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 2003年1月の独想録


 1月1日  たとえ最初につまづいても
 何事も、はじめがいいと、その後もペースがとれて順調にいく傾向があるといえるかもしれない。その理由は、おそらく自己暗示である。人間は、最初の印象は非常に強く潜在意識にインプットされる。最初にやったことが、たまたまうまくいかず失敗したりすると、以後、それに対して自信がもてなくなり、失敗の想い出がよみがえって苦手意識をもち、そのためにうまくいかない、といったことがある。
 しかし、たまたまうまくいったりすると、自信が生まれる。自信があれば、うまくいくことの方が多くなる。だから、最初のスタートをうまくやるというのは大切なことだ。
 では、最初がうまくいかずに、つまづいてしまったら、後はうまくいかないのだろうか?
 そんなことはない。偉人たちの過去を研究してみると、最初につまづいたり、うまくいかなかったという例が、意外なほど多いのだ。リンカーンなどは、40歳を過ぎるまで、やることなすこと、すべてが失敗と挫折だった。エジソンなどは小学校に入学してまもなく、知能が低いと先生からいわれて(誤解されて)、退学している。
 最初の作品がまったく受けなかった作家、作曲家などざらであり、出世をかけた最初の演奏会で、体調不良のため舞台にあがれなかった歌手やピアニストもいる。聞くところによれば、最初の文学作品がコンテストに入賞して、華々しく文壇にデビューした作家よりも、自分で売り込みに行き、何回も断られた末にはいあがった作家の方が、その後、長く現役で活躍する傾向があるという。
 実際、最初につまずいた人ほど、最初にうまくいった人よりも、ずっと偉大な成功を成し遂げており、しかも永続している傾向が大きいのだ。
 最初に失敗すれば、その後は自信を失い、うまくいかないと思われるのだが、実は逆で、最初につまづいて失敗した方が、最後には輝かしい勝利をつかんでいるのである。
 これは、いったいなぜなのだろうか?
 考えられる理由としては、最初にうまくいくと、自信はつくだろうが、反面で物事を甘く考えてしまう、ということがあげられると思う。どの世界であろうと、それなりの奥の深さがある。最初に成功すると、「自分ならちょっと努力すれば大丈夫だろう」と考えてしまう。
 だが、そんなことはあり得ない。どの世界であれ、効を成し遂げるには、血の出るような努力が必要である。いつまでも順調にことは運ばない。最初にうまくスタートした人も、いつかは困難や挫折に遭遇する。
 だが、そのときに本当にモノをいうのは、たまたまうまくいったことで身に付いた薄っぺらな自信ではなく、いかなる障害にも負けないという不屈の忍耐なのだ。
 また、真の自信というものは、そういう障害を忍耐で乗り越えたときにこそ、身に付くのであると思う。
 だから、最初の出だしがうまくいった人は、それに感謝しつつも、さらに身を引き締めて前進していくのがいいし、最初がうまくいかなかった人も、決して落ち込む必要もなければ自信を失う必要もない。むしろ、より偉大なるものが待ち受けている道を歩み始めたのだと考えて、前向きに努力していけばいいのだ。


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 1月7日  生命力があるということ
 私は何であれ、そこに「生命力」が感じられないようなものは、好きではない。音楽であっても、いかに端正できれいで技術的に完璧であっても、聞いていて興奮せず、活き活きせず、情熱が感じられないようなものは好きではない。それなら、少しくらい音程やアンサンブルが乱れていても、情熱がみなぎっているような演奏の方がいい。文学でも、いかにも「純文学なんだぞ」といわんばかりのすました小説よりは、荒唐無稽なまでのエンタテイメントの方がいい。学問でも、難解な理論ばかりで、読んでいて少しも感動しないものは、どこかおかしいような気がする。宗教でも、あれをするな、これをするなと、人を縛り付けて、去勢されたのではないかと思うようなおとなしい「善男善女」ばかりを生み出すような教えは好きではない。
 欠点はないがこれといって長所もないような人間よりは、多少の欠点はあるが、大きな長所がある人間の方が好きだ。あるいは、今はそうではないとしても、そうなりたいと願っている人間が好きだ。型にはまり、社会や他人の目を気にし、社会基準に適合しなければならないとビクビクしている人間よりも、型破りで、社会や他人からどう思われようと、堂々として、ときには厚顔無恥なほど悠々としている人間の方が好きだ。
 私が嫌いな人間は、自己満足していて、自分より立場的に強い者には媚び、立場的に弱い者は虐げ、自分が理解できない人間は軽蔑するような人だ。要するに、スケールの小さい人間だ。
 何であれ、活き活きしていなければ、それ以外のものがどんなにすぐれていても、どこかそれは最終的な高見にまで登ってはいないような気がする。


