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 2002年7月の独想録


 7月3日  運命の正体                           
 運命とは何なのだろうか?
 運命を考える場合、その視野をずっと拡大しなければ解明できない、というのが私の持論である。視野を拡大しなければ、この世で私たちが経験する不運や幸運の真の原因、そして意味を理解することはできないと思うからだ。
 さて、運命という現象を考える一番の根本は、私たちは生命現象として地上に存在している、ということである。
 生命というのは、当たり前であるが、「生きよう」とする運動を持っている。しかも、「よりよく生きよう」としている。このことは、「生命力を高めようとしている存在」と表現することもできるはずである。
 では、生命力を高めるには、どうすればいいのだろうか?
 生命力は、ダイナミックな存在であり、決して静止状態ではない。ダイナミックとは、対極的な要素を幅広く受け入れ、なおかつそれらのバランスをとっている状態のことである。
 たとえば、過保護に育てられた子供は、生命力は強くならない。夏はなるべく暑くなく、冬はなるべく寒くなく、息が切れるような運動をさせることなく育てられた子供は、生命力が弱く、ちょっとしたことで病気になったりするような大人に成長するだろう。これは、生命の意志を無視した生き方である。
 それに対し、限度を超さない限りにおいて、夏は暑い思いをし、冬は寒い思いをし、これ以上はがんばれないというほど身体を動かす子供は、生命力が強く育つはずだ。これは、両極性の幅を延ばしてダイナミズムを拡張させたからである。
 生命力は、そのようにして高まっていくのだ。
 以上は、肉体面における生命力の増強である。しかし生命とは、同時に精神的な存在でもあるから、肉体と精神の両方において、両極性の幅をなるべく拡張させた生き方をしたときに、生命力は増強され、実際、生命は本能的に、そのような生き方をしようとするのだと思う。
 では、精神的な領域における、両極性の拡大とは、何をさしているのか?
 それは、愉快な思いと不愉快な思いである。リラックスと緊張である。換言すれば、それは幸福と不幸であり、喜びと悲しみである。
 私たちは、人生には幸福だけで不幸がなければいいと考える。喜びだけあって、悲しみがなければいいと考える。何もかも恵まれて、不自由しない生活がいいと考える。
 ところが、生命としての観点から考察すると、こういう状態は具合が悪い。
 なぜなら、確実に生命力が衰えてしまうからである。人生に、ある程度の不幸、悲しみ、苦しみがなければ、生命力は萎縮してしまうのである。よく「隠居三年」などといわれるが、退職して年金の生活を始めると三年ほどで死んでしまうという。これは実際、その通りなのかもしれない。
 地上に誕生する前、私たちは「生命」そのものであった。そして、生命である私たちは、生命としての視点から、この地上をどのようにして生きるべきかを計画したのである。
 それは、なるべく安楽で恵まれた生活をするように、という視点からではなく、「なるべく生命力を高められるように」という視点からである。まったく違う価値観に基づいて、現世の運命を計画して生まれてきたのである。
 それが「運命」の正体なのだ。
 両極性の幅をなるべく広げるために、すなわち、喜びはなるべく大きく、苦しみもなるべく大きい運命を経験しようとしているのだ。ひとことでいえば、それは波乱に満ちた人生である。多彩で波乱に満ちた人生こそが、生命力を高め、生命という視点からはもっとも「幸福」であるといえるのだ。
 大きな苦しみを味わうと、生命力は一時的に衰えた状態になる。そこで、その衰えた生命力を回復しようとして、大きな反動がつくのだが、そこで求めるものは、あくまでも「生命力を回復する」ような「幸福」であり、安楽な贅沢などではない。ここがポイントである。
 そこで、地上に誕生する前、生命そのものであった私たちの大半は、地上的な意味での幸福よりも、むしろ苦しみの方に価値をおいて注目する。つまり、生命力を高めるために、自分が許容できる限界まで、なるべく大きな苦しみを経験しようとするのである。
 大きな苦しみを経験した人が、人間的に清められ、物質的な快楽に浸ったりしない人間に生まれ変わっていった例を、私たちは数多く知っている。そのときの彼らの幸福は、物質的快楽ではなく、ある種の、宗教的なものであり、愛に関係したことである。なぜなら、それらこそが、生命力をもたらしてくれるものであり、物質的な快楽などよりもずっと深く、ずっとすばらしい幸せであると、わかっていたからである。
 地上に生まれる前、私たちのだれもが、この高められた生命力だけが味わえるすばらしい幸福を得たいと切望していたのだ。そのために、なるべく大きな苦しみを経験しようという考えをもっていたのである。
 この地上で苦しみの多い人は、まさに勇者なのである。
 ただし、ここには大きな危険もある。
 それは、人によっては、自分が耐えられる限界を越えてしまうところまで苦しみを味わうという計画を立ててしまうことだ。自分では、どれくらいまでの苦しみに耐えられるか、正確には把握できないようである。また、現世での生活いかんによって、きたるべく不運を予想よりも大きくしてしまうといった誤算もあるかもしれない。
 そうして、自分が耐えられる以上の苦しみを受け、つぶれてしまうという危険も出てきてしまう。つまり、ますます生命力を弱めて、そこから立ち直れなくなったり、自ら命を絶ってしまうといったことになる。
 一方、生命力(魂)が強くない人、そのように自分で思っている人は、あまり大きな苦しみを経験するという計画は立てない。そのような人の運命は、地上では、さほど波風がなく、どちらかといえば幸運な一生を送る傾向がある。なかには、まるで苦労もなく怠惰ともいうべき一生を送るような人もいる。けれども、「生命」の視点から見れば、そのような人生は、決して「幸福」であったとはいえない。清められた生命だけが得られる、偉大な喜びを味わうことができないからである。
 それに対して、自分の限界ぎりぎりまでの苦しみを背負い、それに耐え抜いて、生命力を高める境地、あるいは愛に関係する「幸福」をつかんだ人は、この地上の人生は大成功だったといえるだろう。
 こうみると、地上への生まれ変わりは、ある種の「ギャンブル」に近いかもしれない。私たちは、「苦しみ」を賭ける。それが大きければ大きいほど、その投機に成功した場合の利益も大きくなる。
 では、苦しみにつぶれてしまった人は、どうなるのだろうか?
 地上から帰還したとき、今回の人生は失敗だったと思うかもしれないが、それほどがっかりはしない。なぜなら、このギャンブルは、何回も何回も続けられるからだ。まるでルーレット遊びに興じるギャンブラーのように、一生とは、たった一回のプレイにすぎない。一回くらい賭けた金に見合う報酬を取り戻せなかったからといって、がっかりするギャンブラーはいない。生命は、また次の人生に向けて用意を調えることだろう。それに、この人生の苦しみは生命の中に記録されるので、その反動としての幸福が、次の人生で訪れる可能性があることも知っている。だから、たとえ一生が不幸と苦しみだけで終わったとしても、生命の視点から見ると、たいしたことがないと感じるのではないかと思う。
 ところが、がんばればもっと苦しみに耐えられたはずなのに、安楽な一生を送った場合は、生命は後悔するかもしれない。その後悔とは「時間を無駄にした」という後悔である。そのくらい視野を拡大しないと、この世の不幸や運命の意味はつかみきれない。
 肉体をもった私たちの考えでは、不幸や苦しみという運命は不吉で嫌なものだが、生命という視点から見れば、ありがたいものであり、ある意味では「幸運」そのものなのだ。逆説的だが、この世で不幸な人、挫折した人、失敗に苦悩する人、競争に負けた人、病気や障害に苦しむ人たちはすべて、真の幸福への道を歩んでいる人たちなのである。この人たちは、霊的な勝利者への道を歩んでいるエリートなのだ。
 人生において、不運や苦しみが訪れること自体は、決して不幸なことではない。本当に不幸なことは、そのために生命力を萎縮させてしまうことである。


