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 2002年9月の独想録


 9月5日 和音的な愛と、旋律的な愛                
 愛と笑いで患者を癒すという、映画にもなったパッチ・アダムズ医師が来日し、若者と交流したり、老人ホームなどでピエロの格好をしてパフォーマンスをしている様子を、テレビで見た。若者や老人たちと盛んに抱き合い、キスをしていた。この人は、見るからに愛を振りまくことに喜びを見いだす、陽性タイプの情熱家なのだなと感じた。
 ところで、以前、私がある会社に勤めていたとき、営業をしている上司から、遠回しの表現であるが、私は冷たいという意味の説教を受けたことがある。話を聞くと、酒だとかカラオケのつき合いがよくないし、たまにいったとしても、ほとんど物静かにしているだけだというのだ。なぜもっと、仲間と馬鹿話でもして交流できないのか、というのである。
 彼の感覚からいえば、人付き合いを濃厚にして、開けっぴろげな交わりをするところに、人間的なあたたかみがあると考えているように、私には思われた。実際、それがこの社会におけるコミュニケーションの手段として、定着した常識なのであろう。
 けれども、そのようなつき合いだけが、人間のあたたかさの証だとは思わない。
 濃厚な愛情表現をする人があってもいいし、違う愛情表現があってもいいと思うのだ。濃厚な愛情表現は、確かにその雰囲気全体から、たちまち人間的なあたたかみが伝わってくるだろう。パッチ博士は、そういう人なのだろうと思う。
 このタイプの人は、音楽にたとえれば、和音が豊かな曲といえそうだ。和音があると、その音楽は雲のような広がりをもって音に厚みが増し、あたたかみを帯びたものになる。
 一方、和音があまり使われていない曲は、そういった意味でのあたたかみは感じられない。そのかわり、透明感がそこに現れるようになる。
 そのような音楽は「冷たい」かというと、もちろん、そうではない。和音を多用しない「透明な音楽」がもつあたたかさは、メロディを土台としている。優美な旋律により、人間的なあたたかさを感じさせる音楽となるのだ。それは和音のように、一瞬にしては理解されず、しばらく耳を傾け、メロディラインをつかんではじめて理解されるものである。
 和音を多用した音楽は、いかにもあたたかみが感じられるが、ともすると、押しつけがましく、暑苦しく感じられることもある。だが、和音よりも旋律にあたたかみのある音楽は、ちょっと聴いた感じでは冷たく思われるかもしれないが、決して押しつけがましさや、暑苦しく感じさせることはない。それはさりげなく、自然である。
 人間も同じだと思う。いうまでもないが、開けっぴろげという名目で、酒を痛飲したり、カラオケで馬鹿騒ぎをすることが、愛のやさしさの発露とは限らない。とくとくと説教したり、意見をいったりするだけが愛ではない。
 世の中には、静かで透明な愛というものもある。相手の顔を見つめてあげるだけの愛も、黙って何もいわず、相手の話を静かに聞いてあげるだけの愛もある。
 何もいわないからといって、それが冷たいことだろうか? むしろ、何もいわないこと、そのことが、あたたかさということもあるだろう。
 そのような愛には、「自分が主役」という意識はない。濃厚な愛を表現する人の中には、ともすると「自分のために」それをしているような人もいる。自分ばかり一方的に話しかけ、「どうだい、私はこんなにも愛情深いんだよ」といわんばかりの人もいる。こういう人は、自己満足のために相手を利用しているにすぎない。
 透明な愛には、相手を利用する気持ちは少ない。「自分」がないということが、その愛に透明感を与えているからだ。もちろん、それは自己の不在を意味するわけではない。さもなければ、相手は孤独を感じてしまうだろう。
 濃厚な和音的愛の持ち主は、存在感を打ち出して前面から相手を抱擁する。しかし、透明な旋律的愛の持ち主は、姿を隠すように、相手の背後から、そっと肩に手をかけるようにして抱擁する。
 残念ながら、このような旋律的な愛は、あまり社会からは理解されない。たいていのことがそうであるように、目立つパフォーマンスや刺激的なアピールの要素をもたないと、なかなか社会からは認められない。仰々しく抱きしめて、声高に「愛の言葉」をまくしたてる人が、「愛の深い人」であると思われる。ただ沈黙し、相手の目を見つめて微笑むだけの愛は、認められない。実際には、こういう人はたくさんいると思うのだが、その存在を知られずに、潜んでいるのだ。
 けれども、人生の悲しみと絶望を、心底味わった人であれば、「旋律的な愛」が理解できるようになるのだと思う。なぜなら、真の絶望にあるとき、もはや人は、いかなる言葉でも癒されることはないと思うからだ。
 人が真に絶望と悲しみにあるとき、もしそれを癒してくれるものがあるとすれば、それは「どこまでも透明な何か」であろう。社会の虚飾でごまかされ、汚されていない何かではないだろうか。言葉はともすると、虚飾の温床になる。虚飾のすべてはエゴから生まれる。エゴは必ず何かを搾取する。
 しかし、もしも誰かが、いかなる意味でも自分から何かを搾取したり、利用しようとする気持ちがなく、自分のためには「私」から何も求めるものがないのに、それでもなおかつ「私」を求めてくれるとき、そこには「透明さ」がある。透明な愛がそこにある。
 そんな透明な愛に触れるとき、たとえ絶望は絶望のままであろうとも、絶望そのものの中に、生きることの意味を見いだすことがある。それは決して言葉では表現できないだろうが、言葉よりも確実な何かなのだ。


