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 2002年8月の独想録


 8月2日  共感的な理解が相手の欠点を癒す           
 昨日、私の友人から次のような電話をもらった。
 彼女によれば、日頃から仲の悪い同僚がいて、お互いにイライラしていたという。ところが、昨日、ついに今までの鬱憤が爆発して、切れた彼女は徹底的にその人を罵倒してしまった。
 しかし、家に帰って冷静さを取り戻すと、考えれば、相手の気に入らないところは、実は自分自身にもあるのだと気がついたという。つまり、自分自身の嫌な面を相手に見て、それで相手のことが「むかつく」ことがわかったという。そこで、彼女は、まず第一に、自分自身の嫌な面を改めるのだと固い決意をした。そして、以上のような理由から、その人を憎らしく思っていたのだということを、正直に書き、お詫びの言葉を添えてメールで送ったという。
 すると、すぐに返事がきて、実は自分も同じようなことを考えていたといって、向こうも謝ってきた。そうして、長い間の二人のしこりが解けたというのである。
 たいていの場合、憎みあう者どうしは、相手の嫌な面が自分にもあり、それを相手に投影している結果であることが多い。つまり、本当に憎んでいるのは、相手ではなく、自分なのである。
 したがって、もしも相手と和解するには、自分自身の嫌な面を改めるように努力しなければならない。自分が変わることによって、相手も変わる可能性がある。
 実は、ここには非常に深く神秘的な意味がある。究極的な真理からいえば、人間はみなひとつにつながっている。相手と自分に同じ欠点がある場合、それはふたつの欠点をお互いがもっているというよりは、ひとつの欠点をふたりで共有していると考えられるのだ。
 そのため、自分自身の欠点を改めると、なぜか相手の欠点も改まるという現象が起こったりする。もしも、あなたの友達が傲慢で、そのために喧嘩ばかりしているのであれば、自分自身に傲慢さがないかどうか、そしてあるならば、まず自分自身の傲慢さをあらためて謙虚になることだ。そうすると、なぜか相手も謙虚になる。そうしたときに、本当の意味でふたりは見事な和解を実現することができる。相手を変えようとするよりも、自分自身が変わることが大切なのだ。
 しかしながら、このことはひとつの原理であり、実際の人間関係は、もっと複雑で混乱しているので、こうしたシンプルな原理が、常に必ず効果をもたらすとは限らない。いくら自分が変わっても、相手が変わらないことも多い。だが、そういう場合は、自然と相手と縁が遠くなるといったことが起きるようだ。
 いずれにしろ、原理は忠実であるから、基本的には、本当に相手と和解しようと思うならば、まずは自分自身を改めることが先決である。
 ただ、すぐに自分の欠点を改めるのは難しいので、とりあえず最初は、自分の欠点を許すことが大切だと思う。なぜなら、自分の欠点を許せれば、相手の欠点も許せるようになるからだ。
 まじめな人は、自分の欠点をなかなか許せない。それはある意味では立派なことといえるが、自分の欠点を責めたところで、あまり欠点を改めるという点では、実はあまり効率的ではない。なぜなら、欠点とは、「その部分がより多くの理解と愛と癒しを求めている」ことを意味しているからである。欠点を改めるのは、厳しさも必要ではあるが、多くの場合、実は優しさが必要であることが多いのだ。
 世の中には、人をなめているような者もいるが、この種の人は別として、多くの場合、誰かの欠点を癒してあげるのは、それを責めたり説教したりすることによってではなく、その欠点から生じる傷の痛みで、さぞかし辛かっただろうねと、共感的に(同情的にではない)理解してあげることである。みんなが、自分の欠点に痛みを覚えているのだ。欠点のある人は、それだけ愛が必要な人なのだろう。


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 8月7日  人は苦しみから何を学ぶのか?                 
 人間は、苦しみの経験から、何を学ぶのだろうか?
 人生にはいろいろな苦しみがある。失恋の苦しみ、病気の苦しみ、離別の苦しみ、貧困の苦しみ、挫折や失敗の苦しみ、希望が失意に終わった苦しみ、辛い仕事をしなければならない苦しみ、嫌な人間と付き合っていかなければならない苦しみ、罪を犯したことへの悔悟の苦しみ、その他、生きている限り、いろいろな苦しみがある。
 苦しみには、大きく分けて5つの苦しみがあるように思われる。ひとつめは、病気などの肉体的な苦しみである。二つめは、貧乏などの基本的生活が水準に達しない苦しみだ。三つめは、感情が阻害される苦しみで、たとえば失恋や離別などの苦しみである。四つめは、プライドが傷つけられる苦しみで、失敗や挫折などだ。そして最後の五つめは、実存的な苦しみで、生きる意味が見いだせないとか、罪の意識に苦しむといったことである。
 ひとつめの苦しみから、人は忍耐を学ぶかもしれない。ふたつめの苦しみから、人は感謝を学ぶかもしれない。三つめの苦しみから、優しさを学ぶかもしれない。四つめの苦しみからは、謙虚さを学ぶかもしれない。
 では、五つめの苦しみからは、人は何を学ぶのだろうか?
 おそらく、そこから学ぶのは、「こだわりのなさ」ではないかと思う。人間は、生きる意味がなければ、苦しみなどに遭遇した場合などは、とても耐えてはいけない。とはいえ、自分の苦しみに意味を見いだせないという場合も、少なくない。耐えていけなければ、刹那的な快楽や安易な生活に逃避するか、あるいは自殺するかであろう。
 だが、そのいずれも選択できないで、ただ無意味な苦しみに耐えるだけであれば、もはや自分で現状をコントロールする力を失っているわけだから、どうあがいても駄目なことを悟っているはずである。そうなると、ただ流れのままに生きるしかなくなるだろう。
 それほどの苦しみを背負って生きている人であれば、人生のささいなことに、いちいち感情を乱したりしなくなるように思われる。人間としての深い苦しみを経験すると、人は小さなこだわりをなくしていくのではないかと思う。


