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 2002年12月の独想録


 12月5日  鬱病に悩む青年から電話相談を受ける            
 以前、鬱病のために十代後半から精神科に入退院を繰り返している20代後半の青年から相談の電話をもらったことがある。
「鬱病で長い間苦しんでいる僕に、何かいい解決の道はないでしょうか?」
 鬱病がひどいときには、死にたくなるという。いろいろ様子を尋ねたところ、家族の人たちの中にも、やはり心身の障害をもっておられる方がいて、そのために、経済的な苦しみも重くのしかかっているとのことだった。
 この青年の存在だけでも、ひとつの家族が抱える試練としては厳しいものがあるに違いないだろう。だがなお、そのうえ家族の中に心身を病む方がいて、しかも経済苦がのしかかっているというのは、何ともやりきれない思いがした。これほどまでに辛い経験をしなければならない理由が、いったいどこにあるのだろうかと。
 世間を見渡すと、こういっては何だが、ろくでもない人間が何不自由なく幸運に恵まれ、高慢で人を見下して、それでも何のバチも当たる気配なく意気揚々と生きていることもあるというのに、なぜ慎ましく生きているひとつの家族に、こうも不幸や障害ばかり訪れなければならないのか、人生の不条理を感じるばかりである。
「あなたの夢は何ですか?」
 私がそう質問すると、彼は「ヒーラー(治療師)になることです」と答えた。そのために、ある霊的な修行をしているのだという。
「なぜヒーラーになりたいのですか?」
「僕は、この病気でとても苦しみました。だから、苦しんでいる人の気持ちがわかるからです」
「確かに、苦しい人の気持ちは、自分が苦しい思いをしなければ、本当に理解できるものではありませんね。その意味では、あなたの鬱病は、あなたを立派なヒーラーにさせるための試練であるのかもしれません。ところで、今でも死にたいと思うときはありますか?」
「ええ。落ち込みがひどいときは、本当に死んでしまいたくなります」
「その気持ちはよくわかります。でも、もしもヒーラーになって人のためになりたいと思うのであれば、死んではまずいのではありませんか? また、もしもヒーラーになる試練として鬱病に苦しんでいるのだとしたら、死ぬ運命にはなり得ないのではないでしょうか」
「そういわれてみるとそうです。今までに何回か自殺未遂をしましたが、いつも誰かに助けられてきました。なんだか、生かされているような感じなのです」
「どうでしょう。とにかく生きるということを、第一の目的にしませんか。生きている限り、救われる可能性はゼロとはなりません。しかし、死んでしまったら、すべての可能性はゼロになってしまうのですから。とにかく生きること、これを第一に考えてもらえませんか?」
「わかりました。約束します。僕は死にません」
「ぜひ、そうしてください。生きてください。しかしだからといって、あまり何年も先のことは考えないでください。苦しみを背負っているときは、これから何年も、何十年も生きなければならないのかと思うと、どんな人間だって落ち込んでしまいます。ただ、どんな苦しみを背負っていても、一日だけなら耐えられるでしょう。ですから、もし辛いときは、今日一日だけを生きる、そのことを目標にしてみてください」
「わかりました」
「それから、ヒーラーになってから人助けをするのではなく、それも目標として掲げてけっこうだと思いますが、今できることから、どんな小さなことでもいいですから、何らかの人の役に立つことをすることはできませんか? たとえば、同じ苦しむ人の話し相手になってあげるとか。あなたは、自分も苦しい経験をしてきているのですから、誰よりも共感的に話を聞くことができるはずです。それはあなたのような人にしかできないことです。たとえ何の力にはなれなくても、話を聞いてもらうだけで、人はずいぶん気持ちが楽になるのですから」
「ええ。本当にそうです。僕も話を聞いてもらうと、とても気が楽になります」
「逆説的なのですが、重い病気というのは、治そう治そうと力んで、自分自身に意識を向けている間は、あまりよくならないものなのです。軽い病気であれば、治すのだという気持ちが大切なのですが、重い病気は、むしろ、治すことを放棄するといいますか、自分の病気を治そうとして自分に意識を向けるよりは、他の人に意識を向けて、他の人の役に立ったり、他の人を助けてあげようという気持ちをもって、自分自身から意識をそらした方が、実は病気がよくなる傾向があるのです。どうでしょう。そのためにも、今あなたの置かれた場で、何か人のためにしてあげてください。あなたにしかできないことが必ずあるはずですから」
 青年は「やってみます」と明るい声で返事をして電話をきった。