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 9月16日 いつまでも若々しいという人                  
 先日、テレビで、活性酸素を抑制することが、老化を遅らせるポイントだといっていた。活性酸素とは、殺菌や細胞を壊す役割をもった酸素らしい。人間のさまざまな活動を支える大切な要素らしいのだが、過剰にあると、肌の皺やシミ、また内臓面においても、老化を早めるのだという。そこで、こうした活性酸素を抑制するということで、赤ワインなどに含まれるポリフェノールという物質が注目され、一時、流行したが、よほど大量に飲まないと、ほとんど活性酸素をうち消す効果はないのだという。
 では、どうしたらいいかというと、活性酸素を消すのではなく、余分な活性酸素を取り入れないことが大切らしい。結論としては、「腹六分目」くらいの栄養を摂取して、余分なカロリーを取らないことが、唯一、活性酸素の害から解放される方法だと、テレビではいっていた。
 私のことをいうと、30歳までは老けて見られたが、30歳を境にだんだん若く見られるようになっていった。若い頃は、老けて見られて嫌だったが、おかげで今は、そのときの不愉快さを取り戻しているかのように、若く見られている(笑)。
 特に私は、若くあるために何かしているわけではないが、食事の量は少なかったことは確かだ。テレビで、平均的なサラリーマンの一日の食事量がテーブルの上に並べられて紹介されていたが、それを見ると、私はその六割くらいの量しか食べていないかもしれない。もしかしたら、そのことが、若く見られる原因なのかもしれない。ちなみに、私の身長と体重は、高校生のときからまったく変わっていない。
 ところで、これはまた別のテレビ番組であるが、若く見える人は、さぞかし精神年齢が低いと思われるのだが、実際に調べると、若く見える人ほど、精神年齢が高いという結果が出たという。精神年齢とは、ひとことでいうと、社会性があるということで、周囲への気遣いがあるということらしい。
 たとえば、誰かと一緒にいるとき、自分のことばかり話して人の話を聞けないような人は、精神年齢が低く、他の人の話を共感的に聞ける人は精神年齢が高いのだそうだ(だからといって、私は自分のことを精神年齢が高いといいたかったわけではない)。

 今まで、年齢よりもずっと若々しく見える人には何人も会ってきた。いったい、そういう人に共通することは何だろうかと、ふと考えてみた。
 私が思うに、あまりにも恵まれすぎている人は、意外にも老けるのが早いようだ。恵まれて、何の苦労もストレスもないから、さぞかし健康で若々しいのではないかと想像するのだが、どうも、そうではないらしい。とはいえ、ひどい苦しみやストレスは別である。それは人を早く老けさせてしまうだろう。しかし、ある程度の苦労やストレスであれば、それがある方が、人間は若々しくなるようである。

