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 2002年5月の独想録


 5月2日  宗教の持つ偽善性について                
 先日、図書館でモラル(道徳)について学究的に書かれている本を借りてきて読んだ。すると、そこには鉛筆でたくさんの書き込みがされてあった。それを見ると、相当に熱心に勉強していた様子がうかがわれるのだが、図書館の本は公共のものであるから、勝手に書き込みを入れることは、あきらかにモラルに反している行いである。
 この人には、自分がモラルに反した行いをしながら、モラルを研究しているという矛盾を自覚できなかったのだろうか? それとも、モラルを学問として学んでいるだけで、それを実践の生活に反映させるという意志は、もともとないのだろうか?
 見苦しくなったページをめくりながら、思わず考えずにはいられなかった。

 ところで、同時に借りてきたキリスト教関係の本には、驚くべき(当然というべきなのか?)ことが書かれてあった。
 それは、自分自身を含めてキリスト教徒の仲間たちを見ていると、キリストの教え(隣人愛の教え)を、ほとんどの人が実行していないし、実行しようとする気持ちにも欠けているというのである。
 確かに、キリストの教えを完全に実行することは難しい。しかし少なくても、それを実行し、隣人愛に生きようとする意志、その努力の気持ちと、それがうまくできないことへの謙虚さや慎みといった気持ちがまったくなければ、実際のところ、キリスト教徒とはいえないはずである。単に、教会へいってミサに出席し、神に祈ればキリスト教徒というわけでもない。仏教徒にしても、狩猟を趣味にしているお坊さんがいると聞いたことがある。何の罪もなく無心で飛んでいる鳥を、楽しみのために殺すような人間が、生きとし、生けるものへの慈悲を説く仏教徒といえるだろうか。

 私は、このような偽善的な傾向に、人間が陥ってしまう根本的な自己幻想の罠を見るような思いがする。
 すなわち、人間は、自分をひとかどの存在だと思いたい。そこで、自分をキリスト教徒だと名乗るとき、自分の弱点や欠点を隠す格好のカモフラージュになる。なぜなら、キリスト教徒には博愛や高潔さがあり、社会のみじめな底辺で奉仕的に生きている(と思われている、そのようなイメージがある)からだ。
 したがって、自分自身を「キリスト教徒」であると表明すれば、自分は博愛と高貴な存在であると見られるし、社会の底辺でみじめな生活をしていても、それは信仰ゆえにあえて選んだ奉仕的人生なのだと見てもらえるかもしれない。
 要するに、自分をキリスト教徒だと「宣伝」することで、自らの劣等感をごまかすことができる要素をはらんでいるということだ。

 そのような動機で、キリスト教徒であれ、仏教徒であれ、何らかの宗教を信仰しているという人は、たいてい、その教えと行為が一致していない。アメリカでは、無神論者はほとんど悪人だと思われている傾向があるようで、人からそう思われると社会的に不利になるために、しぶしぶ教会に通っている人が多いとも聞く。要するに、キリスト教徒のふりをしているだけなのだ。
 このように、隣人愛のかけらもなく、悪意と嫉妬に満ち、陰で人の悪口をいい、冷淡で誠実さもない「キリスト教徒」がたくさん存在し、酒色に溺れる無慈悲な仏教徒が蔓延するとき、このような宗教の偽善性を嫌って、多くの人が「無神論者」になるのかもしれない。そしてその「無神論者」が、「宗教者」よりも隣人愛を多く実践するといったことが起きたりする。最後に神から迎え入れられるのは、疑いもなく、そうした「無神論者」であろう。
 私個人としては、無神論者になることは好ましいとは思わないが、キリストや仏陀の名を借りた偽善者、すなわち本当の「無神論者」になるよりは、ずっとましだと思う。


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 5月10日  性格を変えるということ                   
 性格を変えたい、と思っている人は多い。努力しだいでは、それなりに人間は変わることはできるだろうし、小さな欠点などもなくすことができるに違いない。。
 しかし、本質的な中核から変わることは、あり得るのだろうか?
 本質とは、その人の人格や根本的な性格ということである。
 たとえば、非常に神経質で細部にこだわるような人が、おおざっぱな性格になるとか、人前で気が小さくなっていいたいこともいえないような人が、誰の前でも臆することなく堂々と自分をさらけ出すといったことが、果たしてできるのか?
 私の幼なじみの友人の中には、そんな人がいる。彼は中学生時代は、実に内気であったが、大人になり、仕事柄、対人関係を要求されるようになると、物怖じしない態度の人間に変わった。
 しかしそれでもなお、彼の本質は変わっていないように、私には思われる。彼は、そうしようと思えば、ある程度は大胆になれるが、やはりそれは彼の本質ではなく、依然、内気な様子をかいま見せることがあるからだ。
 要するに、大人になって「変わる」というのは、「必要ならそのような演技ができる」という、ある種の「能力」を身につけたというだけで、本質が変化したのではないのだろう。

