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 2003年2月の独想録


 2月8日  1万円のゴッホ
 以前テレビで、作者不詳の絵が1万円でオークションにかけられる予定だったが、実はこれがゴッホの絵で、数千万円の値がつくだろうというニュースが放映されていた。
 たぶん、このニュースを見た人は、同じことを思ったに違いない。すなわち、いったい絵画の価値は何で決まるのだろうかと。
 かつて、バブルの時代、ゴッホだとかルノアールといった人たちの絵が、投資目的で売買されていた。それこそ、絵の価値などまるで知らない人たちが、命を削って描いた絵をもてあそんでいたのである。
 最初に、この絵に1万円の値段がつけられたということは、この絵自体の値打ちは(この社会の価値基準からすると)、1万円ほどの魅力しかなかった、ということである。さぞかし天国のゴッホは、苦笑いをしているに違いない。
 あるいは、この絵は、実際にたいしたことはなく、ゴッホの失敗作なのかもしれない。私は絵画の鑑賞力は皆無なので、実際にこの絵がどのくらいすばらしいのかはわからないのだが、専門家はそう評価したのかもしれない。ところが、これがゴッホの絵だとわかって高値がついた。ということは、これはゴッホの「形見」という意味における価値ということになる。だから、絵でなくなっていい。ゴッホの使った「筆」であっても、高値で取引されるということだ。
 わかりやすくいえば、「ブランド」の力である。偽のブランド・バッグだと気づかずにずっと愛用している人もいる。本質的な価値ではなく、観念的な価値なのだ。
 そこで、こう考えてしまうのは、意地の悪いことだろうか?
 すなわち、最初からこの絵がゴッホの作だとわかっていたら、「うーむ、さすがにゴッホの作だけあって、すばらしい絵だ!」という人が、かなりいるのではないだろうかと。
 同じことは、音楽でも、あるいは文学でもいえるだろう。有名な小説家が描いた作品を「つまらない」ということには勇気がいる。「自分は、世の中がよいと認めているこの作品のよさを理解する才能をもっていないのだ」ということを暴露するようなものだからだ。
 そして、同じことは、「宗教」の世界にもいえる。
 この教えはイエスがいったことである。モーセが、モハンムドが、お釈迦様が、親鸞様が、日蓮さまがいったことである。その教えに対して「この教えは間違っている」などと、とてもいえたものではない。国によっては村八分にされたり殺されたりすることだってある。
 だが、私は正直なところ、彼らの残した教えの中には、間違った教え、くだらない教えがけっこうあると思っている。しかしそういうと、「何と傲慢な奴だ。おまえは未熟だからわからないのだ。あの偉大なる聖者様が間違ったことをいうわけはないだろう」といわれるような気もする。
 しかし、私はまたしても、このような意地悪なことを考えてしまう。
 すなわち、歴史の研究が進み、イエスがいったこと、釈迦がいったことの(全部とはいわないにしても、その一部が)、実は何の関係もない平凡な市民が、いたずらに加筆したものであったことが判明したら、どうなってしまうのか、ということだ。
 「うすうす変だとは思っていたが、やはり偽物だったか。けれども、今までそれを本当の教えだと信じ込もうとしてきたし、人にもそのように説教してきたのだから、それを今さら、それが偽物だったとはいえない・・・」
 そして、そんな歴史学は間違っているのだと主張するかもしれない。そうして正しい教えを排除し、これまでの間違った教えを保持しようとするかもしれない。つまりは、自分たちのメンツを保つために。
 それを見て、イエスも釈迦も、天国で苦笑いをすることだろう。そしていうだろう。「ああ、地上の者たちは、私たちの“ブランド”を信仰しているだけだ・・・」と。


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 2月18日  この世で幸せな人は誰か? 
 生まれつき心臓に障害をもって生まれ、その治療のために海外へ行く人もいる。そのお金は何千万円もかかる。お金がなくて死んでしまう人もいる。人並みの体になるために、いわば、人生のスタートラインにつくというだけで。健康な心臓をもっている人は、それだけで数千万円をもっていることになる。
 「一千万円あげるから、その目をひとつくれないか」といわれても、多くの人は断るに違いない。しかしこの世の悲劇は、一千万円どころか、一万円くらいで自分の目を売らなければ(経済的に)生きていけない人も数多くいる、ということなのだ。
 子供が怪我をして障害者になるといった不幸に泣く人もいる。だが、子供が死んでしまった人から見れば、その人はまだ幸せであり、たとえ障害者になったとしても、その程度ですんだ親をうらやむかもしれない。
 子供を失った親は、こんなことになるならば、最初から子供なんかもたなければよかったと思うだろうか? そう思う親もいるかもしれない。けれども、おそらく大多数の親はそう思わないだろう。たとえ短い間だったにせよ、子供と一緒に生きた歳月を、かけがえのないものと思うだろう。
 だとしたら、ずっと独身で、あるいは結婚しても子供がない人は、子供を失った人よりも不幸だということになるのか? しかし、その人たちは、「子供のことでいろいろ苦労するなら、いない方が自分の人生を楽しめて幸せだ」と思うかもしれない。
 肉体は健康だが、顔が魅力的でないといって悩む人がいる。健康で美貌の持ち主だが、頭が悪いといって悩む人もいる。健康で美貌があって頭もよくお金持ちなのに、皇族出身ではないといって悩む人もいるらしい。
 食べる物も着る物も満足になく、凍える一夜を過ごし、日が昇ったことに幸せを感じる人もいる。たった一枚のパンを得て幸せを感じる人もいれば、世界一の大金持ちなのに、病気のために一枚のパンしか食べられないといって嘆き悲しむ人もいる。
 幸せは、どこにあるのだろう?
 結局のところ、自分が幸せだと思った人が、幸せということなのか?
 それならば、残飯を食べて横になっている豚は幸せなのか? 豚が自分を幸せだと思っているかどうかはわからないが、顔つきをみると幸せそうにも見える。豚は幸せなのか? もうすぐ人間の胃袋に入ってしまう彼らは幸せなのか? ただ食べて太るだけの彼らは?
 幸せなど、この世には存在しないのだろうか?
 「幸せな人」を見てみたい。豚のような意味での幸せではなく、本当に幸せな人を。
 その人がどんな顔つきをしているのか見てみたい。
 多くの人が泣き叫んでいるこの世界を前にして、どんな表情を浮かべているのか、この目でしっかりと見てみたい。
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