 最近は少なくなったが、以前、占いの本などを書いている時期には、私を占い師か霊能者だと思ったのかもしれないが、こうした相談の電話や手紙をよくいただいたものだ。当時の私は、何かの縁があって、私のもとに相談を持ち込んだのだろうから、何としても悩みを解決してあげよう、解決してあげなければならないんだと、強く力んでいたところがあった。
 けれども、今はそういう力みはあまりない。「治る運命ならば、神様が治してくださるだろう。治らない運命ならば、治らないだろう」という気持ちでいる。
 といっても、冷たくなったというわけではないし、他人事のように突き放して見られるようになった、というわけでもない。
 ひとつには、何かの悩みや苦しみというものは、ある程度、それがいきつくところまでいかなければ解決しないものだとわかってきたこと、そしてその場合は、本人は苦しいかもしれないが、しかし本人が心配するほど、未来の状況は悪くはならない場合が圧倒的に多いということが、わかってきたからだ。
 たとえるなら、浅瀬で溺れてしまう人のようなものである。つまり、その人はあせって体をバタバタするので、そのまま溺れてしまう。しかし、沈んでいく覚悟を決めて身体をまっすぐに伸ばすと、しばらく沈んでいくが、まもなく足が底について助かる。
 同じように、助かろうとしてジタバタする方が、むしろ悪い結果になることがある。それよりも、苦しみに飛び込んでいった方が、しばらくは苦しむとしても、結果的に助かる。人生の苦しみには、こういうケースがけっこう多いことが、何となくわかってきたのだ。
 そして、もうひとつの理由は、「助けなければならない」と力むほど、実はあまり力になってあげられないことの方が多いということもわかったからだ。人を助ける力というのは、たぶん、人間を越えた大きな存在からくるのではないかと思われる。だから「(自分が)助けなければならない」という「我力」が介入すると、偉大な存在からの力が流入しなくなってしまうようなのだ。

 私としては、たとえ相手が苦しみから救われる可能性があろうと、あるいはなかろうと、それは決してわからないのだから、そのような可能性などは考えず(もちろん、技術的に確かな方策があれば、その知識を伝えるけれども)、ただ「どうしたらいいのだろうね」といって、一緒にああでもない、こうでもないと頭を悩ますだけである。そして、自分の心の奥底から湧いてきた思いや考えを、ただ率直に語るだけだ。
 そうしていると、ときおり、何気なく発した私の言葉のひとつが、苦しみの解決に向けてその流れを変える小さなきっかけになることがある。
 だが、それは私から発せられたのではなく、おそらく私を媒介として、大きな存在から発せられたにすぎない。


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 12月12日  決断が人生の可能性を開く             
 世の中にはよい教えがたくさんあり、よい本がたくさんある。いわゆる「ハウツー本」がたくさんあり、「成功する方法」といった類の本などは、洪水のごとく出版されている。ダイエットの本も多い。そして私たちは、そうした本を読んで、目標や夢を実現しようとして実行を開始する。スリムな身体になるために、甘いものを控え、ジョギングなどを始める。英語をマスターするために、高価な英会話セットを購入したりする。ところが、こうした努力は長く続かない。いわゆる「三日坊主」で終わってしまう。英会話セットは、最初の一巻か、せいぜい二巻目くらいまでは手垢で汚れるが、それ以後は新品のまま押入にしまわれていく。
 なぜ、成功や夢を実現するための努力は、いつも短命に終わってしまうのだろうか?
 最初の一日目、願望が実現したすばらしい人生を想像してウキウキし、気合いを入れてさまざまな訓練や練習をする。食べたいものを我慢し、面白いテレビを見るのも我慢し、少しくらい疲れていても、願望実現の興奮のために、熱意をもって努力する。
 二日目。努力するのに少し飽きてくる。そして、まだまだ先に存在する成功や夢よりも、目の先にある確実な安楽や楽しみの方が魅力的で、「少しくらいさぼったっていいだろう」という気持ちが起きる。そして、それを正当化する理屈がいろいろと頭に浮かんでくる。「あまり努力しすぎても、欲求不満がたまって、かえって成功の妨げになるのだ」といった勝手な理屈が浮かんでくる。そして、少し努力の手が緩められる。
 三日目になると、成功や願望のすばらしさが、実感として湧かなくなってくる。「別に、どうしてもそんな成功や夢を実現しなければならない、というほどでもないかな」と思われてくる。「少しくらい太っていたって、着るものでごまかせるし、太めの女性が好きな男性だっているわ」と考えたり、「英会話なんて、ほとんど日本人と接しているんだから、めったに使わない英会話のために、貴重な時間を費やすのは無駄だ。もっと有意義な時間の使い方があるのだ」などと考える。
 そうして努力は、あっさりと幕を閉じてしまう。