 ある社会で生きていくには、その社会に適応した性格を形成しなければならない。野蛮な社会に生まれたら、繊細な優しさや紳士的節度といった性格は、欠点でしかなくなってしまう。そういう世界では、とにかく攻撃的であることが「よい性格」であり、そうでなければ生きられない。しかし品格ある社会では、そのような人間は「悪い性格」の持ち主であり、「社会不適応者」とされ、やはり生きてはいられない。
 われわれの性格というものは、かなりの部分、社会という環境で生きていくために、なかば仕方なく形成されていくものである。しかしそれは、今述べたように、単なる仮面にすぎない。しかし、小さいときからその仮面を着せられると、ついにはその仮面が本当の自分の性格にぴったりとくっついてしまい、本当の性格を窒息させて、その仮面が自分の性格になってしまうのだろう。
 このような仮面の性格をつけて生きていると、息苦しさを覚えるものである。この人生を、まるで半透明なガラスから見ているような気になってくる。

 それでも、ふと、本当の性格が顔を出し、そのように振る舞える瞬間というものが、まれにだが人生には訪れる。たとえば、誰も知る人のいない国へいって、そこで自分と趣向のあった人たちと出会って関係を結ぶといった体験などをすると、本当の性格が発揮されたりする。そのとき人は、なんだか呼吸が楽にできるようになり、重い鎧を脱いだように軽やかになり、活気に満ちて、若々しくなってくる。年齢よりも老けてしまう人というのは、いくつもの堅い仮面や鎧を身にまとって生きている人なのかもしれない。
 このようなときに、人は本当に性格が変わったように感じられる。しかし実は、長い間の仮面、すなわち、偽りの性格を脱ぎ捨てて、本来の性格に戻った、ということなのだろう。
 もしも、傷つくことを恐れず、拒絶と孤独を恐れず、いかなる苦難も恐れないならば、本当の性格、つまり、本当の自分で生きることは、可能なのかもしれない。
 精神的にまだまだ野蛮なこの社会において、繊細な優しさとセンチメンタルな詩情をもって生きることは、ともすると嘲笑や、つまはじきの対象にされるであろうが、多くの人は、そのような人を笑いながらも、どこか羨ましく思う気持ち、敬慕する気持ちを感じるのではないかと思う。なぜなら、その人の存在が、人の心の奥に眠っている本来の自分を呼び覚ますように思うからである。


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 5月19日  悪の連鎖を断ち切る人                   
 人間は、多くの場合、いい意味でも悪い意味でも、「手本」となる人との出会いによって、その人格や生き方が変化するように思われる。たとえば、意地悪をされたとする。人はたいてい、自分がされたように、人にするものだ。その人は、意識的にせよ無意識的にせよ、今度は別の人に意地悪をする可能性が高くなる。
 もちろん逆に、親切にされたら、その人も人に親切にするようになる傾向がある。
 結局、世の中というものは、このような連鎖が繰り返されて、善くもなれば、悪くもなっていくのだと思う。善い連鎖ならいいが、悪い連鎖が繰り返されたら悲惨だ。
 すなわち、意地悪をされたり、だまされたり、恩を徒で返されたりした人は、同じことを他の人にもやってしまう。その誰かも、また別の誰かに同じことをする。悪の連鎖はみるみる拡大し、ついには世の中全体が取り返しのつかないほど悪くなってしまう。

 だが、たとえ人から意地悪をされても、他の人に意地悪をしない人がいる。その数は決して多くないかもしれないが、そういう人は確かに存在する。
 その人は、悪の連鎖を断ち切る人である。
 まるでウィルスのように蔓延し、世の中を不幸にしていく悪の連鎖が、その人のところで終わりを遂げる。まるで、倒れることのない板が置かれたドミノのように。
 このような人は、本当の意味で非凡な人である。
 まず何よりも、その人は人間のもつ機械的な衝動を克服している。たとえ完璧ではないにしても、人間らしさを発揮できるレベルにまでは。
 悪の連鎖を止めるには、真の勇気と忍耐がなければならない。真に強くなければ、そういう行為はできない。見かけは、当てにならない。いかにも弱々しい外見をした女の子が、悪の連鎖を止めていたりする。自分は意地悪をされても、それを誰かに向けることなく、むしろ逆に、愛と優しさを返していたりする。
 こういう人こそが、真の英雄ではないだろうか。
 こういう人にこそ、「国民栄誉賞」を送るべきではないだろうか。
 連鎖の拡大は、時間と共にみるみる広がっていく。一人が十人に意地悪し、その十人がそれぞれ十人に意地悪したとしたら、ひとつの世代の連鎖だけで100人が意地悪に苦しむ。その100人がさらに十人に意地悪をすれば、二世代後の連鎖では、千人が意地悪に苦しむのだ。
 しかし、もしも自分のところで意地悪の連鎖を止めたら、その人は、100人、千人、一万人、あるいはそれ以上もの人たちを、意地悪から救ったことになる。
 一万人を意地悪から救う人は、英雄でなくて何であろう。

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