてほしいと懇願しました。
 それに対して空海は、再び時期がくれば民衆の中で活動するであろうと返答しています。
 空海の生涯を振り返りますと、人里離れた孤独な修行の期間があったかと思うと、民衆と交わって共に歩む期間が、交互に訪れているように感じられます。人間はときに自分自身を深めるために孤独な修行に打ち込むことも必要であり、ときに民衆と交わり民衆を救う菩薩行も必要であるということを、空海が身をもって示してくれているように思われるのです。
 その言葉どおり、弘仁十一年(八二〇)には伝道の旅に出かけています。伝道といっても、ただ説法をしにいっただけではなく、空海の場合は、むしろ実質的な救済活動でした。すなわち、貧しい人々には物を施し、病に苦しむ人々には薬を与え、飲み水に困っている人がいれば、井戸を掘るといった活動をしたのです。伊豆の修善寺の温泉、独鈷湯は、この旅で空海が掘り起こしたものとしてよく知られています。
 また翌年、弘仁十二年(八二一)には、四国讃岐に満濃池(まんのういけ)を築くという大事業を行なっています。
 もともと、干ばつに備えた人口の池で、築かれてから百二十年近くたっていたため傷みもひどく、毎年のように堤防が決壊して田畑が流され、人が死んでいくのでした。朝廷の使いが何年も力を尽くしましたが、うまくいきません。
 そこで讃岐の人々は、空海の法力によって仏天の加護を求め、また大師の人徳によって協力者を得ようと考えて、大師の特派を官に依頼したのです。
 空海は快く当地を訪れると、自ら設計図を画き、現場監督をしたといいます。そして池の畔に密教の修法の祭壇を設けて護摩(ごま)を修し、工事の無事を祈願しました。
 すると、なんとわずか三カ月で工事は完成し、その後、一千数百年後の今日まで一度も決壊したことがないのです。池の内側に向けてアーチ状に築かれた堤防の構造は、物理的に堅牢な工法として、今でも世界中の技術者たちが見学にくるといいます。

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