 それと、若々しい人というのは、基本的に自分に合ったことをやっている。たとえば、好きな仕事を一所懸命にやっている。少なくても嫌いな仕事をいやいやながらしている人というのは少ない。ひとことでいえば、前向きで積極的なのだろう。
 老いるというのは、マイナスの蓄積の結果であるという認識がある。実際、その認識は、ある程度は的を射ているかもしれない。肉体に対してよくない生活をしていれば、早いうちから肉体にガタがきて、それがルックス的にも老けてみられる外見を作り出してしまうからだ。要するに、心身を不合理に使用した結果として、老けて見られるのであれば、それは反省しなければならないだろう。
 しかし、そうではなく、もともとそういうルックスなのであれば、むきになって若く見られる必要もないと思う。
 問題は、若く見えるかどうかではなく、実際に若いかどうか、だ。年齢は若くても、(その態度や表情などが)老人のように老けている人がいる。いくら歳が浅くても、こういう人は「若者」とは呼べない。

 では、そもそも「若い」とは、どういうことなのだろうか?
 それは、柔軟な可能性に満ちている、ということではないだろうか? 一般にいわれていることは、歳を取ると、身体も堅くなるが、精神も堅くなり、固定的なものの見方や考え方しかできなくなり、好奇心の範囲が狭くなり、能力的にも、限られた可能性しか残されなくなるということだ。
 だが、歳を取ると、体力や知力が衰えるというのは、実は嘘である。もちろん、肉体の限界まで能力を高めなければならないスポーツ選手は別であるが、日常生活を営む上では、適切な鍛え方を日頃から行っていれば、たとえ70歳を過ぎても、若者と比べてそれほど大きな遜色はない。研究によれば、70歳を過ぎても、トレーニングによって、重いバーベルを持ち上げるほどの筋肉となる。
 また、歳を取ると記憶力が衰えるといわれるが、そんなこともない。もちろん、統計的に若者と記憶力テストをすれば、そういう結果は出るだろうが、歳を取って記憶力が衰えたという人の多くは、年齢のせいというよりは、好奇心や野心(つまり、強い記憶の動機)の欠如だったり、怠けて記憶力を使っていないことが大きな原因ではないのかと思う。実際、60歳を過ぎて1万人もの名前を記憶している女性がテレビに登場していたのを見たことがある。おそるべき記憶力をもった高齢者は、私たちが想像するよりも多いはずだ。いわんや、思考力や推理力といった他の知的機能は、年齢にはあまり作用されないといわれる。
 70歳や80歳を過ぎても、新しいことを習ったり、挑戦したりする人がいる。こういう人こそが若い人なのであろう。しかし、ほとんどの人は、新しいことを習おうという気力そのものがない。そういう気力がないということが、人を老けさせてしまう原因であるに違いない。

 気力がないのは、老人ばかりではない。若者にも気力がない人がいる。
 では、気力がなくなってしまうのは、なぜなのだろうか?
 気力の欠如とは、精神エネルギーが飽和点に達したということである。たとえば、同じことを繰り返していると、しだいに飽きがきて、気力が失われてしまう。
 したがって、気力を失わないようにするには、生活や人生に新鮮な変化や展開をもたらすように、常に工夫していかなければならないのだ。常に人生に新風を招き入れ、新鮮な感動を維持することは、受け身で得られるわけではない。意図的に、そのような操作を加えていく努力をしなければ、人生はつい惰性で流れていってしまう。惰性に流されたら、老けるのもあっというまである。
 変化には、ともすると勇気が必要になる場合もある。勇気をもって、今までにない生活、今までにない経験を、積極的に開拓し、変化と起伏のある人生を演出して、自分に対して常に新しい刺激を与え続けられるならば、決して気力が失われることはなく、そういう人は、いつまでも若々しくあるのだと思う。