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 1月19日  人生は実験である
 人間にとって、人生とは壮大な実験場なのかもしれない。
 実験というものに失敗はない。期待通りに結果が出ない場合でも、失敗にはならない。そこからデータを得ることができるからだ。実験の目的のひとつは、データを集めることである。エジソンは、電球を発明するに際して1万回も失敗したらしいが、彼はそれを失敗とは呼ばなかった。「電球ができない方法を1万回発見したのだ」といった。負け惜しみではない。何かを生み出すには、「できない」というデータを蓄積することが非常に重要なのだと思う。
 おそらく、人生も同じようなものだ。
 何かやってうまくいかなかったとしても、それは「うまくいかない方法を学んだ」ということなのだ。何も、それですべてが終わったわけではない。失敗して学んだのであれば、それだけ目的に近づいたということなのだ。
 だが、いつまでも「失敗」にクヨクヨするばかりで、そこから教訓を学ぼうとしないならば、それは正真正銘の失敗となってしまうかもしれない。しかし、学ぶ限り、人生に失敗ということはあり得ないといえそうだ。
 だいたい、人間が本当に学ぶというのは、失敗を通して、ではないだろうか。本などで学ぶことができるのは、ほんの表面的な知識だけで、人間性の核となるのは、数多くの失敗をし、そこから教訓を学んで、何度でも立ち直る経験をしてこそ、得られるのではないだろうか。
 その意味では、「失敗をしたことがない」のだとしたら、それこそもっとも悲惨な「失敗」だといえるかもしれない。失敗をたくさん経験してきた人の方が、人間的な度量が深くなるだろう。失敗の経験の少ない人よりも、魅力的になる可能性があることは確かであろう。
 人生という場所が実験場であるならば、失敗をおそれずにどんどんチャレンジするということが、この人生をもっとも有意義に生きる、ということではないだろうか。


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 1月25日  「弱い人」と「強い人」の基準
「弱い人間」だとか「強い人間」といったことは、何が基準となるのだろうか?
 たとえば、「彼は強い人間だ」というとき、その人は多少の苦労だとか障害だとか、人の批判だとか、失敗や挫折などにひるむことなく、目的を追求していく、といったことを意味しているようだ。一方、「弱い人間だ」というときは、逆に、わずかな挫折で傷ついて意気消沈してしまう人をいうことが多い。そして社会は、「強い人」を評価して「弱い人」を評価していない。むしろ、軽蔑の目で見ることが多い。
 だが、このように単純に、人間を「強い人」「弱い人」に分け、その価値が計れるものなのだろうか?
 たとえば、セールスマンなどは、いわゆる「強い人」でなければ勤まらないだろう。数え切れないほどの拒絶にあっても負けずに売り込みをする人でなければ、優秀にはなれない。少しくらいの拒絶や批判などモノともしない力強さがなければならない。ちょっと断られたからといって、クヨクヨと思い悩み「自分はダメな人間なんだ」と沈み込んでいる人は、「弱い人」ということになる。