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 8月27日  独りで生きるということ                     
 おそらく人間は、まったく集団に埋没してもいけないし、まったく孤独に生きるというのも、よくないことであろう。
 常に集団生活だけをして、独りになる時間がほとんどない、という人の問題点は、本当に自分が何を望んでいるのか、わからなくなり、いつしか自分ではない自分(いわゆるペルソナ)で生きてしまいやすい、ということではないだろうか。もちろん、個人差はあるけれども。
 すなわち、人間は誰しも、嫌われるよりは好かれたい。好かれるというのは、要するに、相手の気に入る人間になることである。そこで、もしも相手が、自分に何らかの期待をかけてきたとして、しかし、それは自分の本来の個性とは違うとする。こちらは、できれば相手に好かれたいし、認めてもらいたいので、意識的にしろ、無意識的にしろ、相手に好かれるために、自分の本来の性格を抑制し、相手の期待通りの人間(性格)になろうとする。
 もちろん、性格はそう簡単には変えられないので、実際には、期待された性格になったフリをする、つまり演技をすることになる。
 他にも、たくさんの人と交わっていると、さまざまな期待を自分にかけてくる人がいるので、その期待に応えようとして、数々の虚構の性格、虚構の自己イメージを自分に強制していくようになる。その結果、まるで自分らしくない生き方をするようになり、しだいに、それが窮屈となって、ストレスになってくる。
 だから、ときには、そのような周囲の期待から解放され、独りになって、本当は自分はどんな性格なのか、何を望んでいるのか、どのように振る舞いたいのかを、見つめることが大切になってくる。

 一方、ほとんど人との交際もなく、孤独に生きている人の問題点もまた、同じく自分自身の本当の姿をつかみきれない、ところにある。
 というのも、人間は、自分の都合のいいように、自分自身を解釈しがちだからだ。本当は冷酷なのに、自分では慈悲深いと思っているかもしれない。だが、慈悲深いかどうかは、自分が決めるのではなく、周囲の人が判断することであろう。
 ところが孤独であると、そういう判断をしてくれる人がいないので、自分が思いたいような、勝手な自己像を自分自身であると思いこんでしまう。
 あるいは、自分はダメな人間だと思いこんでいるかもしれないが、周囲の人は優秀だと判断しているかもしれない。
 このように、人は、周囲の人たちを、いわば鏡として、本当の自分自身を知ることができるようになる。

 ところで、集団に生きたいと思う人は一般的であろうけれども、孤独に生きたいと思う人は、どれくらいいるのだろうか?
 私は過去に、何人か、自分は孤独に生きたいという人に会ったことがある。このような人たちは、どこか暗さを秘めているように思われたし、たとえ表面的には明るく振る舞っても、どこか悲しい雰囲気を感じさせるものがあった。
 そのうちのひとりは、子供のときに、親からひどい肉体的な暴力を受けていた。また別の人は、婚約までしていた愛する人が、突然に死んでしまったという悲しい経験をもっていた。ただしこのことが、彼らをして孤独に生きたいと思わせた理由かどうかは、何ともいえない。
 孤独に生きたいと思う人は、独りで生きることに、寂しさを感じないのだろうか?
 それとも、寂しさは感じるけれども、それ以上に楽しいこと(たとえば気楽さや自由といったもの)があるからいい、ということなのだろうか?
 あるいは、誰かと一緒にいるときの方が、寂しさよりも大きな何らかの苦痛を感じるから、孤独に生きたいと思う人もいるかもしれない。
 誰かと一緒にいるときの苦痛とは、相手に気を使うとか、相手の醜い面を見て失望するとか、自分自身に劣等感があるとか、そういった理由なのかもしれない。
 また、「いつか相手から嫌われるだろうから、それならば最初から一緒にいない方がいい」という理由の人もいるかもしれない。「どうせ愛されないのなら、最初から孤独に生きよう」という気持ちは、わからなくもない。実際、たとえ同じ屋根の下に何人もの家族と住んでいても、お互いに深く理解しあえず、愛し合っていなければ、孤独を感じるであろう。むしろ、理解しあえていないということを、まざまざと思い知らされるので、場合によっては、本当に独りで生きるよりも、深刻な孤独を感じることがあるかもしれない。
 だが、いずれにしろ、人間であれば、独りで生きて、まったく寂しさを感じないという人は、ほとんどいないように思われる。ただ仕方なく、独りで生きているという選択をするしかなかったのかもしれない。
 シーンとした部屋に一人でいる寂しさ。何か話しても、誰もそれに応えてくれる人もいない。誰も理解してくれる人もいなければ、自分がここに存在していることを認めてくれる人もいない。そのような寂しさの中にいると、自分自身の存在さえもが、消滅していくような気になってしまうのではないだろうか。
 だが、独りで住んでいようと、誰かと住んでいようと関係なく、「孤独な人」は、世の中に何と多いことだろう。
 だから、誰かが何かをいったら、無視することなく誠意をもって、それに応答してあげたい。その人の気持ちを深く理解してあげたい。そして、その人の存在を認めてあげたい。その人の存在を認めてあげるとは、「私にはあなたが必要なのだ」といって、その人の手をつかみ、引っ張り寄せて、その人を熱く求めることではないだろうか。

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