                                            このページのトップへ    
 9月21日  「がんばる」という言葉                     
「努力」だとか「根性」といった言葉が流行した時代があった。人々は熱烈に働いて努力して、成功や幸せを勝ち得るものと思っていた。「巨人の星」だとか「明日のジョー」といった、スポーツ根性もののアニメに人気が集まり、子供たちも歯を食いしばってがんばる時期があった。
 しかし今は、「努力するな」「がんばるな」という言葉が流行している。癒し系の本を読むと、「がんばらないで、自分を愛しましょう」などと書かれている。
 たしかに、時代によって、がんばった方がよかったり、がんばらない方がよかったりするのかもしれない。
 先日、久しぶりにオカルト雑誌の『ムー』編集部に電話して、編集者と話をした。それによれば、最近の人気記事の傾向としては、いわゆる「修行もの」「トレーニングもの」は、人気がないのだという。たとえば、超能力を獲得するための瞑想法だとか、超人的な能力を身につけるための肉体的トレーニングなどである。むかしは、こういう記事には人気があったのだが。
 今はどのような記事に人気があるのかというと、楽をして御利益が授かるものだという。具体的には、風水やお守り、おまじないの類である。黄色い置物を東南の方角に置いておけばお金が入るとか、お守りを身に付けるだけで恋人ができるとか、そういったことに人気が集まっているというのだ。
 なるほど、こうした時代に「根性」だとか「がんばれ」といった言葉を唱えても、空しく響くだけであって、「がんばるな」という言葉に人気が集まるのも当然なのかもしれない。

 だが、「がんばるな」という言葉は、ストレスに疲れた現代人における、ひとつの「夢」なのかもしれない。もしも「がんばるな」という言葉を本気にして、この不況で仕事のない時代に生ぬるい仕事をしたら、いっぺんでクビになってしまうであろう。最悪の場合、ホームレスになってしまうかもしれない。がんばるくらいならホームレスになったほうがいいとまで思う人であれば別だが、そこまで徹底できる人はいないだろう。がんばるか、がんばらないかは本人の自由だが、どちらにせよ、それに対する結果や責任は、自分が引き受けなければならない。
「がんばるな」という言葉は、確かにそれを耳にするとホッとするし、人によっては余計な緊張が解けてプラスになるという効果は期待できるとしても、だれも本当にそれを実行できるとは思わないかもしれない。がんばらないで生きられれば、それに越したことはないが、実際にはそれができないので、そういう言葉を耳にして、そうしているつもりになって、心を癒しているだけなのかもしれない。

 ただ、がんばるということは、たぶんに心理的なものである。つまり、本人はがんばっているつもりでも、仕事の内容は効率的ではないということもある。逆に、本人はがんばっている意識はないのだが、能率的にはすぐれているといったこともある。
 たいてい、こういうときというのは、「好きなことに熱中している」ときである。好きなことに熱中している人は、自分はがんばっているという意識はないだろう。それでいて、かなり効果的な仕事をしているだろう。これが理想であろう。
 しかし、こうした理想的な状態になれるというのは、そう多くはない。ほとんどの人は、気の進まない仕事をしているのである。
 私は、人に「がんばれ」というのも間違っているし(励ましの言葉としてであればいいが)、「がんばるな」というのも、間違っているように思う。あるときは精一杯がんばり、あるときはがんばらずに、自分をいたわり癒すようなときがあってもいいと思う。どちらかに固定させるのは正しくないと思う。臨機応変に、柔軟に決めればいいと思うのだ。
 困難な状況におかれたとき、一時的に撤退して、自分を休めるのもいい。それが必要なときもある。だが、撤退して何もしていないと、かえって心安らかでないときもある。こういうときは、「攻撃は最大の防御なり」といわれるように、むしろ、困難に敢然と立ち向かって戦っていた方が、心が安らかになるときもある。
 いずれにしろ、心しておかなければならないのは、私たちは「長距離マラソン」をしているということだ。がんばって、ハイピッチで走るのもいいが、途中で息を切らして倒れてもまずい。かといって、だらだらと歩いたり、寝そべったりしてもまずい。もっともベストなペースで前進することが大切なのだ。問われるのは、最終的に、どのくらい遠くまで走り抜いたか、なのだから。