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 7月19日 確固とした生きる指針について          
 人生はどのように生きればいいのか、という問題は、それこそ哲学や宗教のもっとも根幹的なテーマであろう。そして、さまざまな哲学者や宗教家などが、それなりに独自のすぐれた見解を披露している。しかし、私たちがそうした人たちの言説を読んだり聞いたりして、確かにそれはすばらしいと思ったりもするが、そうした見解が、いったいどのような土台に基づいているかが、私には非常に気になるのだ。
 たとえば、ショーペンハウエルだとか、キルケゴールという人は、非常に厭世的な暗い哲学を残した。人生は苦しみであり、孤独に生きるべきだというのだ。もちろん、それはそれなりに説得力がある。
 ただ、彼らの顔を見ると、いかにも暗い顔つきをしており、典型的な鬱病的性格であるといった印象を受ける。仮に、彼らが本当に鬱病だったとすると、鬱病は心理的なトラウマだとか、脳の内分泌的な病気でもあるから、彼らの人生哲学が、つまり彼らのいう「真理」が、そうしたトラウマや内分泌の影響によって生まれ出た結果であるといえなくもない。

 一方、人生を楽観的にとらえている人もいる。そういう人の中には、過去に辛い苦労を乗り越えてきた人もいる。だが、そうした苦しみが現在進行形において、つまり、いま非常に苦しんでいながら、人生を楽観的に論じている人を、あまり知らない。人生はすばらしいものだという肯定的な哲学や思想の持ち主たちの現在の生活は、そこそこ満たされている。
 しかし私は、こういう傾向から出てきた哲学に満足しない。「のど元すぎれば熱さを忘れる」ということわざのように、いかに辛い経験でも、すぎてしまえばたいしたことがなく思えてくるものだ。たいしたことがなく思えてきた状況において、過去の辛かった苦しみを振り返り、そこから楽観的な思想や哲学が生まれたとしても、どこか信用できないものがある。たとえばもし、再びその苦しみのどん底を経験したとしたら、果たしてその楽観的な思想や哲学を受け入れることができるだろうかと思えてしまうのだ。