 こんな調子で、数多くの願望や夢を抱き、その実現に向けて努力を志すが、そのほとんどは短期間のうちに挫折してしまう。そして結局、平凡な人生で終わってしまう。大きな業績も成功もないが、生活に困るというほどでもない人生に甘んじて終わる。
 もちろん、いわゆる「平凡な人生」が悪いというわけではない。それは本人の気持ちしだいだ。社会的に平凡であっても、本人が納得し満足していれば、それはそれで「成功した人生」なのだ。しかし、願望や夢を抱いていながら、それが実現できないことで後悔の念を持ち続けているのであれば、それは「平凡な人生」ではないだろうか?
 いったいどうして、人間はすぐに夢や願望をあきらめてしまうのだろう?
 あまりいい例ではないが、「ストーカー」という人たちがいる。彼らは、目標とする女性(男性)に対する歪んだ愛情をもっており、別れても、しつこく嫌がらせの電話をしたり、帰宅するのを玄関先で待ちかまえていたりする。晴れの日も雨の日も、何時間も外で待っていることもあるに違いない。しかもそういう行為を、三日どころか、何週間も何ヶ月も、ときには何年も実行することもある。
 これほどの持続した情熱が、もっと建設的な方面に向けられたなら、たいていの願望や夢などは実現できてしまうのではないかと思うほどだ。ところが不幸なことに、自他ともに破滅的な行為にしか情熱を燃やすことができない。

 それにしても、彼らをそこまで執拗にさせるものは、何なのだろうか?
 精神分析的には、何かいわれているのだろうが、私なりに想像するなら、彼らは誰かに承認してもらわなければ、自分の存在意義を感じられないのだと思う。もちろん、これは大なり小なりたいていの人に当てはまるのだが、普通は、相手が自分に関心をもたなくても、がっかりはするだろうが、それほど強い憎悪を覚えることはない。
 ところがストーカーの場合、自分の愛する相手から承認されなければ、自分の存在そのものが否定されたと思いこみ、激しい憎悪がこみあげてくるのではないだろうか。
 普通は、露骨な侮辱を受けたときにだけ、自分自身が否定されたとして激しい怒りを覚えるが、ストーカーの場合、自分に気がないというだけで、自分自身を否定した(ある意味では攻撃した)と思いこんでしまうのかもしれない。強い愛情と憎悪が対になった感情が、彼らの根底にあるような気がする。そこに自分の存在意義がかかっている。だから、必死になるのではないだろうか。
 もしも、スリムにならなければ、自分の存在そのものの否定であると深く思いこんでいれば、そのダイエットは成功するのかもしれない。もしも、英会話が上達しなければ、自分の存在が揺らいでしまうのだとしたら、不屈の努力によって、いつか英会話の達人になるだろう。
 そこには、「必ず目標を達成するのだ」という「決断」がある。「目標が達成できれば、さぞかし素敵だろうなあ」といった浅い願いや夢ではない。「何が何でも、何としても、絶対に実現しなければならないのだ」という堅い決断がある。
 英国の首相チャーチルが、
「Never、Never、Never、Never give up(決して、決して、決して、決してあきらめるな」と、neverを4回も繰り返した言葉を残しているが、これこそが「決断した人」の言葉なのであろう。
 しかし、たいていの人は、「決断」をしない。決断ではなく「願望(そうなればいいなあ)」を動機に始めるから、すぐに挫折してしまう。なせ決断をしないかといえば、自己の存在意義を左右するほどではないからだ。
 ドイツの文豪ヘッセは「私は詩人になるか、さもなければ何ものにもなりたくない」という決断をもっていた。そして彼は詩人になった。彼にとって、詩人になることが、彼の存在意義そのものだったのだ。
「でも、私にはそんな決断などできません」
 そういう人がいるかもしれない。自分には、自己の存在意義を賭けるほどの目標などもっていないと。
 けれども、こんな想像をしてみてほしい。
 いつか、自分が死に際の床に横になったとき、自分の人生を振り返って、その人生は満足のいくものであったかと。「確かに私はそれなりに出世もした。財産もそれなりに蓄えた。子供も孫もできた。家も買った。海外旅行もゴルフも楽しんだ」。
 しかし、何かが足りないことに気づくに違いない。何が足りないというのか?
「いったい、私がこの世の中に存在したことで、どれだけの人が幸せになったというのだろう? たしかに、私は仕事をきちんとしたのだから、それなりに社会貢献はした。しかし、それはすべて自分のためだった。お金をもらうためにすぎなかった。それでは本当に人の幸せに貢献したとはいえない。自分の意志で、人のために生きたという想い出が、私の人生に欠落している!」
 どれほど無償の愛を注いだかということが、人間の真の意味における存在意義を支えるのではないかと、私は信じている。そして、その自覚は、残念ながら、大半は死を目前にする頃になって、ようやく訪れるのだ。
 もしも、その自覚を先取りして、私たちが今、「決断」するならば、その決断によって、この世界に溢れ返っている数多くの不幸な人が、どれほど救われるかわからない可能性をもっていると思う。
 決断には可能性がある。いや、決断こそが、可能性そのものだ。


