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                   空海物語(パート7)

 パート7

 幾多の障害を乗り越えてついに到着する
 さて、話を空海に戻しますが、出航後、六日ほどして、遣唐船は暴風雨に見舞われてしまいました。すでに述べたように、第三船は沈没。第四船は日本へ引き返し、空海の乗った第一船は漂流してしまったのです。無事に到着したのは最澄の乗った第二船だけで、明州の鄭県というところにたどりつきました。空海の乗った第一船は、一カ月あまり東シナ海で漂流した後、八月十日、福建省の海岸にようやくたどり着きました。
 思わぬ場所に漂着したこともあって、最初、迎えた福建省の役人が遣唐船であることを疑いました。
いくら事情を説明してもわかってもらえず、ついには船中を検査し、封印して、砂の上にいるように命じられ、海賊のような罪人として扱われてしまいました。
 生死の縁をさまよい、せっかくここまできて挫折してしまってはたまりません。
「なんとしても真の師と出会い、密教を学ばねばならないのだ!」
 目標遂行に対する断固とした意志が、空海に妙案を閃かせたようです。空海は、「福州の観察使に与うるの書」という書状を作って役人に見せました。
 役人は、あまりにも見事なその筆跡と内容に驚き、態度をガラリと変えて笑顔を浮かべ、丁重に慰問の挨拶を述べたといいます。そして、さまざまな物資を供給され、手厚くもてなされたのでした。
ところが、喜ぶのもつかの間、他の人は内陸へ入る許可を得たのに、空海だけは許可が下りません。 理由ははっきりしませんが、文筆にすぐれた空海を唐の官吏が個人的に自分の部下にしたかったとか、遣唐使としてさほど意味のない留学僧を、むやみに国の中に送りたくなかったとか、いろいろ推測されています。
 いずれにしろ、ここであきらめるような空海ではありません。次に空海は意外な行動に出ます。こんなところが空海の面白いところなのですが、いってみれば「ゴマスリ作戦」に出たのです。
 空海は再び筆を取り「福州の観察使に入京せんと請う啓」なる文書を書いて渡しました。
「私はあまり才能のない者ですが、仏教の勉強をするためにこの中国へやってきたのです。あなたは非常に徳が高く、仁の徳は遠近に知れ渡っており、老若男女みなほめ讃えています。また、外には俗風を示し内には仏法を手厚くもてなす方だと聞いております。そして私は名徳をたずね一生懸命勉強するためにこの唐の国に来たのです。なにとぞ都に入ることをお許しください」
ここまで言葉巧みに褒めちぎられては、誰もイヤとはいえないでしょう。空海は遣唐使の一行に加えられたのです。
 しかし、まだまだ目的地はこれからでした。
 この地に二カ月ほど滞在した一行は、十一月三日、長安に向けて陸路旅立っていきました。二千四百キロにも及ぶ気の遠くなるような距離です。しかも、海賊と間違えられて足止めをくったために出発が遅れてしまいました。遣唐使は、正月の朝廷の儀式に日本代表として出席しなければならなかったのです。一行は日の出前から歩き、日が沈んでから休むという強行軍で歩き続けました。さすがの空海もさぞかし辛かったと思います。山野をかけめぐって肉体を鍛えていなかったら、途中で力尽きていた可能性も否定できません。
 とにかくこうして一月半もの短い期間で、十二月二十三日に長安に到着することができました。

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