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 2003年9月の独想録


 9月21日  「いい人」であるのをやめる
 最近、ある病院にカウンセラーとして行くようになり、死を目前としている患者さんの心の励ましや、外来でやってくるさまざまな心の問題を抱えた人の相談に応じている。前のカウンセラーの先生が体調不良で辞めてしまったので、新たなカウンセラーが見つかるまでのピンチヒッターである。
 患者を癒すには、時間をかけることは大切だが、ただ時間さえかければいいというわけでもない。まるで生殺しのように、いつまでも「飼い慣らす」ようなマネはできない。患者を癒すには、ときには冒険的な試みも必要だと思っている。
 ところが、そのような「冒険」は、患者もその親も、そして一般的にはカウンセラーも、カウンセラーを抱える病院も、好まない。失敗のリスクや苦労を思うと怖くなり、結局のところ、カウンセリングというよりは、単なる「逃避的な慰め」にすぎないものとなって、いつまでもダラダラと時間ばかりが過ぎてしまうようになる。体裁のいい「励ましの言葉」でもかけていれば、「いいカウンセラー」になれる。そうしていつまでもいつまでも、カウンセラーと患者は「仲のいい関係」を保ち続けていく。私もカウンセラーを「生業」にしていたら、そのようにしてしまうだろうか? けれども、カウンセラーの仕事は、患者を少しでも早く自立させて、自分のところから「追い出す」ことにあるのだ。
 しかし、「いいカウンセラー」では、そのようなことはできない。
 この病院に、癌が全身に転移して苦しんでいる40歳の女性患者がいた。2年前に夫を過労死で亡くし、二人のまだ幼い子供がいた。まじめで礼儀正しく、他者への気遣いに溢れた素敵な女性だった。なぜこんないい人が、こんなにも過酷な人生の試練に立たされなければならないのかと思うと胸が痛んだ。そんな彼女がポツリといった。
「もう、“いい嫁”でいることはやめるんです・・・」。
 この言葉から、今までどのような人生の苦しみを味わってきたか、そしておそらくは、そのことが癌という病気を招いた遠因であろうことは、容易に想像ができた。たまたまこの時期に読んだある医師の記事に、次のような文章が書かれてあった。
「発癌している人たちは、がんばり屋で無理している人、あとは家庭内不和とか、独特のストレスを抱え込んだ人たちである」
 人はなぜ、発癌するほどまでに「いい人」になろうとするのだろうか?
 私たちは、「いい人」である必要はない。
 宗教や道徳では「いい人になれ」とばかり説く。品行方正で、みだらなことはしない善男善女になれと。「さもなければ悪い報いが訪れるぞ、地獄へ堕ちるぞ」などと脅迫しながら。
 けれども、私からいわせれば、そのような人たちは単に「去勢された人たち」に過ぎない。悪いことはしないかもしれないが、たいしていいこともしない。小さなことにいちいちこだわり「これをしてはダメ、これもしてはダメ」などと考えてばかりいる。文明社会に、ヘンに飼い慣らされている。
 しかし人間は、「野生の血」を忘れてはならない。
 野生のもつ生命力と、野生の勘といったものが、人間が生きていくにも必要なのだ。そんな野生性を発揮し続けるには、冒険的に生きなければならない。過保護で安易な慰めばかり求めていては、野生の生命力や勘といったものは死に絶えてしまう。そして結局のところ、癌であろうと心の病であろうと、それを癒すのは、野生の生命がもつ自然治癒力なのではないだろうか。
 「いい人」なんかよりも、「野生の人」になろう。

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