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                    空海物語(パート3)

 パート3 

 自らエリートコースをドロップアウトする
 そんな時期、空海は一人の沙門(しゃもん・正式な僧侶ではない自由な仏道行者)と出会い、密教に伝わる「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を伝授されました。
 真言を百万遍唱えれば、抜群の記憶力を授かるとされている秘法です。一回本を読んだだけで内容の一字一句まで完全に覚えられるというのです。善無畏(ぜんむい)によって中国に紹介され、日本へは養老二年(七一八)に道慈(どうじ)によってもたらされた『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法(こくうぞうぼさつのうまんしょがんさいしょうしんだらにぐもんじほう)』という経典に書かれてあります。
 なぜ空海がこの修行に励んだのか、大学での勉強に役立てようとしたのか、それとも仏教に対する関心からなのか、動機ははっきり伝えられていませんが、後に唐へ渡り密教の真髄を学ぶ運命にあったことを考えれば、空海はそのためにこそ、この秘法を学んだのだといえるでしょう。
 そうして、四国の室戸岬などで熱心に修行し、ついに求聞持法(ぐもんじほう)を成就したといいます。ただでさえ聡明な空海の頭が天才になったわけです。
 けれども、変わったのは頭ばかりではありませんでした。
「私はもはや、この世の名誉だとか財産に対する欲望はなくなった。人々の集まる都から離れた場所で生活したいと常に願うようになった」
 以来、俗世から離れた清明な自然の環境に憧れるようになったといいます。いわば、出家修行者の心境に目覚めていったわけです。
 そして結局、大学では、わずか一、二年ほど学んだだけで、誰もが羨むエリート・コースでありながら、しかもトップの成績であったにもかかわらず、あっさりと退学してしまいました。このとき二十歳くらいであったと思われます。
 その後しばらく、正式な仏教者というよりは、修験者のように山岳を巡り歩いて心身を鍛練し、瞑想と思索に専念する日々を過ごしたようです。
 それ以後、、三十一歳で遣唐船に乗り込むまで、空海の足取りははっきりしません。
 一説によりますと、奈良に戻って和泉国槇尾山寺(まきのおさんじ)にて剃髪得度の式をあげ「教海」という僧名を授けられ、大安寺に住して南都六宗の経典を研究した後、二十二歳のとき東大寺戒壇院で仏教僧になるための戒律を授かって「空海」を名乗ったともいわれています。
 ただし、この説は疑問視されており、結局はっきりしたことはわかっていません。
 当時の仏教は、国家の保護を受けて発展し、南都六宗といわれる三論・成実・法相・倶舎・華厳・律の宗派が形成されていました。しかし、仏教を政治的な権力として利用したり、あるいは学問として研究するだけで、とても民衆の救済に貢献しているとはいえない状況だったのです。
 それは、空海の求める仏教ではありませんでした。空海にとって仏教は、学問の対象ではなく、死後に極楽へ行くための信仰でも、心の慰めでさえもなかったのです。
 空海にとって仏教とは、この肉体をもったままで、貧困や病という災いを含め、その存在すべてを救うものでなければなりませんでした。
 すなわち、「死んだらいい所に生まれることができるから、今は貧困や病を我慢しなさい」という教えを受け入れることはできなかったのです。
「この世で救いを得られなくてどうするんだ!」
 これが、仏教に対する空海の思いでした。
「死んでから仏になるのではなく、生きている今、この世において仏にならなければならない!」
 正式な出家僧侶ではないとしても、ひとりの求道者として、人里離れた山野において山岳修行をしたり、諸寺を巡り歩いては高僧の教えを聞いたり、仏教書や経典などを読んで、自分が理想とする仏教を探し求める数年間を送っていたようです。
 特に膨大な量の経典を読破していたようで、後に唐に渡り、唐から持ち帰った経典について「未だ日本に紹介されていない経典、もしくは名だけは知られているが実物がない経典である」と紹介しているくらいなのです。つまり、日本にあるすべての経典を読破し、なおかつその内容を覚えていなければいえない言葉なわけです。

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