 だが、果たして、それは本質的にその人の強さや弱さから由来しているのだろうか?
 もしも、人間をモノのように見なし、単なる「金の成る木」としか見なしていなければ、相手の拒絶にあっても傷つくことはないだろう。だが、相手を人間として、それも、それなりに立派な面をもっている人間としての敬意を抱いていれば、相手から拒絶されたときは、傷つくに違いない。たとえ「強いセールスマン」であろうと、心から大切に思う人、愛する人から拒絶されれば、傷つくであろう。
 つまり、相手をどう思うかによって、傷ついたり傷つかなかったりするのではないだろうか。必ずしもその人の本質的な強さとか弱さの問題ではないと思うのだ。
 おおざっぱにいえば、「鈍い人」は傷つかないのだし、「繊細な人」は傷つくのである。強い人がすべて鈍いとはいわないが、鈍い人はしばしば「強い人」に見られる(誤解される?)ことは確かだろう。また、弱い人がすべて繊細とも限らないが、繊細な人は「弱い人」に見られやすい傾向があることも確かである。ところが、強制収容所の経験がある精神医学者V・フランクルがいうには、あの収容所の地獄に耐え抜いた人々は、意外にも「繊細な人たち」だったという。

 ところで、社会のあり方によって、強い人と弱い人の判断基準は違ってくるだろう。
 たとえば原始時代であれば、こん棒をブンブン振り回すような男が「強い人」だったに違いないが、現代でそんなことしたら、単なる野蛮人としか見られない。
 あるいは、これは今なおまだ残っているかもしれないが、「大酒を飲む」ような男は「強い人」だと見なされることが多い。牛飲馬食などという言葉があるが、そういう男性は、何となくエネルギッシュで強く見られるようである。しかし長期的に見ると、そういう男性は盛りを過ぎるとたちまち成人病になって、みるみる枯れ木のようになってしまったりする。ところが、若いうちから節制して食事をコントロールしている人は、何となくひ弱に見られたりもするが、結局はいつまでも若々しく、バイタリティある行動を続けていったりもするだろう。
 前近代的な、重工業が盛んな時代では、巨大なモーターは「強さ」の象徴であった。何百ワットの高圧電流を流すと、どんなに重い物でもぐんぐんと持ち上げたりする。
 ところが、今日の情報化社会における「強さ」の基準は、そういう原始的なモーターではないのだ。それは、パソコンなどに入っている集積回路である。パソコンの頭脳であるCPUだとかICチップなどは、静電気が流れたくらいで簡単に壊れてしまう。何百ワットの電気が流れても平気なモーターからすれば、何という「弱さ」であろう。
 だが、これは前近代的な基準に照らしての強さなのだ。
 情報化時代の現代では、いかに繊細で機敏で集積された構造をもっているかが「強さ」の基準だといえよう。情報をいかに処理できるかで、それこそ巨大モーターを設置している工場など、たちまちスクラップ置き場に追いやることさえできるのだ。

 人間も同じなのかもしれない。マッチョで大酒を飲み、人の気持ちに無神経で、趣味といえばギャンブルくらいしかない人間が「強い人」と呼ばれる時代は、もう過去のものである。現代における「強い人」とは、幅広い情報収集と処理の能力をもち、自己コントロールができ、人の気持ちに繊細で(顧客の気持ちに敏感でなければ商売もうまくいかない!)、芸術的なセンスと理解力をもった人こそが、「強い人」ではないだろうか。この価値観は、今後、ますます明らかになっていくと思う。
 とはいえ、冒頭でも述べたように、こういう人は傷つきやすい。それがネックになるということも、現実にはある。
 ただ、傷つきやすいということは、必ずしも悪いことではない。また、それがそのまま弱さに結びつく、とも限らない。
 もし傷つくことを放棄すれば、人生の繊細な感動と喜びも放棄することになるだろう。傷つくことを知らない人間は、チャイコフスキーの音楽などを聴いたって、何の感動もしないだろう。言い換えれば、芸術の感動を捨てなければならないだろう。
 人生を真に生きるとは、ある意味で、常に傷つきながら生きる、ということではないのだろうか。
 もしも晩年、死ぬ間際になって、過去を振り返ったとき、傷ついたことのない人生をよかったと思うだろうか?
 たぶん、思わないだろう。むしろ、傷だらけの人生であったことの方が、喜ばしく思うに違いない。
 なぜなら、それは人生の微妙な色合いまでも味わったという証に他ならないからだ。


