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 2002年6月の独想録


 6月2日  人生において本当に得なこと、本当に損なこと 
 主婦の人などはよく、新聞そのものよりも、新聞にはさまれてくるチラシの方を熱心に読んでいたりする。そして、どこの店の商品は、どこの店より20円安いとか、そのような検討をする。そして、目当ての商品を求めて遠方の店に時間をかけて行き、他店よりも20円安く買えたことに満足する。
 だが、そこまで行くのに費やした時間を考慮したら、果たして20円安く買ったことが、本当に得をしたのかどうかとなると、やや疑問ではある。おそらく、経済効果としては損であるに違いない。しかし「自分は安く買ったのだ」という精神的な満足感まで考慮すれば、やはり得だったのかもしれない。
 かと思うと、後になって10円安く売っている店があったことを知り、非常に悔しがり、「ああ、10円損をした」といって、その悔しい思いを半日も引きずっていたりする。半日も悔しい思いをするのは、10円損をするよりも、よほど大きな損失ではないだろうか?

 人生には、損をしたとか、得をしたと思えることがつきものであるが、そもそも、本当に損なこと、得なこととは、いったい何なのだろうか?
 たとえば、生まれながらに身体に障害があって、常に医療的な支持を必要とする場合、その医療費は膨大な量にのぼるであろう。したがって、これといって障害のない健康な肉体に生まれたということは、考えようによっては、非常な得をしているといえるだろう。海外で心臓移植をするために、普通の人が当たり前の健康体を手に入れるのに、何千万円も支払わなければならない人もいる。このような人は、生まれながらに借金を背負ってきたような感じである。見方を変えれば、健康な身体を持っているというだけで、何千万円ものお金を持っているのと同じだといえなくもない。
 だが、身体に障害があり、自分も家族も辛い思いはしているが、そのことで家族の愛の絆が深まり、本人も人の愛のあたたかさに満ちあふれたなら、体は健康でも家族どうしが骨肉の争いをしている状況よりも、恵まれているといえるかもしれない。

 ところで、人に嫌われる性格の人がいる。自分勝手だとか、意地悪だとか、皮肉をいうとか、そのような人は、本人は気づかないだけで、膨大な損失を負っていると思われる。たとえば、とてもすばらしい出世や成功のチャンスがあっても、性格が悪くて嫌われているために、その話をもちかけられない、というようなことがあるに違いないからだ。したがって、それほど人に嫌われる性格ではない、どちらかといえば、人に好かれる方なら、それだけで非常に得をしていると考えられる。お金に換算したら、かなりの金額に上るのではないだろうか。
 すばらしい友人をもったら、大変に高額な財産を手に入れたと同じことになるのではないだろうか。まして、それがすばらしい配偶者であったら、宝くじなどに当選するよりも、ずっとずっと、得をしたことになるといえないだろうか。

 給料は高いが、非常なストレスに見舞われ、そのために酒を飲まずにはいられず、酒代が膨大になる上に、身体を壊して医療費がかさんだり、不健康になってしまったり、家族との関係がぎくしゃくしてしまったら、果たしてその人は、本当に高給であることの利益を享受しているといえるのだろうか?
 しかし、たとえ薄給でも、その仕事が好きで、酒を飲んでストレスを解消する必要もなく、毎日が楽しければ、ある意味では高給をもらっているのと同じといえるのではないだろうか。単純に給料の高い安いで、その人の人生が得か損かを決めることはできないように思われる。

 このようにいろいろと考えると、いったい何が得で何が損なのか、実際にはわからないことが多い。だから、あまり目の先の小さな損得で心を乱しているのは、それこそ損であるように思われる。
 仮に、身体に障害があって苦しみ、あるいは何らかの事情でひどい貧乏を強いられる一生を送ったとしても、人生の霊的な目的が「人格の完成」であり、こうした苦難を通して人格を立派にでき、結果として来世は、より高度でより幸せな領域に移行できるのだとしたら、人格の完成など眼中になく、中途半端に得をした人生を送った人などよりも、計り知れない「得」な人生を歩んだといえるのかもしれないのだ。

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