 たとえ状況が苦しみであろうと幸せであろうと、個人史においてトラウマがあろうとなかろうと、そのようなことに左右されない、確固とした土台に基づいた哲学、そして、それに基づいて提唱される人生の指針が欲しい。
 だから、もしもある人が試練の苦しみの中でもだえながらも、「人生はすばらしい」と提唱したなら、私はその人が「人生はどう生きるべきなのか」について、どう考えているのか、ぜひ知りたいと思う。もしもある人が、過去にも現在にも恵まれた幸せな生活をしていながら、「人生は苦しみだ」と提唱するなら、私はその人が、人生をどのように生きるべきだと考えているのかを、知りたいのだ。

 苦しい経験をすると、他者への同情心が湧いて、優しくなったり、奉仕的な人生を送るようになるなど、人生が変わる人がいる。それはそれで尊いことだと思う。
 だが、たとえばシュバイツァー博士などは、何不自由ない、きわめて恵まれた人生を送っていたにもかかわらず、ふと「自分はこんなに恵まれていていいのか」と疑問を感じ、「あと数年は自分の才能を磨くために、自分のために生きよう。その後は、残された人生のすべてを人類のために捧げよう」といって、その通りにした。
 人間は、自分が痛い思いをして初めて、他人の痛みを知る。そこから思いやりが生まれてくる。ところが、痛い思いをしていないのに、他人の痛みがわかるという人が、この世には存在している。こういう人々の哲学にこそ、普遍的な真理が込められているのではないかと思うのだ。


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 7月25日  精神的な豊かさと恋愛                    
 恋愛というものは、たいてい、人生の初期の段階、すなわち若いときに体験されることが普通であろう。
 生物学的にいえば、恋愛は性欲の産物であり、少なくても性欲が推進力になっている。したがって、肉体が若くなくなり、性ホルモンの分泌が減ると、恋愛への関心もしだいに少なくなってくるといわれる。
 しかし、人間は犬や猿などの動物ではなく、それよりずっと精神的な存在であるから、恋愛のすべてが性欲の産物であるわけではない。そうだとしたら、恋愛相手は、生殖能力にすぐれた異性ならだれでもいいことになってしまう。しかし実際は、それほど単純ではない。恋愛はきわめて精神的な営みでもある。
 したがって、心が貧しければ、貧しい恋愛しかできず、そういう場合は、ほとんど動物の「さかり」と同じようなものとなるだろう。

 そのため、まだ人生経験が浅く、精神的な豊かさという点ではまだこれからという若者が、豊かな恋愛をすることは、とても難しいように思われる。
 個人差はあるが、だいたい心の豊かさというのは、五十歳くらいになってから、早くても四十歳を過ぎてからでないと、手に入れられないように思う。それまでは、心の豊かさといっても、本で読んだり、人から聞いたことをそのまま受け売りしているような感じで、自らの体験に根ざしていないことが多い。しかし人間というものは、いろいろな経験を積んで、思索を深め、人生の酸いも甘いも味わうことによって、心の豊かさを持つようになる。その年齢は、やはり五十歳くらいになってから、人によっては六十歳になってからではないかと思うのだ。

 そのときには、異性に対するものの見方や感じ方も、若者とは違うものとなる。何よりも、異性に対する敬愛といたわりの気持ちが強く出るようになる。単に相手から快感を求めるだけではない、異性に対する無私の愛といったものも出てくる。異性をおおらかに見守り、育ててあげようという、ゆとりをもった気持ち、異性が自分に対してしてくれる、どんなささいなことに対しても捧げられる感謝の気持ちが、まるで花の香りのように、自然と放たれるようになる。
 若いときは、女性を両手で抱いて、その背中に手を回すだけだったものが、その年代になる頃には、片手で女性を抱きながら、もう一方の手で髪をやさしく撫でることができるようにもなる。限りない慈しみに満ちた情愛をもって、ゆっくりと彼女の髪を愛でながら、同時に、髪を愛撫されている女性の気持ちを自らの感触として感じられることも、できるようになる。
 女性の美しさと魅力を味わう喜びとともに、女性の抱える苦悩や悲しみをも、自分の中に同化し、それを共有する喜びをもつようになる。
 このような、いわば懐の深い年代になったときにこそ、男性も女性も、真の意味で異性を愛することの本当の意味を理解できるのだと思う。そして、それこそが恋愛の真髄であり、恋愛のもっとも深い喜びではないだろうか。残念ながらこの喜びは、若者には味わうことができない。

 もしも私が神だったら、人間は老人としてこの世に生まれ、歳とともにどんどん若くなって、最後は赤ちゃんになって、健やかに眠るように死んでいくように創造するだろう。
 そして、五十年か六十年くらい生きて豊かな精神性を身につけ、肉体年齢としては二十歳くらいの若さになったとき、初めて恋をするように創造するだろう。
 そうすれば、人生のもっとも熱いクライマックスを、晩年に設定することができる。恋愛ほど、人と人とが距離をゼロにし、壁を取り払って一体感を味わえるものは、少なくても地上には存在しない。精神的な条件さえ整っていれば、それは人生におけるもっともドラマチックで、もっとも魂を揺さぶる体験となるだろう。
 そのようなすばらしい愛の体験が、最期の方で待っていると思えば、人生がいかに辛くても、人は希望をもって生き続けることができるに違いないのだが……。

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