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 2002年3月の独想録


 3月1日  人間は本当に幸せになれるのか?                
 人間は、幸せをつかむことができる存在なのだろうか?
 幸せとは、非常に単純にいってしまえば、「満足感」のことであろう。満足の質や内容が、卑俗的であるか高尚であるかはともかく、満足感のことだと思う。そのため、幸せを入れる器が小さい人は、小さな喜びでもいっぱいになって満足を覚えるだろうし、幸せになるかもしれない。一方、幸せを入れる器が大きな人は、大きな喜びを得ても、満足ではなく、幸せにはなれないかもしれない。
 また、器というのは、しだいに大きくなっていくのが普通ではないだろうか。
 そのため、最初は小さなことで満たされていたが、やがてそれでは満たされなくなり、幸せではなくなってしまう。しかも、その喜びの質も、しだいに高いものになっていくに違いない。最初は、飲み食いしたり、人より出世するのが幸せだと感じていたのに、文学や芸術に接するとか、ボランティア活動をするといった行為のなかに、より大きな幸せを感じるようになっていくように思われる。
 では、そのようにどんどんと器が大きくなり、その質も高いものへと変化していったなら、ついには、人はどのような喜びに、最高の幸せを見いだすようになるのだろう?

 そのときにはおそらく、「愛すること」が、最高の幸せになっているのではないかと思う。自分の幸せに喜ぶばかりではなく、人の幸せを喜ぶことができれば、自分が得られる喜びは無限になるからだ。人を幸せにし、喜ばせる行為とは、つまりは愛するということだろう。
 ところが、愛とは、究極的には自他が一体になることであるから、そのときには相手の苦しみを自分のことのように感じることになるだろう。宮沢賢治は「この世の中にひとりでも不幸な人がいる限り、自分は幸せにはなれない」といったそうだが、それは正しいのかもしれない。悲惨と苦難に満ちあふれたこの地上において、「私は幸せだ」などといえる人は、少なくても愛があるとはいえないだろう。
 こう考えると、愛することは苦しむことになる。
 苦しむのであれば、幸せとはいえないだろう。
 まとめるなら、こういうことだ。すなわち、もし自分だけ幸せならそれでいいというのなら、その人は愛を知らないわけだから、まだ最高の意味では幸せとはいえない。しかし愛を持てば、世界中の苦しむ人に共感して自分も苦しむことになるから、幸せではない、ということだ。
 これは、なんという皮肉なのだろうか?
 人間は、本質的に、幸せになることは不可能な存在だということなのか?

 人は、愛が深くなるほど、自らの幸せを放棄していくであろう。ただし、それは喜びをもって。彼(彼女)は、もはや自分のために人生を生きたりしなくなるだろう。
 彼は、常に苦しい人、貧しい人、弱い人の隣にいるようになるだろう。そして苦しみや痛みを共有するだろう。距離は離れていても、その精神はいつも苦しい人と一緒であろう。たとえどんなに距離が離れていようと、親や兄弟が不幸で苦しんでいるのに「私は幸せだ」などと、はしゃげる人はいないように。幸せの器を限界まで拡大した人にとって、この世界の人はすべて親兄弟なのだから。
 ならば、愛する人は、不幸なのだろうか?
 私は、そうは思わない。
 愛する人は、人の苦しみに苦しむが、自分の苦しみには苦しまない。
 自分のために苦しむのではなく、人のために苦しむ人は、たとえ幸せではないとしても、決して「不幸」であるとはいえない。

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