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 12月20日  天使に戻っていく道                    
 誰もが知っている芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という小説がある。極悪人が、生前、蜘蛛を踏みつけるのをやめたことで、地獄へ落ちたとき、一本の救いの糸が垂れてくる。だが、自分だけが助かろうとして糸が切れてしまうという話だ。
 最後の悲劇的な結末はともかく、蜘蛛を殺さなかったという、たったひとつの慈悲というか、優しさのおかげで、地獄へ落ちても救いが与えられたことになる。
 人間は善のカルマと悪のカルマのバランスによって、その後の運命が決まるといわれるが、神智学の教説によれば、たったひとつの善は、同じレベルと思われる悪よりも、ずっと強く作用するのだという。ひらたくいえば、10悪いことをしても、1つ善いことをすると、その10の悪いカルマが帳消しになるくらい、善のカルマというものは強いらしい。
 善のカルマにはいろいろあるだろうが、やはり優しい行為というのが、その最高のものであろう。優しい性質に生まれた人は、たとえ今まで苦労や苦しみに見舞われてきたとしても、長期的な視点で見れば、その人は「幸運の人」なのだと思う。なぜなら、最終的には必ず救われる運命にあるだろうからだ。生まれながらに優しい性格の人は、まるで天使のような純粋な心をもっているに違いない。

 ところが、この地上は、こうした天使の優しさをもった人にとっては、試練の場所なのだ。世の中には、無私の優しさをもつ人を、平気でだまし、喰いものにする人間が珍しくない。そこまでではないにしても、何の感謝も恩も感じないという人は多い。親切にしてあげても、お礼の一言もないばかりか、陰で悪口をいうとか、裏切るといったことが、平気で行われている。
 天使の優しさをもって生まれた人は、世の中のこういうひどい仕打ちに耐えられない。心を病んでしまったり、その天性の優しさが死んで、冷たく歪んだ性格になってしまったりする。最初から俗的な性格の人間であれば、何であれいい加減にすませてしまうから、それほど人には優しくはないかわりに、それほど冷たくなることもないかもしれない。しかし、純粋な優しさの持ち主が世の中の汚濁によって傷つけられると、その冷たさにおいても、純粋になってしまうことが多いように思われる。

 とはいえ、その優しさの脈動が、完全に死に絶えるということはない。彼(彼女)は、冷たく生きる自分自身に漠然とした違和感を覚え、それが本来の自分自身ではないことを、必ず心のどこかに自覚しているに違いない。そして、しばらくは世の中を呪い、人間に対する不信感を抱いて生きるとしても、いつかまた、本来の自分がよみがえる瞬間がやってくる。
 それは、この非道な世の中にありながらも、なおかつ、純粋な愛を貫いて生きている人に接したときであろう。そういう人は決して多くはないだろうが、皆無でもない。世の中にはどの分野でも超人的な人がいるもので、いかに人からだまされようと、裏切られようと、恩をアダで返されようと、不動の優しさを貫き通す人もいる。鈍いからではなく、人一倍繊細な心をもちながら、そういう芸当をしてのけるのだ。
 まさに人間離れしていると思われるが、そういう人こそが、真の人間ではないだろうか。
 いい加減に人生を生きてきた人は、こういう人を目の前にしても、別に何も感じたりしないだろう。しかし、もともと天使の優しさをもっている人は、たとえいかに心を歪ませてしまったとしても、こういう人を目にしたとき、ハッと目が覚める思いがする。電気が走ったように、心の奥に眠っていたものが目覚めるのである。

 あるいはまた、この汚い世の中で、しかし純粋に生きようとしている若者(もちろん、若者だけとは限らないが)を見たときにも、彼の心が目覚めることもある。彼はそこに、かつての自分の姿を見る。「ああ、やがてこの若者も、この世の中にまみれて、冷たい人間になってしまうのか」と、残念で悔しい思いにかられる。
 そして、懸命に生きようとするその若者を、守ってあげたいという願いが生まれてくる。そんな優しさが、しだいに復活するようになる。それはおそらく、人生の後半か、晩年かもしれないが、いつか彼は、天使に戻っていく道を歩むだろう。
 この世の中で、多少なりとも(物質的に)成功するには、つまり金や名声をつかむには、だましだまされ、裏切り裏切られるという「ゲーム」を演じなければならない。天使の純粋性にとどまっていることはできない。そして中には、その人間性をとことんまで腐らせて、人相まで醜悪にさせてしまっている人もいる。
 だが、常に葛藤し苦悩する気持ちから逃げることなく、現実の汚濁と天使の純粋性との闘いを放棄せずに貫いてきた人は、この世のゲームをしながらも、決してその汚れに染まらない部分をもっている。たとえその姿は悪魔そっくりになってしまったとしても、その目は、疑いようもなく天使のそれなのだ。

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