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 9月26日  いつまでも幸せが続く結婚の条件             
 もうずっと前のこと、テレビで変わった風俗店のことが紹介されていた。中年男性が赤ちゃんの着るような服を着て風俗嬢の膝に頭を乗せ、ほ乳瓶でミルクを飲ませてもらったり、赤ちゃんのようにあやしてもらったり、オムツを取り替えてもらうといったサービス内容だった。それを見たとき、世の中には本当に変わった趣味の持ち主もいるものだなと、いささか気味悪く思った。
 ところが先日、ニュース番組の中で、成人した女性が、男性から赤ちゃんのようにあやしてもらったり、オムツの交換(をするマネ)をしてもらっているシーンが放映されていた。だが、それは風俗店ではなかった。大学の先生の指導のもと、ちゃんとした心理療法のひとつだったのである。
 その女性は、幼少期に親からちゃんとした育児をしてもらわなかったことが原因で、対人的な障害を抱えているのだという。そこで、もう一度、親との関係を体験することで、心のトラウマを癒すのが目的であるらしい。そうした視点で考えると、むかしに見たあの風俗店は、れっきとした心理療法であったといえるのだろうか?
 そういえば、かつてホスピスの心理カウンセラーをしていた頃、死を目前にした患者さんの精神的なサポートをしたことがあった。といっても、ただ話相手になるというだけであったが、そのとき、50歳代前半の、男らしく強そうな男性が、死を間近にひかえて、意識がもうろうとしているときに「お母さん!」と口にするのを耳にした。
 私は、すべての人間にとって、「母親」というのは、まるで魂の故郷のような存在ではないのかと思う。だから、死ぬ直前だとか、非常に絶望的な気持ちになったときに、本能的に母を求める気持ちが働くのではないかと思う。男女を問わず、年齢がいくつになっても、人は「母」を求める気持ちがなくならないのかもしれない。女性の場合は、これに加えて「父親」を求める気持ちも働くのだと思う。
 だが、成人になれば、特殊な風俗店や心理療法に勇気を出して通えるのなら別だが、ほとんどの場合、母親や父親に、今さら赤ちゃんのように甘えることはできない。

 ただ、これを満たしてくれる可能性があるとすれば、それは結婚生活かもしれない。
 夫は妻に対して、母親のように甘えることができる。妻も夫に対して、父親のように甘えることが許される。そのような夫婦であれば、結婚は、幼少時のトラウマを癒す絶好の機会になるかもしれない。もちろん、これには条件が必要である。それは、夫も妻も、子供の役割だけでなく、父親(母親)の役割も、両方できなければならない、ということである。
 たとえば、母性本能が強い女性は、マザコンのような男性に心惹かれ、結婚するかもしれない。しかし、どんなに母性本能が強くても、ときには自分も子供のように甘えたいという気持ちはあるだろう。なのに、夫が甘えるだけであれば、その気持ちを満たすことができず、いずれその結婚生活には不満が伴うようになるのではないだろうか。逆に、男らしいたくましい男性に心惹かれた女性は、甘えるだけで母性本能が満たされないと、やはりどこか空しい思いがしてくるかもしれないし、男性の方も、常にたくましいだけではいられないだろう。妻に甘えたくなり、その母性に期待を寄せるだろう。しかし、そのとき、妻に母性的なものが希薄であれば、その男性もいずれ不満を覚えるのではないだろうか。
 そういうわけで、幸せな結婚生活を永続させるには、夫と妻は、「父親と娘」「母親と息子」という役割を交互にできる資質が必要ではないかと思うのだ。今から結婚するという人は、もしもあなたが男性なら、妻を母親としても、娘としても愛せるようになることが必要かもしれない。あなたが女性なら、夫を父親としても、息子としても愛せるようになることだ。また、そのように愛しあえる相手と結婚することだ。
 そうすれば、断言はできないけれども、きっとその結婚生活は、いつまでも満たされた幸せなものになるのではないかと思う。

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