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 1月29日  困難な状況から脱出するために
 繊細な人は、傷つきやすい人でもある。その傷が深いと、立ち直れなくなってしまう可能性もある。しかし、いつの時代でも、繊細な感性は必要である。したがって、傷つきながらも、挫けることなく生きられるようにならなければならない。
 それには、「楽観的」であることが必要かもしれない。といっても、単なる楽観主義ではなく、あせったり不安を覚えることなく、その点では楽観的でありながらも、理性的には危機感をもって、今できる限りの可能性を冷静に探し出そうとすることではないだろうか。
 ところで、今、深刻な社会問題となっていることのひとつに、年間2万人を越える自殺者の数がある。とくに、ここ数年は、リストラや倒産などが原因で自殺する40代から50代の男性が急増しているといい、その数は世界一だそうだ。ちなみに60代になると年金が当てにできるので、経済的な理由で自殺する人は少なくなるそうだが、その代わり、健康面の悩みで自殺する割合が増加するという(お金と健康の両方がそろわなければ生きられないという、厳しい人生の現実を見る思いがする)。
 経済的な理由で自殺するという場合、かなりの部分において、精神や考え方がモノをいうように思われる。つまり、極端にいえば、経済的に破綻し、何もかも失ってホームレスになったとしても、それでも平気で(平気とまではいえないかもしれないが)、生きている人はたくさんいる。よほどのことがない限り、物理的な原因で、つまり食べ物が食べられなくて死ぬということは、まだ今の日本では少ない。だが、世界を見渡せば、食物がなくて餓死している人はたくさんいる。

 おそらく自殺の理由は、経済的に破綻したことで、この先、借金を返すために、貧乏のどん底の生活を死ぬまで送らなければならず、家族にも苦労をかけてしまうといった絶望感のためで、そんな苦しい思いをするくらいなら、いっそのこと死んだ方がましだと思うのかも知れない。あるいは、今までいい暮らしをしてきたのに、いきなり惨めな生活をすることにプライドが耐えられず、死を選ぶ人もいるかもしれない。なかには、保険金を家族にあげるために死を選ばなければならない、ということもあるかもしれない。
 現代社会では、お金のためだけに嫌々ながら会社勤めをしている人は、砂漠の真ん中でピラミッドを建築させられている奴隷と、そう大差はないように思われる。
 砂漠の真ん中で働く奴隷に、足かせははめられていない。というのも、砂漠の真ん中にいては、どこに逃げようと、それは死を意味するからだ。だから、足かせは必要ない。逃げようとする奴隷がいないからである。
 同じように、リストラと就職難の今日では、会社を辞めることは、そのまま経済的な「死」に直結することになる。だから、古代の奴隷よりも辛い労働をさせられても、会社を辞められないで、あげくの果てに過労死を招いてしまう人が大勢いるのだと思う。たとえ、そこまでいかなくても、人生とはすなわち「時間」であり、その貴重な時間の大半を、ストレスがたまるだけの苦しくて嫌なことに費やしているということは、実質的に人生を捨てているようなものであり、死んでいるのとそう変わりはないのではないかとさえ思いたくなる。
 これでは、たとえ経済的な破綻がなくても、死んだ方が楽だと思い、衝動的に死んでしまうといったことがあっても、おかしくはない(ただし以上の見解は、「仕事が嫌な人」の場合であって、仕事が好きで楽しいというサラリーマンは、決して「奴隷」ではない)。

 さて、このように自殺に追い込まれがちな中年男性と、古代の砂漠の奴隷とが、状況的に同じであるとするなら、古代の砂漠の奴隷状態から脱出する方法がわかるなら、現代の苦境から脱出する方法も、見つかるかもしれない。
 もしあなたなら、砂漠の真ん中の奴隷状態から、どのようにして脱出するだろうか?
「何とかなるさ」などと楽観的に(愚鈍に)なって、そのまま砂漠に逃げても、死ぬだけであろう。かといって、弱気になり、このまま奴隷状態では、すでに死んだも同然か、実際に過労で死んでしまうかもしれない。
 いったい、どうしたらいいのだろうか?
 具体的な方法はともかく、あらゆる困難の脱出に際して共通するのは、最初に述べたように、心情的には楽観的で、あせりや恐怖や不安の気持ちを捨てること、しかし理性的には危機感をもって、あらゆる対処法を繊細な神経で探し求めることではないかと思うのだ。

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