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                    空海物語(パート6)

 パート6

 天台宗の開祖最澄とはどんな人か
 五月に津を出発した四隻の船は、北九州で船団を整え、七月六日に肥前松浦郡(ひぜんまつらのごおり)の港から外海に向けて唐をめざしました。空海が乗っていた船は第一船で、遣唐大師藤原葛野麻呂(かどのまろ)と一緒でした。また第二船には、天台宗を開いた最澄(さいちょう)が乗っていました。
 空海より七歳上の最澄は、還学僧として唐に向かっていました。還学僧とは、すでに社会的な地位も学識もある僧侶の留学で、半年か一年ほど学んだ後で同じ船で帰国するのが通例でした。
 ところが空海の場合は留学生で、二十年かけて唐で学ばなければならないと定められていたのです。というより、二十年たたないと次の遣唐船が来ないといったほうが正しいかもしれません。
 唐から帰った後、空海は最澄と交流を始めることになり、共に密教を日本に広めたという点でも、空海と最澄はしばしば並び称されます。ここで、最澄とは、どのような人物だったのか、紹介しておきましょう。
 最澄(七六七―八二二)は、近江国滋賀郡古市郷(現在の大津市)の農村の戸長の家に生まれました。父は熱心な仏教徒で、自宅を私寺にし、最澄は幼い頃から仏教を学び、抜群の聡明さを発揮したといいます。十二歳で近江の国分寺に学び、十五歳で得度。南都にのぼって諸大寺で修行を重ね、二十歳のときに東大寺戒壇院にて戒律を受けて僧侶となります。 ところが、突然、南都を離れ、近江に戻って比叡山に隠遁するという意外な行動に出ます。南都には自分が本当にめざしている仏教はないと思ったからでした。そして貧窮にも負けずに、華厳・天台の経典を徹底的に学び尽くす生活を十年近く続けたのです。その純粋なひたむきさという点では、空海と通じるところがあったともいえるでしょう。
 やがて、その学識と志の高さが俗界に知れ渡り、三十歳のときには宮中にて天皇の護持僧となり、また、高雄山神護寺にて法華経の講師を任せられています。
 そして、空海と同じときに、遣唐船に乗って唐に渡航することになったわけです。空海はこのときには無名の一留学僧でしかありませんでしたが、最澄は自他共に認めるエリート僧として、不動の地位を確立していたわけです。
 唐へ到着すると、最澄は台州に入り、天台山の巡礼を終えて竜興寺で研鑽を積み、密教経典や法具などを授かりました。そして一年ほどで同じ遣唐船に乗って帰国します。その後、桓武天皇の厚遇を受けて延暦二十五年に天台宗が公認され、比叡山延暦寺で活動を開始するのです。空海が伝えた密教を東密、最澄が伝えた密教は台密と呼ばれます。
 ところが、桓武天皇の崩御をきっかけに、南都諸宗から攻撃を受け始め、最澄は天台宗の護持と確立のために幾多の教学論争を続けることになります。
 そして五十六歳で入滅。後の歴史を見ると、最澄の比叡山から、法然、親鸞、道元といった仏教の開祖が輩出しており、その意味では鎌倉仏教の源流になった功労者といえるでしょう。

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